鎌倉市西御門に鎮座する「白旗神社」
鶴岡八幡宮の境内摂社の白旗神社と混同されるかもしれませんが、こちらの白旗神社は鶴岡八幡宮のニノ鳥居から東へ徒歩15分程の大倉山麓に鎮座する神社。
大倉白旗神社や白旗神社西御門などと称され、境内摂社の白旗神社と区別されるようです。
左の「よりとも児童遊園」から西に一筋行くと、西御門の石碑も立てられていることからもそれは伝わってきます。
石畳の路地の突き当りが目的地白旗神社で、正面の石段を上り詰めた先に頼朝の墓が立てられています。左には「法華堂跡」の石碑があり、右手には「頼朝公顕彰碑」が建てられ、頼朝を称える歌が刻まれています。
大蔵白旗神社はこの参道左側に鎮座しています。
碑文は以下。
「堂は元々は頼朝の持仏を祀っていたところで、頼朝の死後は頼朝の廟所となる。
建保5年(1217)5月、和田義盛が反乱を起こし幕府に火を放った時、将軍であった実朝が難を避けるため避難した場所。
と記されています。
大蔵幕府跡推定地の北隅に位置するこの場所は、頼朝の守り本尊を安置する持仏堂として始まり、正治元年(1199)に頼朝が亡くなるとこの地に葬り、持仏堂は頼朝の墓所として法華堂と呼ばれるようになった。
その後も鶴岡八幡宮が祭祀を続けたが、明治維新の神仏分離にともない法華堂は明治5年(1872)頼朝を祭神とした白旗神社に改められ現在に至っています。
「薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡」解説は以下。
「法華堂跡の東谷奥には大江広元、広元の四男で長州毛利氏の祖・毛利季光、薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並び、いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩により整備された。」
とあります。
この辺りには地元小学校の児童の手による解説や、他にも鎌倉には多くの石碑が立てられ、頼朝は今も地元から慕われているのが窺われます。
白旗神社境内全景。
左に白旗大明神の社標、参道口に一対の常夜灯と個性的な容姿の狛犬が参道を守護しています。
社頭から境内の眺め。
石の神明鳥居の先にこぢんまりとした社殿が建つ。
参道の素朴な容姿の狛犬。
明治5年(1872)創建とされる白旗神社、150年の年月は風貌をここまで変えてしまう。
外削ぎの千木が付く切妻の拝殿は実にシンプル。
額は白旗明神。
授与所や社務所はなく、多くの参拝客が訪れる鶴岡八幡宮と比較すると、大蔵白旗神社を訪れる参拝客は少ないようです。
波乱の人生の末に武家政権の礎を築いた頼朝、こちらの御利益はもちろん勝運。
そんな頼朝は相模川橋の供養の帰途に落馬し、それが要因(諸説あり)で正治元年(1199)に亡くなります、その頼朝の墓所が正面の石段を上った先にあります。
この大倉山一帯が頼朝の墓の跡とされます。
石段の左に「源頼朝公法華堂之舊跡」の石標が立てられています。
墓所に続く石段。
中ほどには神明鳥居が立てられています。
石段を上り切った目の前が頼朝の墓。
解説によれば、現在の塔は後の島津藩主・島津重豪(1745~1833)が整備したものとされます。
香台には頼朝の家紋笹竜胆の紋と島津家の轡十文字の家紋が見られます。
頼朝の墓を整備したのが島津重豪とありますが、そもそも整備前から頼朝の墓があったのか、そんな気になってくる。
頼朝と弟希義は平治の乱(1159)で源氏勢の敗北以降、一度として兄弟の再会は果せなかったと伝わります。
希義の墓は高知市介良に残り、1994年に頼朝の墓の土と石を希義の墓の物と交換し、兄弟の再会を果たす催しが行われたようです。
頼朝の墓から少し外れた場所に、島津の名が刻まれた石標があり、頼朝との繋がりの深さを誇示するかのようでもある。
手水鉢。
なにか刻まれていないか探してみるも、自分の目には見当たらなかった。
手水鉢の右の空間。
ここにも「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の石標が立つ。
あたかも義時の墓の様にとれなくもないですが、義時の法華堂跡や墓があったとする場所は、ここから100㍍程東に歩いた先にある、毛利秀光、大江広元、島津忠久、三浦泰村が供養されるその場所にあたるようです。
この左奥に山肌に付けられた細い山道があり、そちらに続くのかと思いましたが、当日は縄が貼られ踏み入る事が出来ませんでした、石段を下りて少し東に向かう事にします。
白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓
創建 / 明治5年(1872)
祭神 / 源 頼朝
ご利益 / 勝負運
例祭日 / 1月13日