花車 神明社(中村区名駅5)から堀川に架かる錦橋を渡り、北の桜橋方向の丸の内1丁目の白山神社へ。
名古屋市中区丸の内1丁目「白山神社」鎮座地周辺。
写真は桜通りから東方向のもの。
桜通り周囲のオフィスビルが立ち並ぶ一帯に赤い幟と小さな神明鳥居の姿がある。
上は明治31年(1891)の当地と、現在の比較。
当時は社頭から西の堀川に架かる桜橋は存在せず、昭和12年(1937)になって架けられています。
ビジネス街の歩道沿いに間口の狭い社地が与えられ、木造の神明鳥居と真新しい綺麗な玉垣が社地を囲む。
ビルの森の中の僅かな隙間で、時の流れから取り残された様にポツンと白山神社が鎮座しています。
社頭左の白山神社解説板、内容は以下。
「祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)。
元白山権現と称した。
創建は明らかではないが、加賀国(石川県)の白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)を勧請したのが始まりといわれる。
応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(廣井八幡宮)の境内続きの末社であった。
慶長の検地の際、境内が二分された。
延宝5年(1677)、広井八幡宮の祭礼の初めより、八幡宮の御旅所として神輿の渡御(とぎょ)があった。
昭和12年(1937)、桜通りの開地により境内地は大幅に減少した。
昭和39年(1964)、現在地に移る。」
白玉稲荷大明神説板、内容は以下。
「山城国伏見より勧請
御祭神 宇迦之御魂神。
御由緒 創建年月不詳
御神徳 護国豊穣、商売繁盛、産業興隆、家内安全、芸能上達。」
三方は見上げるばかりのビルの森に囲まれ、いかにもビジネス街の神社の様相。
今から約300年ほど前の寛延3年(1750)に寄進された鉢。
名古屋城築城にあわせ堀川が開削されたのが1610年頃とされるので、既に水運が盛んになり四間道が整備された後に寄進された鉢。
立派な髭を持つ龍口から清水は注がれていなかった。
参道左には境内末社が連なり、右側に赤い幟と奉納鳥居が連なる「白玉稲荷社」が鎮座しています。
白山神社の由緒に依れば
「祭神は菊理媛命神、創建は明らかではない。
加賀国石川郷の白山比咩神社から勧請された。
「祭神は菊理媛命(ククリヒメノミコト)。
元白山権現と称した。
創建は明らかではないが、加賀国(石川県)の白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)を勧請したのが始まりといわれる。
応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社(廣井八幡宮)の境内続きの末社であった。
慶長の検地の際、境内が二分された。
延宝5年(1677)、広井八幡宮の祭礼の初めより、八幡宮の御旅所として神輿の渡御(とぎょ)があった。
昭和12年(1937)、桜通りの開地により境内地は大幅に減少した。
昭和39年(1964)、現在地に移る。」
白玉稲荷大明神説板、内容は以下。
「山城国伏見より勧請
御祭神 宇迦之御魂神。
御由緒 創建年月不詳
御神徳 護国豊穣、商売繁盛、産業興隆、家内安全、芸能上達。」
三方は見上げるばかりのビルの森に囲まれ、いかにもビジネス街の神社の様相。
今から約300年ほど前の寛延3年(1750)に寄進された鉢。
名古屋城築城にあわせ堀川が開削されたのが1610年頃とされるので、既に水運が盛んになり四間道が整備された後に寄進された鉢。
立派な髭を持つ龍口から清水は注がれていなかった。
参道左には境内末社が連なり、右側に赤い幟と奉納鳥居が連なる「白玉稲荷社」が鎮座しています。
白山神社の由緒に依れば
「祭神は菊理媛命神、創建は明らかではない。
加賀国石川郷の白山比咩神社から勧請された。
応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。
慶長17年(1612)の検地の際二分された。
延宝5年(1677)8月より泥江縣神社祭礼の御旅所として御輿の渡御があった。
元禄13年(1700)、享保9年(1724)、弘化2年(1845)の大火で焼失。
修造遷宮は14回余りを数える。
明治初年に村社に列せられる。
昭和12年(1937)桜通り開通に伴い境内地はさらに減少。
昭和39年(1964)に現在地に遷座する。
伝説として文禄年中(1592~1596)、秀吉の朝鮮征伐の際、軍船を造船するため、境内の楠を伐採させたところ、多くの人夫が負傷したので造船を中止、用材を社司に寄付した。
社司はその用材の一部で地蔵菩薩像を一体作り広井の極楽寺に安置した。
その地蔵は「枕返しの地蔵」と呼ばれるようになったと云う。
また、元禄(1688~1703)の頃、尾張藩の御殿女中愛玩の猫が行方不明になり、所要の帰路に参詣祈願の後、城中へ戻ったところ猫は戻っていたと云う。
以来現在まで特殊信仰として犬猫の紛失祈願に参詣する人が多い」
冒頭の地図で泥江縣神社北側、現在の鎮座地西に鳥居(黄色丸)が描かれている、これが元の白山神社鎮座地で桜通りのど真ん中に鎮座していたのが分かる。
都市化に伴い、このビルの狭間に落ち着いたという事だろう。
延宝5年(1677)8月より泥江縣神社祭礼の御旅所として御輿の渡御があった。
元禄13年(1700)、享保9年(1724)、弘化2年(1845)の大火で焼失。
修造遷宮は14回余りを数える。
明治初年に村社に列せられる。
昭和12年(1937)桜通り開通に伴い境内地はさらに減少。
昭和39年(1964)に現在地に遷座する。
伝説として文禄年中(1592~1596)、秀吉の朝鮮征伐の際、軍船を造船するため、境内の楠を伐採させたところ、多くの人夫が負傷したので造船を中止、用材を社司に寄付した。
社司はその用材の一部で地蔵菩薩像を一体作り広井の極楽寺に安置した。
その地蔵は「枕返しの地蔵」と呼ばれるようになったと云う。
また、元禄(1688~1703)の頃、尾張藩の御殿女中愛玩の猫が行方不明になり、所要の帰路に参詣祈願の後、城中へ戻ったところ猫は戻っていたと云う。
以来現在まで特殊信仰として犬猫の紛失祈願に参詣する人が多い」
冒頭の地図で泥江縣神社北側、現在の鎮座地西に鳥居(黄色丸)が描かれている、これが元の白山神社鎮座地で桜通りのど真ん中に鎮座していたのが分かる。
都市化に伴い、このビルの狭間に落ち着いたという事だろう。
解説は以下。
「この石は元から境内にあったもの。
いつ頃かは定かではありませんが氏子始め御神威を畏み慕う崇敬者等を諸事萬難より守護する不思議な力があると信じられている。
お参りの際は石に軽く手を当て心を込めてご祈願しお参り下さい。」
参道左の境内社。
左から
・秋葉宮、金毘羅宮 御祭神 火之迦具土神、大国主命 御神徳 鎮火、防火、鉱工業発展、刃物農機具業繁盛、航海安全、海難救済、福徳。
・山神宮 御祭神 大山津見神 御神徳 山の安全
・神明宮 御祭神 天照大神 御神徳 国家安泰、五穀豊穣、養蚕織物業繁盛。
・松尾宮 御祭神 大山咋神 御神徳 酒造繁盛、土木建築業繁盛。
・恵比寿宮 大国宮、御祭神 事代主命、大国主命、御神徳 商売繁盛、豊漁祈願、航海安全、海難救済、福徳。
・御由緒 創建年月日不詳。
寄進年は昭和47年(1972)と比較的新しい。
このデザインが定番のひとつなのか定かではないが、個人的に自由なデザインで「いいね」を付けたいくらいだ。
つぶらな眼でにこやかに微笑み、子供がおねだりでもする姿にも見え、とてもユーモラス。
双方が口を開けどちらが吽形が分かりませんが、左の狛犬は銭、右は前脚を合わせ鈴を握りしめた意匠のもの。
白山神社
創建 / 不明
祭神 / 菊理媛命
境内社 / 白玉稲荷社、秋葉宮、金毘羅宮、山神宮、神明宮、松尾宮、恵比寿宮、大国宮、
神事 / 歳旦祭 1月1日、稲荷社 初牛祭 旧ニノ午、例大祭 10月12日、大祓式 12月30日、月次祭 毎月15日
所在地 / 名古屋市中区丸の内1-15-18
公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から東へ徒歩5分程
関連記事 /
花車神明社から白山社徒歩アクセス / 堀川を渡り北へ徒歩10分程
左から
・秋葉宮、金毘羅宮 御祭神 火之迦具土神、大国主命 御神徳 鎮火、防火、鉱工業発展、刃物農機具業繁盛、航海安全、海難救済、福徳。
・山神宮 御祭神 大山津見神 御神徳 山の安全
・神明宮 御祭神 天照大神 御神徳 国家安泰、五穀豊穣、養蚕織物業繁盛。
・松尾宮 御祭神 大山咋神 御神徳 酒造繁盛、土木建築業繁盛。
・恵比寿宮 大国宮、御祭神 事代主命、大国主命、御神徳 商売繁盛、豊漁祈願、航海安全、海難救済、福徳。
・御由緒 創建年月日不詳。
寄進年は昭和47年(1972)と比較的新しい。
このデザインが定番のひとつなのか定かではないが、個人的に自由なデザインで「いいね」を付けたいくらいだ。
つぶらな眼でにこやかに微笑み、子供がおねだりでもする姿にも見え、とてもユーモラス。
双方が口を開けどちらが吽形が分かりませんが、左の狛犬は銭、右は前脚を合わせ鈴を握りしめた意匠のもの。
白山神社
創建 / 不明
祭神 / 菊理媛命
境内社 / 白玉稲荷社、秋葉宮、金毘羅宮、山神宮、神明宮、松尾宮、恵比寿宮、大国宮、
神事 / 歳旦祭 1月1日、稲荷社 初牛祭 旧ニノ午、例大祭 10月12日、大祓式 12月30日、月次祭 毎月15日
所在地 / 名古屋市中区丸の内1-15-18
公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線「国際センター」駅から東へ徒歩5分程
関連記事 /
花車神明社から白山社徒歩アクセス / 堀川を渡り北へ徒歩10分程