長野県松本市浅間温泉『西宮恵比寿神社・東泉部薬師堂・不動院』

薬師堂から湯之街通りの坂を上り今晩の宿に向かう

f:id:owari-nagoya55:20191014103116j:plain正面に大音寺山が迫る三叉路で西宮恵比寿神社の案内を見かけ
食事の時間にはまだ余裕もあり立ち寄ってみる事にしました
神社はこの道を真っ直ぐ進んだ方向の様です

天武天皇の頃684年(白鳳14)には既に「信濃に遣わして行官を造らしむ 束間の温湯に」と記されている

f:id:owari-nagoya55:20191014103125j:plain間もなく墓地に突き当り、道を間違えた?と思いますが、少し入ると左に鳥居が見えホッとする
夕暮れが迫る墓地はなんとなく抵抗があります

f:id:owari-nagoya55:20191014103137j:plain墓地を背に小さな堂があります
お参りしていく事にします、この堂は東泉部薬師堂と云うそうです
右の案内板には以下のように記されています
「古くは湯薬師として下方の荒湯源泉の所にあった、寛保2年(1742)横谷沢の大水害で流され、下浅間に移転した
昭和63年浅間文化財修理の寄付の際本尊を購入、平成5年寄付によりここに堂を新築、本尊を安置」
比較的最近に建てられた堂のようです

f:id:owari-nagoya55:20191014103148j:plain堂の右には句碑が二つ
左が芭蕉の句碑で「春雨の木下につとふ 雫かな」、右は老鼠堂機一で「咲て見せ 散ってみせたるさくらかな」と記されています
浅間温泉の歴史は古く、近くに縄文時代の遺跡が発掘されされるなど、古くから人が生活を営んでいた
その記述は日本書紀万葉集にも残り、正岡子規伊藤左千夫からなる「アララギ派」発祥の地とされる、その事を示すかの様に一帯には多くの歌碑が建てられています

f:id:owari-nagoya55:20191014103159j:plain墓地から離れ西宮恵比寿神社へ向かいます
左に手水鉢があり、石鳥居の右が社殿となっています、正面は社務所かな?

f:id:owari-nagoya55:20191014103209j:plain既に灯が入りました
拝殿と社殿は大音寺山を背にして、浅間温泉街を見下ろす様に鎮座しています
拝殿正面には小さな狛犬が一対

f:id:owari-nagoya55:20191014103221j:plain 西宮恵比寿神社全景

商売の神様「えべっさん」を祀る神社です
1891年(明治24)摂津國西宮神社(兵庫県西宮市)から勧請し、西宮講社松本事務所として創建されたのが始まりのようです
社殿は1925年(大正14)、今とは別の松本市深志3丁目に建てられていたが、1952年(昭和27)現在地に本殿、翌年に幣殿と拝殿が増築され現在に至る様です(浅間温泉旅館協同組合マップより)

この内容について現地案内板と年代に多少の乖離があるようですが、ここではマップの年代を引用しています

f:id:owari-nagoya55:20191014103232j:plain精いっぱい目を見開き拝殿を守る小さな狛犬

f:id:owari-nagoya55:20191014103244j:plain 西宮大神の扁額
社務所へは回廊でつながり、その中央に拝殿、幣殿、本殿が一体となっています

f:id:owari-nagoya55:20191014103255j:plain流造の本殿は幣殿と一体となっているけれど、こうして見ると大胆なつながり方をしています

f:id:owari-nagoya55:20191014103305j:plain境内右の大きな石碑
当初は何が彫られているのか良くわからなかった
こうして改めて見ると大きな「大黒天」が描かれていました
1924年(大正13)の建立で作者は太田南海作

f:id:owari-nagoya55:20191014103314j:plain 社号標の右側に上に登る道が伸び、入口には不動院の看板が掲げられています

f:id:owari-nagoya55:20191014103323j:plain登り始めて直ぐに道祖神、手に何を持っているのかよく分からないけれど、とても穏やかな表情で描かれています
道祖神は地域の守り神として集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願して石碑や石像の形態で祀られています
ここ浅間温泉は現在は上浅間、下浅間と呼ばれていますが、古くは上浅間は横手、流、山田、倉下、湯坂と下浅間は横町、立町、裏町、庚申町と細かく分かれていて、温泉街を歩いていると至る所に道祖神を見かけます

f:id:owari-nagoya55:20191014103337j:plain境内から西宮恵比寿神社方向の眺め
参道沿いには複数の地蔵が安置されています

f:id:owari-nagoya55:20191014103347j:plain不動院
江戸時代は上浅間の三才山道の傍らにあったという
明治4年に廃院となり、昭和15年に現在の地に宗教結社
本尊の不動明王は眼病と火の災いに霊験あらたかと云われ、鬼の様な形相は苦しむ人々を必ずや救うという決意が表情に表れたもの

f:id:owari-nagoya55:20191014103358j:plain色褪せた不動院扁額

f:id:owari-nagoya55:20191014103409j:plain 境内右に三社と地蔵が祀られているけれど詳細は不明
訪れた時は、右の倒木が稲荷社と思われる社を押し潰し、鳥居もなぎ倒され痛々しい状態で近づくのに躊躇する状態でした

f:id:owari-nagoya55:20191014103423j:plain境内で見かけた庚申塔と二十三夜塔
民間信仰のひとつで、月を信仰の対象とする講員が集まり、月を拝みお経を唱え飲食を共にする月待行事を行うもの、この塔はそうした場所に
建てられるものらしい
二十三夜講以外にも十五夜十六夜、十九夜、二十二夜など特定の月齢の夜に月待行事を行う講があるようです、今もここで続いているかは定かではありません

二十三夜塔から道は更に上に続きますが、少し登って先を見てきましたが、ここは親子ひろば展望台に続く全長296㍍の北遊歩道の様です

f:id:owari-nagoya55:20191014103433j:plain不動の滝
不動院の左手から下に降りる小道があり、そこを少し下ると小さな滝がある
カラフルな不動明王が見守る中、ここで修業をするのだろう

f:id:owari-nagoya55:20191014103445j:plain来た道を戻るのも如何なものか、小道をそのまま降りる事にします
その途中に「虹はいて 夏よせつけぬ 瀑布かな」と彫られた花ノ本聴秋の句碑がある
そこから少し下り、石橋を渡ると視界は開け、細い小道は更に温泉街へと続いています

f:id:owari-nagoya55:20191014103457j:plain篠田焼登り窯の案内板
多治見の荒廃した窯跡で使用していた窯瓦を使用
1946年(昭和21)に京都清水焼の登り窯をモデルに四分の一サイズでこの場に作られたとある
草に覆われ釜らしき外観はわからずじまい

温泉街に続く道路に合流したあたりに再び大きな石標「開道記念碑」
1921年(大正10)に浅間から三才山へ行く浅間峠の道路改修記念に建立(碑文は老鼠堂機一)


往時は松本市から浅間温泉まで路面電車(1964年廃線)がつながり賑わったようですが、今は解体中のホテルや廃業した温泉宿が目に入り、寂れた印象が漂うけれど、往時の名残を一部にとどめています
静かな温泉地を求めるならいいところです


西宮恵比寿神社/東泉部薬師堂/不動院
住所 / 長野県松本市浅間温泉3丁目10-6
アクセス / 安曇野ICから20分程

今回の台風19号で被災した長野県の方々お見舞い申し上げます
早い日常への復旧を祈ると共に見慣れた光景の様変わりを見ると他人事とは思えません
明日は我が身、長野に行く機会を作ろう

『下浅間薬師堂』長野県松本市浅間温泉

長野県松本市浅間温泉

穂高神社参拝の際、ここ浅間温泉で宿泊 時間に余裕もあり、県道282号線沿いの旅館や商店が並ぶ寂れた温泉街を散策

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歩道沿いに「本州中央の地」と刻まれた石標が目にとまる
「下浅間薬師堂」瓦葺の小さな堂です

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「本州中央の地」の石標
グーグルマップで見てみる、本州中央と云われれればそんな位置でもあるようです

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下浅間薬師堂
下浅間にはこうした薬師堂は幾つかある中で下浅間薬師堂が良く知られ、この地域の守り仏の様です
右手に案内板が掲げられています

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堂内の内陣天井に描かれた「三十六歌仙」の絵と歌で知られるようです
描かれたのは明治10年代、作者は不明の様です

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薬師堂扁額
薬師堂のあるこの付近の地名は念仏田と云われ、武田信玄がこの地を支配していた
1561年(永禄4)に五月念仏寺が創建、1625年(寛永2)に大村に移り清光寺となり、1669年(寛文9)に玄光寺と改めたそうです
五月念仏寺跡地に建立されたのが薬師堂
建立年代ははっきりせず、当初は上浅間の横谷沿いに祀られていたようです

1742年(寛保2)に横谷沢の大水害に見舞われ、上浅間の35軒と薬師の湯と共にここに移転、下浅間の守護のために建立されたようです
棟札から1841年(天保12)に木曽の大工により再建されたもので、現在の堂は1988年(昭和63)に改修された様です

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堂内は真っ暗、格子天井の絵など望むべくもなく
本尊は薬師如来

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境内右には道祖神
仲睦まじく手を取り合った夫婦の像が描かれています

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境内右の祠の内にある石造の薬師は水害後、上浅間の源泉の中に沈んでいたものをここに祀ったようです
以前はここの本尊だったとか?

さて、そろそろ宿に戻ろう
温泉と飲み放題(…どんなもんだか)が待っています
2019/08/25

下浅間薬師堂
住所 / 長野県松本市浅間温泉2丁目4-9
アクセス / ​長野自動車道安曇野IC出口から​県道57号線⇒国道143号線⇒県道284号線⇒県道282号線経由20分程

 

信濃國一之宮 諏訪大社上社前宮

長野県茅野市宮川

諏訪大社諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社があり
茅野市の上社には本宮と前宮、諏訪市の下社には春宮と秋宮の四つの境内社で成り立っています
これら四社全てを参拝する事を「四社参り」と呼び、全ての御朱印を頂くと参拝記念も頂けるそうです
今回は茅野市宮川の「上社前宮」を訪れてきました

全国各地の諏訪神社の総本社として、我が国でも最古の歴史を持つ神社の一つと云われ
水の神、農業の神、風の神として、また軍神として崇められ、地元では古くからお諏訪様として親しまれています
また諏訪大社と言えば7年目毎、寅と申の年に行われる「御柱祭」で知られます

正式には「式年造営御柱大祭」と呼ぶそうで、宝殿の造り替え、また社殿の四隅に「御柱」と呼ばれる樹齢200年程の樅の巨木を曳建てる最大の神事です
諏訪大社を参拝するだけでなく、この四本の御柱を探して回るのも楽しみのひとつ

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諏訪ICを出て、国道152号線茅野市方向へ車で10分も走れば「前宮前」交差点に到着です
駐車場は複数あるようですが、この交差点の角に参拝者無料駐車場があるのでこちらを利用します
交差点の先が表参道の石鳥居
f:id:owari-nagoya55:20191011130913j:plainその駐車場の一画にある「荒玉社」
「新御魂社」とも書くようで、原始農耕の神事として田の神を降し、稲の御霊を祀る社で上社の重要に摂社とされるそうです
この駐車場から徒歩圏内には諏訪大神の母神の高志沼河姫命を祀る、末社の子安社があり、安産祈願で奉納された底の無い柄杓はミシャクジ信仰を感じさせます
他にもスーパーの西外れに小さな石の祠の姫宮社なとが祀られています

f:id:owari-nagoya55:20191011131344j:plain鳥居をくぐり御神体山の守屋山に向かって境内に入ります
まず左に「上社諏訪大社前宮」の社号標

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鳥居をくぐった右、大きな木の根元に祀られた小さな石の祠は「溝上社」
祭神は高志奴奈河比賣命と云われ、ここから東方にある御射山へ詣でる際に最初に参詣する社とされる

f:id:owari-nagoya55:20191011131523j:plain緩い坂に付けられた細い石段の先にニノ鳥居と狛犬が見え始めます
石段の脇が開いているのは御柱を通すためなのでしょうか?

この一帯は諏訪大社大祝の始祖と云われる、有員(ありかず)が大祝の職位について以来、諏訪大社大祝代々の居館であったところで、大祝常駐の殿社を神殿と呼び、神体と同視された
その神殿があった一帯は神原(ごうばら)と呼ばれ、上社の重要な神事のほとんどは神原で行われたそうです

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最初の坂を上るとニノ鳥居前の境内
右手に若御子社、社務所、左に手水舎があり鳥居の先の左に十間廊

境内には内御玉殿、十間廊、御宝社、若御子社、政所社、鶏冠社、柏手社、溝上社、子安社等が祀られています
立派な社殿をイメージしますが、先程の溝上社の様な石の小さな祠が主になります
なので、境内の配置図と案内看板を見落とすと所在は分かり辛く、見落とす事になります

f:id:owari-nagoya55:20191011132128j:plain手水舎と絶え間なく注がれる清水を湛える手水鉢は苔むしています
f:id:owari-nagoya55:20191011132212j:plainニノ鳥居の前を守護する大きな狛犬は精悍な顔つき
実物は写真の印象以上に大きなものです

f:id:owari-nagoya55:20191011132438j:plain若御子社
諏訪明神と崇められる建御名方命の御子達を合祀していると云われ、正月一日には大祝以下神官は、まずこの若御子社を荒玉社と共に参拝したとされ、現在諏訪神社末社

f:id:owari-nagoya55:20191011132520j:plainニノ鳥居をくぐり左手の長い建物が十間廊
古くは神原廊と呼ばれ、中世までは諏訪政庁の場で全ての貢物はこの廊上で大祝の実見に供す場として、舞の宴を行う場として使われたそうです

f:id:owari-nagoya55:20191011132908j:plain内御玉殿
諏訪明神の祖霊が宿ると云われ、御神宝が安置されていた
現在の社殿は昭和7年に改築されたものですが、以前の社殿は天正13年に造営されたもので上社最古の建物
諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」と云われ、大祝そのものが神格を備えた現身の諏訪明神そのものとされているf:id:owari-nagoya55:20191011132659j:plain御室社
内御玉殿の後方の小高い場所に祀られている
半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官の土室が参篭、蛇形のミシャクジ神と共に穴巣始と呼ばれた冬ごもりをした遺跡

f:id:owari-nagoya55:20191011133340j:plain諏訪照雲頼重の供養塔

f:id:owari-nagoya55:20191011133644j:plain前宮へはどこまでも坂が続き、その脇を水眼川の清らかな流れが境内を流れていきます
石畳の突当りが前宮の拝所
参道脇の石像は天保3と読める、1832年のもの

f:id:owari-nagoya55:20191011133821j:plain斜面の一画を整地し建つ前宮
一般的な拝所、拝殿、幣殿、本殿の作りとは少し違って、諏訪大社は拝所と拝殿の構成
ここ前宮のみ本殿を持っています
前宮は上社本宮に対し、それ以前からあった宮なので前宮と呼ぶと云う説もあり
本宮より歴史が古いのかもしれません

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前宮拝所全景
祭神は建御名方命とその妃の八坂刀売命と伝えられ、この奥が墳墓と云われている
周囲は1200年以上の歴史を持つ御柱で四方を囲まれ、立ち入る事が禁じられてきた聖地であり
これを侵すと神罰が下ると云われている
御柱は7年毎に立て替えられ、綿々と今に受け継がれています
現在の社殿の木材は伊勢神宮遷宮の際に下賜された材料で作られ、再利用されている
古い御柱諏訪大社と所縁のある神社に払い下げられたり、絵馬やお守りに使われたりと自然からの恵みは無駄にすることなく使われています

f:id:owari-nagoya55:20191011134314j:plain拝所右の一之御柱
高さは約17㍍の樅の大木
氏子達により八ヶ岳の御小屋山から山出しされ、20㌔近く離れた前宮まで里曳きされてくるので、裏側はすり減った痕跡が見て取れます
上社は山出しは4月2日~4日、里曳きが5月3日~5日
下社は山出しが4月8日~10日、里曳きが5月14日~5月16日
f:id:owari-nagoya55:20191011134730j:plain御柱がなぜ4本なのかは諸説あるようです
右上は一の御柱、右下が四の御柱
左の写真手前が二の御柱とその右奥に三の御柱、何れも綺麗に樹皮が剥がされ艶があります
この一画だけは結界が張られた別世界の如く、四本の御柱が社殿の四隅に立っています

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拝所の右の水神、と右が・・・・・なんだっけ、思い出せない
こんな事にならない様に配置図は一枚とっておきましょう
それにしても、これから迎える紅葉(黄葉かな?)の時期にもう一度訪れたい

随分とかみさんを待たせているので、そろそろ降りていく事にします

f:id:owari-nagoya55:20191011135202j:plain二の鳥居から一の鳥居と表参道方向の眺め、お怒りかな?

f:id:owari-nagoya55:20191011135359j:plain四社巡りの一社目、前宮
御朱印を頂くとこの付箋を入れてくれます、これを4枚集めるとコンプリートとなります
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信濃國一之宮 諏訪大社上社前宮の御朱印
次は本宮を目指します
2019/10/06

住所 / 長野県茅野市宮川2030
アクセス / 諏訪ICを出て、国道152号線経由、茅野市方向へ車で10分

ETCヒューズ切れ

10月6日諏訪湖周辺の寺社巡りに出かけてきました
今日はその日の朝の出来事を

諏訪までは当然ながら高速、なのでETCカードをセット
「さあ行こう」と高速に向け走り出して発覚

普段ならスタンバイランプが点灯し、「カードを確認しました💛」と優しく話しかけてくる
・・・・・何も言わない、ランプもつかない
「ついに本体も寿命が尽きたか? 電源が切れたか?」f:id:owari-nagoya55:20191009141646j:plain
間もなくIC、仕方なく一般で高速に乗り、帰路もETC専用ゲートへ進入することもなく
無事に帰宅

気になっていた作動停止の要因を調べてみた
まずはエンジンルームのヒューズボックスを開け、一杯あるヒューズが切れていないかを確認
問題なし

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 ならば、ETCの配線の確認・・・・・10?年前にDIYで付けたもの
内装の外し方も、どこから電源を取ったか覚えちゃいない
しばし昔の記憶を呼び戻す
線を手繰って見つけたヒューズボックス、思い出してきたぞ

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 まずは常時電源のヒューズを開けてみた
外してみたものの、切れているのかが見えない・・・・・歳を感じる
かみさんの目を借りるも見えない、これがその画像

そういえば我が家にはテスターがあった事を思い出す
20年前のテスターの電池を交換し、ヒューズを確認する

たま〃最初に外したヒューズが大当たりで切れていた
次は切れたヒューズの規格
ここはかみさんの視力を借りて「1Aと書いてあるヨ」とのこと
近くのホームセンターで「管型1Aヒューズ」2個入り88円で買い求め入れ替える

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新品を写真で拡大すると細いものが確かにあるわい、これが見えない自分に老いを感じる
規格を読み取ったかみさんは自分の老眼を断固否定するものの、お互い若くはない

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では電源を入れて確認
グリーンのランプが点灯、「カードを確認しました💛」
久しぶりに聞く彼女の声に安堵する、本体でなくて良かった

ETC初期型は近い将来使えなくなる、使えるまでは使い切ってやろう
新規格に対応するか否かは、ETC本体の車載器管理番号シールの頭の数字が「0」か「1」で識別できるようです
「0」は新規格に対応しないので、やがては更新が必要なようです

それより一般とETCの差額にびっくりf:id:owari-nagoya55:20191009142412j:plain
この差は大きい
この差を見て、「帰りは諏訪から伊那谷経由で帰ろう」と迷わず即決
現地で美味しいごはんに充てられる

今回のトラブルで学んだ事
出発前にテスターと予備ヒューズは装備に加えておこう

『豊門神社』

『豊田本町神社』から北に徒歩1分の所に鎮座する『豊門神社』
住所は名古屋市南区内田橋2丁目7
1985年(昭和60)、現在の内田橋に編入されるまでこの辺りは豊門町だった
意外に新しい町

f:id:owari-nagoya55:20191008181007j:plain豊田本町神社の前の道路から北を眺めると、すでに豊門神社の赤い鳥居が見えています

f:id:owari-nagoya55:20191008181436j:plain豊田本町神社で出会ったおばあちゃん、こちらも参拝してお帰りの様です

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豊門神社東側から見た全景
境内石垣から、北の新堀川に向け緩やかに上っているのがわかります

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神社北側からの全景
南を向いて五つの社殿がよく見えます

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参道入口
神明鳥居をくぐり右に折れると社殿方向
正面右手の建物は豊門町公民館

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現在は既に豊門町は存在しないけれど、住民にしてみればいつまで経っても豊門町であり、豊門神社でいいのかも、同じ立場であれば過去の地名は残しておきたいと思う

上は上段右から左に年代を追って現在までの移り変わりを下段右まで並べてみました
1947年(昭和22)の地図には神社は記載されていません
1968年(昭和43)になって神社が現れ、豊門町が現れるのは1980年(昭和55)
なので社名から見れば創建は昭和に入ってからとなります

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境内左の手水石には1936年(昭和11)と刻まれています
その奥の遷座記念碑は1978年(昭和53)、鳥居の建立と同じです
社名はともかく創建は手水石に刻まれた1936年と思われます
その後、熱田区空襲や道路整備に伴い、1978年にこの地に遷座、現在に至っているものと思います

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豊門神社社殿の全景
伽藍は先に掲載した豊田本町神社と瓜二つ
一番右は豊門稲荷社の社殿

f:id:owari-nagoya55:20191008201200j:plain社殿前の狛犬

f:id:owari-nagoya55:20191008201234j:plain豊門稲荷社から見た神域

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豊門神社社殿に隣接する豊門稲荷社

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随分高い台座の上のお狐様が守護する先に社殿
この先は新堀川の堤にでます
由緒書きは境内見渡しても見当たりませんでした
祭神などの詳細は分からずじまいです

f:id:owari-nagoya55:20191008201423j:plain境内から鳥居方向の東の眺め
国道247号線から、少し東に入っただけなのに行き交う車は少なく、静かな街並みが続きます
氏神として昭和に入り創建された新しい神社ですが、氏子や崇敬者の信仰に厚く支えられている
豊田本町神社と豊門神社、氏子のパワーを感じる神社です

『豊門神社』
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神
住所 / 名古屋市南区内田橋2丁目7
アクセス / 名鉄常滑線「豊田本町」駅下車 北へ徒歩約11分

ハルピンラーメン 本店

台風が訪れそうな気配

天候が安定しているうちに諏訪大社を目指し諏訪市を訪れてきました

f:id:owari-nagoya55:20191007231158j:plain諏訪湖SAから眺めた諏訪湖 名古屋を8:30とゆっくり目に出た事もあり、諏訪湖SA到着が11:00近くとなってしまいました

晴れ間はあるものの、やはり雲が多く天候は下降気味 諏訪大社の参拝目的で訪れたものの、雨は勘弁してもらいたい

車中泊も可能な体制で来ているので道中は急ぐことはない

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「昼ごはんはどうするかいね?」

かみさん曰く「地元ではハルピンラーメンが知られているようなのでそこにしない?」

了解です、道案内よろしく

諏訪ICを出て国道20号線経由で「飯島」交差点を右折する

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右折してすぐ左に昔懐かしい札幌ラーメンを思わせる外観のハルピンラーメン

営業時間は11時から24時で年中無休

訪れたのが12時前、既に駐車場は満車、店内は5名ほど待っていて多少出遅れたようです 地元の人気店であることは間違いなさそう

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店内の解説によれば 昭和初期に戦時中、日本兵の男が爾濱の村で食べたことのない味に出会い 昭和30年代に地元諏訪に戻り屋台から始めたのが始まり

それは、ニンニクを中心として唐辛子など数種類の素材を土中で数年熟成させた寝かせダレが特徴

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ハルピンラーメンとニンニクラーメンがオーダーを二分しているようで

ニンニクラーメンと、サイドメニューでシソ餃子をオーダー

水とは別に提供されるジャスミンティーを飲みながらしばし待つ

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待つことしばし、出されたラーメンは見た目に濃厚そう

モヤシと海苔が添えられ、チャーシューとかは見えない

店内看板にある「タレは重く底に沈むので、麺とスープを持ち上げて絡ませるように食すべし」とあったので早速よく絡ませ食べ始める

第一印象は、見た目ほど辛くも無く、ニンニクの風味が漂い仄かな甘みを感じるもの 強烈にニンニクを感じさせるものではありません

多少とろっとしたスープが腰のある細麺によく絡む 多少ピリ辛のニンニク風味のコクのある味噌ダレ風ラーメン 食べ進むとモヤシの下に厚みはないけれどスープを十分に吸った大きな煮豚が現れる

サイドオーダーのシソ餃子はさっぱりしていて、シソが大量に手に入った時にはニラ替わりに作ってみるのもあり、なかなかのものでした

夫婦の評価は5点評価でラーメンが3点、餃子の評価は3.5点

地元で人気の「ハルピンラーメン」おいしくいただきました

 

さあ、お腹も満たされたので寺社巡りに参りましょう

2019/10/06

ハルピンラーメン 本店 住所 / 長野県 諏訪市 大字四賀飯島2336-2

アクセス / 中央自動車道諏訪ICから車で国道20号線経由飯島交差点右折 所要時間10分程

味鏡山 天永寺 護国院

名古屋市北区味鋺2丁目の味鏡山天永寺「護国院」は真言宗智山派の寺院
味鋺神社​の西側に隣接します

f:id:owari-nagoya55:20191005064322j:plain庄内川の右岸の堤の北に鎮座し、現在は郊外の住宅地の様相です
歴史は古く、729~749年(天平年間)行基の創建と云われ、尾張名所図会にも描かれている古刹です

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手前の流れは庄内川、松並木が続く堤の先に味鋺神社と天永寺が描かれています
天永寺については、尾張名所図会に隣接する味鋺神社(六所神社)の神宮寺と記されています
記載に出てくる蓬莱宮は熱田神宮、六所明神は味鋺神社、安食の常観寺は成願寺と読替えて下さい
また、岩屋堂とは現在の東味鋺辺りを指します

味鋺村にあり、真言宗大須眞福寺末、文明十二年の天永寺縁起に、鳥羽天皇之御願、西彌上人之草創
天永年中開基也、蓬来宮末社、六所明神鎮護之霊崛、瑠璃界の本主
十二願王接化之梵場と也見えたる如く、味鋺神社の社儈なりし事は疑いなく
もと直願寺にて安食・柏井の雨庄を寺領として、七堂十二區の儈坊儼然なる古刹なりしが、五百年来の兵革に零衰し、山號さへ鏡の池に附会して、味鏡と名くるに至る
さるを天正九年辛巳正月、郷民議して再建し、やゝ旧刹に復れるなり

本尊薬師如来は、聖武天皇の御宇、行基菩薩当所に来遊ありしに、鏡の池の水中より薬師の仏像現せしかば、菩薩白檀の形像を作り、彼像を中心にこめ納め、精舎を立てて薬師寺と名けられしよし、文明縁起にかける仏像を本尊とす
寺寶 大般若経六百巻、暦應元年九月八日足利左兵衛督直義主の納むる所にて、建久・応安・康永等の年號、また安食の常観寺にてうつしたるよりの奥書ある古典籍なり

鏡池 本堂より西北にあたる畔にあり、むかし金像の薬師仏出現ありしを行基法師とり収めて当寺の本尊とせし古跡なり

龍池 本堂のほとりにあり、開山西彌法師の時、白龍池中に現じたる古跡にて、池中の小島に今弁財天社をたつ
岩屋堂 寺より北の方数町を隔てたり、当寺に属し、本尊十一面観世音は当国三十三観音の一所なり
因にいふ僧天澤は当寺の僧にして、「織田真紀」に天澤者宗天台再閲蔵経学徳之僧也
武田信玄甲州、信玄問何國人、曰尾州清洲東味鏡邑天永寺僧也、問信長行状如何、曰甚勤武事、毎旦調馬後、学弓於市川大介、鳥銃於橋本一巴、剣術於平田三位云々と見えて、信長公の行状を美しく対してよしにしるせり」

f:id:owari-nagoya55:20191005064533j:plain護国院を訪れると、一際目を引く立派な楼門、その右に名古屋市教育委員会の解説板

「味鏡山と号し、真言宗智山派
天平年間(729~749)僧行基の創建といわれ、薬師寺といった
天暦二年(948)の大洪水により衰微したが、天永二年(1111)西弥上人が再興し、今の寺号に改めた
本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる
また、寺宝は、文化財に指定されている絹本著色の絵画「千手観音二十八部衆(国重文)」、「尊勝種子曼荼羅図(市指定)」、「仏眼曼荼羅図(市指定)」をはじめ古鏡など多くが残されている」

とある、名所図会にある寺宝の大般若経六百巻はここに記載されていない
大洪水とは庄内川の氾濫の事を指しているものと思います

二層の八脚門の楼門は正面と裏側の左右に大きな彫像が祀られる四天門
これは普段なかなか見かけることが少ないものです

山号の「味鏡」は、その昔に本堂の西北に池を作る際、そこから鏡が見つかり、以降鏡池と呼ばれ寺号もそこから来ていると云われます
鏡池は既になく、近隣に楠町味鋺西鏡池の地名が残り、その場所に鏡池があったのではないでしょうか?
この地は古くより人が住み物部の里でもあり、多くの古墳が存在した場所でもあり、鏡が出て来ても不思議ではない地域です

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表情を収めたかったものの、手前の網にフォーカスが行ってしまい、表情まで読み取れない事はご容赦願います

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楼門から境内の全景
左の鳳凰のある建物が観音堂、陰になっていますがその奥が本堂、その右の赤い幟のある建物が昔の本堂
手前に鐘楼となります、これらの他に北側山門(味鋺神社本殿後方)と本殿後方に六角堂
以上が護国院の伽藍になります

石畳の参道両脇の玉砂利は枯山水の如く紋様が描かれ、立ち入っていいものなのか戸惑う程手入れされています

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鐘楼を過ぎた左手の小堂

f:id:owari-nagoya55:20191005065004j:plain内部には岩屋堂古墳から出土した石棺が安置されています
岩屋堂と聞くと瀬戸が思い浮かびますが、現在の東味鋺辺りを指します

f:id:owari-nagoya55:20191005065120j:plain参道右側の小堂
後方は味鋺神社境内、玉垣で仕切られているだけです

f:id:owari-nagoya55:20191005065202j:plain参道右の手水舎は木造瓦葺のもの

f:id:owari-nagoya55:20191005065232j:plain手水舎の左の赤い幟に「みかがみじぞうそん」とある
言われなどは分からない

f:id:owari-nagoya55:20191005065258j:plain観音堂
方形屋根の上に飾られた鳳凰に視線は行きます

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伽藍は水害や火災により幾度か再建され、一目で古いと感じる建物は見当たりません
左が現在の本堂で平成に入り建てられたもの、右が以前の本堂
高床の本堂は、過去の庄内川氾濫の教訓を生かした上での構造なのでしょうか?

本尊は行基が自ら刻んだと云われる薬師如来座像

f:id:owari-nagoya55:20191005065726j:plain旧本堂の扁額・・・・・読めない

f:id:owari-nagoya55:20191005065752j:plain旧本堂の拝所の天井に3面に描かれた天井絵
是非とも一枚〃見てください

f:id:owari-nagoya55:20191005065843j:plain四季の花々や動物が描かれ、よく見ると細部まで丁寧に描かれています

f:id:owari-nagoya55:20191005065909j:plain上を見上げるのも限界があります、一番いい状態で鑑賞するのは・・・・・仰向けに寝転ぶ
いつ頃描かれたものなのか詳細は分かりませんが、年代とは無縁の人を引き付けるものがあります

f:id:owari-nagoya55:20191005065937j:plain旧本堂内
正面に黄金色に輝く俱利伽羅剣を持つ不動明王が安置されています

f:id:owari-nagoya55:20191005070006j:plain旧本堂から観音堂、楼門の眺め
広い境内、玉砂利の手入れの良さが示すように、境内は庭木なども手入れが行き届いています

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護国院西側から六角堂、本堂、観音堂の眺め
さあ、裏手に回ろうかと思ったところでカメラのバッテリー切れ、携帯があるわいと甘く見ていたら
本体温度異常で動作せず・・・・・トホホ
後日再訪しここに加えることにして、今回はこれで引き揚げよう

味鏡山 天永寺 護国院
宗派 / 真言宗智山派
創建 / 729~749年(天平年間)
本尊 / 薬師如来座像
東海三十六不動尊霊場 第6番礼所 / 名古屋二十一大師霊場 第9番札所
住所 / 名古屋市北区味鋺2丁目732
アクセス / ​名鉄小牧線 「味鋺」下車、南西方向へ15分程