知多四国霊場 五番札所「延命山地蔵寺」

大府市長草町本郷40「延命山地蔵寺
以前掲載した長草天神社から随分と歩いただろうか…なんて嘘ばっかりです。
天神社から徒歩10秒もあれば五番札到着。
何せ天神社境内から地蔵寺山門前の石段にショートカットできてしまう。
なので知多四国巡りのかみさんの御供で来ているおやじには有難い立地条件である反面、ついつい「いい加減に合流して次行くよ」なる。

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上は長草天神社西側から見た地蔵寺伽藍。
目の前の壁が本来あるべき姿ではないのは一目瞭然。

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天神社境内からショートカットするとこんな感じで目の前が地蔵寺山門です。

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山門から地蔵寺本堂の眺め。

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入母屋瓦葺で平入屋根で軒先の反りが綺麗な本堂だと思います。
地蔵寺の始まりは1573年(天正元年)当時地頭だった市村伝四郎が地蔵堂を建立したことに始まるといいます。
3年後横須賀の長源寺から教岩和尚を迎え開創、大阪冬の陣の1614年(慶長19)日山天朔和尚が伽藍を整え開山した、曹洞宗のお寺で本尊は延命地蔵大菩薩。
現在の本堂は2004年(平成16)改修後の姿。

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本堂山号額は「延命山」
東に隣接する長草天神社とは江戸末期まで敷地を共にしていたが、神仏分離によりあの壁が造られたもの。本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子の作と伝わるそうだ。

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境内右の庫裏、納経所。

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境内左の眺め。
左に手水舎、右の寄棟の建物が弘法堂です。

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手水舎

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地蔵寺本堂西側に巨大な修業大師像がそびえ立つ。
寄棟瓦葺の本堂とその右には1939年(昭和14)に、紀元2600年の記念として奉納された高さ3.5㍍の大きな大師像が奉納され、納経に訪れた巡礼者を見守る様に聳えています。
長草天神との繋がりを示すかのように軒丸瓦などに寺紋の梅鉢紋が施されている。

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そんな顔しなくても……今日はまだ飲んでないし、至って素面なんで、受け入れて欲しいものだ。

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弘法堂右に二体の石仏。
写真は切れてしまったが左のお地蔵さんはお洒落なニットの帽子がとても似合っていた。

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本堂左の寄棟瓦葺の弘法堂。
賽銭箱も梅鉢紋が入る。

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額は「願王閣」、外陣右に賓頭盧尊者、内陣中央に本尊の地蔵菩薩、左に弘法大師が祀られます。

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ろくどう(六道)の のうか(能化)をちかう みほとけの りやく(利益)ながくさ このぢぞうじ
2021/12/02

「延命山地蔵寺
勧請 / 1573年(天正元年)
開創年 / 1575年(天正3)
開創 / 教岩玄相和尚
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 延命地蔵大菩薩
札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所
所在地 / ​​大府市長草町本郷40

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2月24日直前の日曜日「どぶろく祭り」の時に再び訪れようと思います。どぶは旨い。
「次行くよ!」…ハイ!

奈良県薬師寺「東塔初層特別開扉拝観」

奈良県の国宝薬師寺東塔。
2009年解体修理に着手してから12年、すべての工事を終え美しい姿を取り戻した。
そして現在「東塔初層特別開扉拝観」が開催されていると聞き、薬師寺唐招提寺拝観に絞り電車で奈良に行ってきました。

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乗換駅の大和八木駅までは近鉄特急の新型車輛「ひのとり」に乗車。
この車両は一度乗って見たかった、期待通りシートは快適、余裕のある座席間隔や乗り御心地。
快適な社内から眺める初冬の景色、そして景色を見ながら一杯楽しめるのも電車ならではのもの。
名古屋から薬師寺の玄関先西ノ京駅まで約2.5時間程の移動時間、駅から薬師寺は2~3分、とても近い。

薬師寺の特別共通割引券(1600円)を買い求め境内へ。
この券で東塔含めた白鳳伽藍、玄奘三蔵院伽藍、国宝水煙(西僧坊)、食堂(じきどう)など拝観できる。

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薬師寺西塔と修理を終えた東塔、二つの塔が並ぶ姿も漸くみられるようになった。
この改修の目玉は東塔の一番上部に聳える相輪の先端に施された水煙(すいえん)。
写真上手前が西塔、奥が東塔。
中が東塔水煙、下が西塔水煙の眺め。

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薬師寺1300年の歴史で初めて新調されたそうで、現在は創建以来最上部を飾ってきた白鳳の水煙は取り外され西僧坊で一般公開され間近に見ることができます。
ある意味1300年形を保ってきたこと自体が驚きでもある。
緻密な透かし彫りが施され、下部には横笛を吹く「笛吹童子」の姿がある。

開け放たれた東塔初層の扉、国宝の多宝塔の心柱や天井絵を間近で見る機会はなかなかないだろう。
薬師寺は創建以来幾度か戦禍や火災を経て金堂、講堂、中門、僧坊などが焼失しています。
東塔だけは一度も焼け落ちる事無く今も当時の姿を留めています。

二つの塔、西塔と東塔は色や形、大きさも違います。
西塔は1528年、兵火によって金堂、講堂、中門、僧坊などとともに焼失。
再建も1981年と最近の事で、日本の木造建築の技術は何百年先を見据え造られていて、塔の高さや支える基壇の高さが東塔と違うのも木の収縮や重さにによる沈み込みを考え、これから時を重ねてゆくことでやがて東塔と同じ大きさになる様に考慮した結果です。
薬師寺の伽藍では鎌倉時代に再建された東院堂と東塔が最も古い建物となり、その後の伽藍復旧により現在の姿となっています。
それ以外にも金堂の国宝「仏足石」や仏像など国宝は満載、天眼鏡をお忘れなく。

食堂では田渕俊夫画伯の手による食堂の本尊「阿弥陀三尊浄土図」や全長50mに及ぶ14面の壁画「仏教伝来の道と薬師寺」を拝観できる他、玄奘三蔵院では画家平山郁夫が描いた、「大唐西域壁画」が拝観できる、そこには破壊される前のバーミヤン遺跡の姿も描かれいる。
薬師寺天武天皇勅願より680年(天武天皇9)の創建、本尊は薬師三尊。

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薬師寺 玄奘三蔵

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唐招提寺
薬師寺の北、徒歩10分程の唐招提寺(写真は国宝の金堂)
天平宝字3年(759)唐僧鑑真により創建され、1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。本尊は廬舎那仏。

こちらも薬師寺以上に見応えがあるかもしれない。
特に金堂の国宝仏像群の中でも開山 鑑真や千手観音は必見だろう。
天眼鏡で先に見たかみさんは、後から訪れた自分に天眼鏡でみるべきと差し出してくれる程、見る者に感動を与えるほどの魅力がある。
天眼鏡で細部を見て行くと、それらを形にしようとした人の強烈なエネルギーが伝わってくる。
(写真は金堂前から見える廬舎那仏)

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鑑真和上御廟
境内北東の最深部にあり、森と池に包まれた静寂な空間に鑑真和上御廟があります。
土壁の続く小さな門から一歩踏み入れると、杉林の中にベルベットのような質感の一面苔に覆われた空間が広がり、鑑真和上の廟はその正面にあります。
唐招提寺を訪れた際は伽藍のみならず、見事な土壁が続く境内をぐるっと回る事をお勧めします。
薬師寺とは違った、緑の中に佇む歴史ある伽藍の姿を見ることが出来ます。

どちらも大きな伽藍。
日帰りの場合、多くの目的地を入れない方が余裕が持てるかと。
夕陽に照らされた薬師寺も見たかったがいいポイントが見つからず、遅い昼ご飯と地元の酒(試飲ができるのも電車移動の魅力)を買い求め帰途に着く。
2021/12/21

薬師寺

唐招提寺
所在地 / 奈良県奈良市五条町13-46

公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋駅➡大和八木乗り換え➡西ノ京駅降車➡徒歩2~3分
所要時間約2時間30分

常滑市 「御嶽山 洞雲寺」 知多四国八十八箇所六二番札所

常滑市井戸田町 洞雲寺

宝全寺で納経を済ませ一路南下、洞雲寺へは県道34号線を左に進みます。
その先の奥条4丁目信号で右に向かい阿野町3丁目交差点から左に進めば洞雲寺着です。
所要時間ほゞ30分でした。

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阿野町3丁目交差点から左に進むと道路左側に小高い丘と森が見えてきます。

失敗談。
写真に矢印を付けておきますが、看板があり、私らはそちらを進んでいきました。
後になって分かりますが、×を付けた細い道を進むと洞雲寺の駐車場と観音堂には出れますが、山門は左に進んだ右側です。

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右に続く細い道、その途中に石段があるのでこちらを上ります。

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境内は左に観音堂と正面に稲荷鳥居があり、樹々に包まれた先の石段を下りると本堂に続きます。
駐車場は右方向になります。

知多四国第62番札所洞雲寺観音堂
道路から見えていた丘の上に鎮座する入母屋瓦葺平入の観音堂

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観音堂外陣。
鰐口下に見える石の地蔵は「願掛け抱き地蔵」と呼ばれるそうで、願掛けをして地蔵さんを持ち上げた時、その重みが軽く感じれば願いが叶うという。重軽石の地蔵版。
賽銭箱の上にある木彫りの手は祈願用で、これを持ち撫でるとご利益があるのだという。

f:id:owari-nagoya55:20211219165103j:plain外陣天井を見上げると無数の千社札

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壁面に巡礼奉納額が掛けられていましたが、年代は読み取れない。

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内陣
左から弘法大師像、中央に聖観世音菩薩、右側に薬師如来像が安置されています。
聖観世音菩薩は33年毎に御開帳されるそうで、前回は2019年に御開帳されたようです。

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観音堂正面から境内の眺め、正面には忠魂碑。
参道の両脇の鉢は蓮が植えられていて、時期になると綺麗な花を咲かせるようで、洞雲寺には双頭蓮と呼ばれる一本の茎から二つの花を咲かせる珍しい蓮があるという。
100年に一度とか50年に一度あらわれるとか言われるようで極めて稀な事象とされ、吉祥、瑞兆の花とされ良い事が起こる前兆とされる有難い蓮なんだそうだ。
蓮を生けた鉢は本堂前にも無数見られ、実際に見てはいませんがそれらの鉢に花が咲けば見ごたえがあるやも。

本堂に向かう石段の右に鎮座する稲荷大明神

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役行者
稲荷社の向かいにオールステンレス製の祠に安置されていて、風化により像容や年代は窺い知れない。

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本殿に続く石段、周囲にもみじもあり紅葉が綺麗かもしれない。
11月の終わりに訪れましたが、この時期の紅葉はまだ色づき始めた頃でした。

本堂前の境内から石段の眺め。
石段左右に祠があり、手前の祠が地蔵尊、奥は青面金剛明王像が安置されています。

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洞雲寺本堂全景、寄棟瓦葺の平入。
洞雲寺は正式名を御嶽山洞雲寺で、由緒沿革によると開山は1555年(弘治元年)に善海法師により開かれたという。

白鳳年間、聖武天皇の勅願を受け、行基菩薩が天竺の香木から聖観世音菩薩像を刻み、御嶽山に安置、七堂伽藍、三百の坊を有する「御嶽三百坊」を建立したとされます。

しかし、1537年(天文六)の兵火によりこの伽藍は数百年間にわたって信仰、文化の中心地であった御嶽山の伽藍坊舎はことごとく焼き払われたとされます。

諸堂の焼失から難を逃れるため、仏像は池に沈められ、田畑に埋められたと伝わるようです。
時は流れ御嶽池の改浚の折、本尊の阿弥陀如来(平安末期作)が池中から発見され、信仰の場として寺院を建立したのが御嶽山洞雲寺の始まりという。

本尊の「阿弥陀如来坐像」は常滑市文化財に指定されるもので行基作。

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本堂前のおもてなし観音
三十三の姿にかえられる観音様、生きとし生けるものを導く姿を「おもてなし」というようだ。

見上げて如来
上半身だけの観音像はあまり見たことがない。
これら何れも近年に建立されたもののようです。

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本堂山号額と堂内。

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本尊の像高は88㌢で榧(かや)材の一木造で現状は生漆塗りとのこと。
極楽浄土から来迎する姿ではなく、悩みを紐解く瞑想の姿で、顔立ちは優しさが漂い、衣は十世紀風の古
様を示し、平安末期と推測され昭和44年に常滑市指定文化財になったようです。

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堂内に安置されている像各々に銘板が付けられ、そうした銘板は境内の祠にも及んでいる、馴染みのない者には有難い。

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左、賓頭盧頗羅堕尊者と右が俵子、色々と見どころの多いお寺です。

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洞雲寺の寧護大師。

ガラスの箱に入れられた猫の置物、ではなく猫の姿をされた弘法大師なんだそうだ。
この像は裏と表ともに猫の姿が描かれ、写真の三鈷杵を持つ側が弘法大師を表現し、裏側は数珠を持つ私達が猫として描かれている。
「寧護」とは安らぎを守るの意味らしく、猫だけにお供えは鰹節パックが習わしの様です。

こちらの像も平成に入って奉納されたものという。
寧護大師をお目当てに訪れる方や、専用の御朱印もあるようで、寧護大師は集客に一役買っているようだ。

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こちらが洞雲寺の玄関となる石柱門、ここから先の境内に数台は駐車はできるようですが法要に訪れた方用と割り切った方がいいかな。

という事で冒頭に戻って、右の細い道から境内に入ったので裏から入り、表から寺を後にすることになりました。

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2021/11/25

御嶽山 洞雲寺
宗派 /  西山浄土宗
創建 /  1555年(弘治元年)善海法師により創建
本尊 / 阿弥陀如来座像
札所 /   知多四国八十八箇所62番、知多西国三十三所霊場13番、法然上人知多二十五霊場12番 
宝全寺から洞雲寺徒歩ルート / 

goo.gl


所在地 / 常滑市井戸田町2-37
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鳥取県白兎海岸『恋島・白兎川下神社・淤岐之島』

二泊三日で岡山、鳥取、兵庫の一ノ宮巡り。
道の駅神話の里白うさぎで車中泊し迎えた二日目。

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まだ薄暗い空ですが水平線を見れば徐々に陽が昇ってきています。
二日目は、道の駅から徒歩10分程西にある気田岬を目指します。

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淹れたての暖かいコーヒーで体を温め二日目が始まる。
道の駅駐車場の国道9号線
そこには白兎海岸に向かう観光用なのだろう、立派な木造の歩道橋が架かり海岸まで容易に行くことが出来ます。

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歩道橋から白兎海岸の眺め(3枚貼り付け)
右方向は鳥取砂丘方向、左が目的地の気田岬。
海岸は一面砂浜でサーフィンや釣りをする姿も見られます。
岬の右に見える小さな島が淤岐之島、白うさぎが流れ着いたとされる神話の始まりの地とされます。

この海岸は白兎神と和邇族(大陸からの海洋民族など諸説あり)との戦の場とも云われています。
小さな湾の小さな砂浜は色々な神話の舞台となった。
水平線の先は大陸。
神話だけにとどまらず、意図して海を越え訪れる者から見れば、こうした場所は上陸に最適なロケーション。

f:id:owari-nagoya55:20211218085407j:plain歩道橋から海岸線を西に進むと道沿いに案内板。
恋島は大国主が八神姫にプロポーズした場所とされ、砂浜にある小さな岩で神楽岩とも呼ばれているそうだ。
目と鼻の先の海面に見える岩礁帯と小さな島が淤岐之島。
白兎の丘へは国道沿いに左に進み、白兎トンネルの手前から気田岬を上っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20211218085426j:plain上の案内板付近に神話「因幡の白兎」の解説板、舞台となった淤岐之島に向け閉立てられている。
息子達が子供の頃に誰しも一度は読み聞かせた事があると思います。
その時期も過去の事となると話の全容は怪しくなってくる。

f:id:owari-nagoya55:20211218085444j:plain恋島(神楽岩)白兎海岸。

遠目に見ると淤岐之島を望む砂浜に燈籠建てられ趣がある光景だわいとなる。
見るべきところは実は燈籠の礎石になっている岩のようです。
島とあるが、砂浜に岩盤の一部が露出した岩の集まり。

f:id:owari-nagoya55:20211218085641j:plainこの場が大国主命が八上姫にプロポーズした場所とされ、燈籠は1858年(安政5年6月)に、一番高い神楽岩の上に地元の若衆により建立されたもの。

冬の日本海の荒波や風雪に耐え、今も姿を留めている。

f:id:owari-nagoya55:20211218085712j:plain淤岐之島。
気多岬の目の前の沖にある神話の舞台となった島。
白兎はここに流れ着いた、陸は目と鼻の先。
この小さな島には東西に通じる洞窟が出来ているといい、島の高さは約10㍍程。
上部に僅かな平坦地があり、頂上には黒松や植物も自生し鳥居が建てられています。
この島は鳥取池田藩主の遊覧所があった所と言われ、この島蔭は昔の漁夫の唯一の避難所だったといいます。
沿岸の漁夫は、このあたりを「神が下」と呼んでいたようで、島の上に天邪鬼(あまんじゃく)の塚があるとされこのように呼んだようです。
岬と島の間の波間には水深の浅い岩礁帯があり、それがワニの背に例えられているという。
その気になればワニを騙さなくても陸に上がれる?そんな距離感です。
猪だって海を渡る、うさぎだって…それでは神話にはならないか。

f:id:owari-nagoya55:20211218085732j:plain気多岬の山陰に祀られた小さな神社「白兎 川下神社」

f:id:owari-nagoya55:20211218085751j:plain古来「氣多ノ前神ヶ岩」に鎮座されたもの。

天正九年秀吉の鳥取城攻めで秀吉の軍勢により焼失。
白兎神社と共に1764年(宝暦14)に再興、1912年(大正元年)白兎神社に合祀した。
祭神は豊玉比売で海を守り、婦人病の守護神とし崇敬され、平成21年の台風で被災し現在の場所に遷座

f:id:owari-nagoya55:20211218085808j:plain白兎川下神社の屋根に飾られた千木と鰹木は見慣れた形とは少し違う。

こうした形の呼称を知らないが、以前見かけた穂高造の鰹木に似てなくもない。
棟に沿って伸びる千木は一説には舟の舵を表しているとも聞いた気がする。
山奥の穂高神社とは違い、ここは目の前は海、そして和邇族、海洋民族の香りが漂ってくるような。

f:id:owari-nagoya55:20211218085827j:plain白兎 川下神社由緒 

「川下神社は古来気田ノ前神ヶ岩に鎮座されたもの。
白兎神社と共に、宝暦14年(1765年)に再興。
大正元年に合祀した祭神の綿津見大神の娘豊玉比売は神ヶ岩に庵を結び鵜の羽を敷き鵜草葦不合の命を生み龍神となり海に入っていった、依ってここに祀ったと伝わる。
海を守り婦人病の守護神として広く知られる。
平成21年の台風で被災し現在の場所となる。
祭典は8月1日」

白兎 川下神社
創建 / 不明
祭神 / 豊玉比売
所在地 / ​鳥取県鳥取市白兎

f:id:owari-nagoya55:20211218085847j:plain気多岬

白兎川下神社から国道に出てトンネル右手を上っていきます。
この先に気多岬東屋や更に上ると白兎の丘に続きます。

f:id:owari-nagoya55:20211218085905j:plain気多岬東屋から淤岐之島の眺め。

入口から2~3分の岬中腹にあり、東屋の外観は特段見所がある訳ではない。
しかし東屋内から望む淤岐之島(おきのしま)は「因幡の白兎」の舞台が一望でき、鰐の背中とされる岩礁帯を見下ろせます。
浜から見る島の姿とはまた違う姿を見せてくれる。
こうして窓枠から眺める淤岐之島の姿は額に入れられた一枚の絵のようでもあり、朝な夕な光景は移り変わっていくのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20211218085924j:plain淤岐之島。

東西に繋がる岩窟は見て取れないけれど、荒々しい自然が創り出した岩の島。
島には鳥居以外になにもない、ここに辿り着いたら目の前の陸に上がりたくもなるだろう。
岬から島までは白波が立つほどの浅い岩礁が続き、ひょっとすると鰐すら近寄れない水深です。

f:id:owari-nagoya55:20211218085940j:plain「白兎の丘」

気多岬東屋から岬頂上の丘へは二つの歩道がありますが、訪れた際は東屋から先に続く歩道は閉鎖され、
東屋手前に上に続く坂を上っていきました。
丘には展望台があり西側の眺望が望めます。
白兎神上陸の地としてカップル向きの撮影スポットが建てられています。

f:id:owari-nagoya55:20211218090004j:plain西側の眺め。

眼下に小沢見の集落とその先の岬の「大崎城址」が望め、東方向を眺めると遠く鳥取砂丘が見通せます。
サーフィンに適しているのだろう、この時期でも波に乗る姿も見られる。
夏の澄み切った青い海もこの頃になると沈んだ色なり、冬の訪れを感じさせる。

f:id:owari-nagoya55:20211218090022j:plain東側の白兎海岸と道の駅方向の眺め。

大きな浜ではないけれど消波ブロックがある訳でもなく自然の姿をそのまま留めています。
道の駅と丘はこれくらいの距離感、ゆっくり往復しても1時間はかかりません。
白兎神社参拝の際は恋島・白兎川下神社・淤岐之島まで歩いて見るのもいい。

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愛知県半田市 八幡神社(入水上神社)

乙川八幡神社(入水上神社)
以前掲載した香取神社から南に約10分程の所に鎮座します。
かつて入水上神社と呼ばれ、入水上八幡宮八幡宮と改称し、1880年(明治13)に現在の八幡神社となったようです。

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鳥居左に神馬像と境内へ繋がるスロープがある。

ここは祭礼で曳き回される山車が乗り入れるためのもの。
短いながら傾斜があり、山車の出入りには酷な坂で曳き回しの見所となっているようです。

f:id:owari-nagoya55:20211215101747j:plain朱塗りの両部鳥居はニノ鳥居で、ここから南に続く参道に石の明神鳥居がある。
鳥居右に社号標があり、手水舎は左にあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20211215181925j:plain左のスロープ沿いに手水舎がある、祭礼の事を考えての配置だろう。
どう見ても鳥居側から利用するように配置されていないようです。
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拝殿全景。
瓦葺の入母屋平入のコンクリート造りの拝殿。
拝殿左には社務所、神馬像や多賀社が祀られています。
右手には境内社が纏められていました。
八幡神社の創建は定かではないようですが、「奉再建入水上社一宇」と記された棟札が残り、そこには1522年(大永2)と記されていると云う。

古くは航路安全祈願、現在は交通安全祈願の御利益があり、また合祀に予母都事解之男命を祀っている事から悪縁切りにも御利益があるとされ、崇敬されている。

八幡神社は指定文化財が多く、覆殿の中にある三間社流造の本殿はじめ棟札や祭礼絵図、社地絵図など有形文化財に、絵馬が有形民俗文化財半田市の指定を受けている。
また、毎年3月下旬の土曜・日曜に行われる乙川祭礼行事では、八幡神社から若宮神社御神体が移動する「神輿渡御」の際には4輛の山車が警護のため曳き回されるそうで、無形民俗文化財に指定されている。

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拝殿から幣殿の眺め。
速玉之男命,予母津事解之男命,菊理姫神,天照大神を合祀。

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拝殿右に境内社と注連縄が掛けられた大きな岩が安置されている。

解説によれば「御祭神の神功皇后が子安・安産の神さまで、その御神徳と岩田帯にあやかり、この岩を撫でる事で御利益がある」という。

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正面に結界が張られた一画と手前の石の社は猿田彦神社
奥には境内社七社が祀られている。

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七社全景。
流造、神明造、板宮造りと造りは様々。

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右から伏見稲荷大社松尾大社

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その左に熱田太神宮社と……白猫に山祇社。

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右から秋葉神社天満神社、金毘羅社と並ぶ。

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上は境内社横から覆殿と拝殿方向の眺め。
本殿は見て取れない。
下はニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め、社頭には入水上神社と刻まれた社号標と狛犬がいる。
鳥居扁額は「八幡社」とあった。
山車はこの参道を経て、八幡神社若宮神社を曳き回される。

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拝殿左斜めから社殿全体の眺め。
再建時期が違うのか、幣殿は木造の入母屋平入でその先の切妻の覆殿と並んでいます。

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境内飛騨の端に脇参道があり、絵馬掛けと多賀社が祀られています。

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ニノ鳥居前の参道左に格納庫。
3月の春の乙川祭礼は無形民族文化財に指定され、地域で組織される浅井山宮本車、殿海道山源氏車、南山八幡車、西山神楽車の4輛の山車が、ここ乙川八幡神社に集結し、御神体を載せた神輿が若宮神社まで移動する際の守護として巡行されるそうです。
この格納庫に保管される山車は源氏車と呼ばれ、1852年(嘉永5)岸幕善次郎によって建造または改修を受け、今日に至るまで幾度かの補修を受け引き継がれている。
下はニノ鳥居脇に掲げられていた「乙川祭礼行事」解説。
半田市内の祭礼の中では古い由緒来歴を持つと云う。
「乙川祭礼行事」、一度は目にして見たいものです。
2021/9/24

乙川 八幡神社(入水上神社)
創建 / 不明
祭神 / 主 応神天皇,神功皇后,厳島姫命,多岐理姫命,多岐都姫命

境内社 / 猿田彦神社伏見稲荷大社松尾大社、熱田太神宮社、山祇社、秋葉神社天満神社、金毘羅社、多賀社
所在地 / ​半田市乙川殿町97​
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『長草天神社』

2019年秋から巡り始めたかみさんの知多四国八十八箇所霊場巡り。
残りも5番と87、88番札所を残すのみ。
終わりが見えてくると年内に一巡しておきたくなるもので、12月2日万願寺を目指し出かけてきました。
万願寺でゴールと行きたいところですが、JR共和駅からスタートするとロスが大きい。
それは諦め、五番札所地蔵寺を目指す、今回は地蔵寺に隣接する『長草天神社』を掲載します。

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長草天神社
JR共和駅から南西に進み県道243号線沿いを20分程歩くと長草天神社到着。
社頭全景。石の明神鳥居があり、鳥居を一歩くぐった左に手水舎と社号標。

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手水舎と時代に振り回された象徴「村社 天神社」の社号標。
管が付けられた龍口も時代を象徴する光景かも知れない。

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鳥居の額はシックなものです。
参道からすぐに石段が始まり、目と鼻の先の境内に続いています。

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天神社だけに石段を昇り始めた中ほどに大きな撫で牛が出迎えてくれる。

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石段左の由緒書き

「御祭神 管原道真公
例祭日 2月25日直前日曜日
御由緒
鎌倉時代英比ノ庄(大府市は当時英比ノ庄に属す)の地頭藤田民部は家人の藤次藤左衛門等をこの地に入墾させ、明応三年(1494)六月十九日地頭の邸内に祀られていた菅原道真公を産土神として迎えられたのが当時の創建と云われている。
御祭神が丈道の大祖であることから、学問の神として合格祈願に詣でる人は遠近を問わず、御神徳はきわめてあらたか。

大府市無形民俗文化財(平成14年指定)
どぶろく祭り
特殊神事として知られる「どぶろく祭り」は本社創建の際、藤田民部が寄進した御供田一反歩の収穫米をもって「どぶろく」を醸し、正月二十五日(現在は2月24日直前日曜日)に神前に供え、社頭で氏子、参拝者に振舞ったのが始まり。
諸事情によって寛文五年(1665)より三年間中断したところ悪病が流行し、多くが病死し村は衰退した。
これは神酒醸造を中止したからだと、寛文八年(1668)より再開したところ凶事凶作もなく平和な村になったと云う。
その後この神事は如何なる年でも継承され現在に至る」

創建から500年以上も風化することなくこの地で受け継がれている神事。
境内左には「長草天神社どぶろく酒造所」として醸造専用の建物も建てられている。

f:id:owari-nagoya55:20211214181615j:plain境内は右に社務所、その手前に梅の樹と歌碑が建つ。

「こち(東風)ふかば 匂ひおこせよ 梅の花あるじなしとて 春なわすれそ」

藤原時平一派の策略にはめられた道真は京から太宰府に流される時、手をかけていた梅を前に詠んだ有名な和歌。

f:id:owari-nagoya55:20211214181644j:plain石段脇の樹齢を重ねた楠の樹。

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長草天神社拝殿全景。
入母屋瓦葺の平入で軒唐破風付きの拝殿に見えましたが、横から見ると拝殿と幣殿、本殿が一体となる権現造なのがよく分かる。
社殿の壁面は木を多用し、見た目に温もりを感じる。
拝殿左の建屋は長草天神社どぶろく酒造所。

f:id:owari-nagoya55:20211214181724j:plain拝殿前の狛犬

御影石の産地岡崎も近いこともありお馴染みの容姿。
寄進されたのは比較的新しいようです。

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参拝を終え、拝殿から唐破風を見上げる。
瓦や破風飾りなどいたる所に梅鉢紋が施され、温もりのあるシックな外観に金色の飾り金具が輝きアクセントになっている。
拝殿内は窓が少なく薄暗いけれど、コンクリートにはないディテールや温もりが溢れている。

余談になりますが最近在来工法で寺を再建する光景に出くわした。
そこでおじさん達に交じり一人の若い女性の姿を見て、伝統技術を受け継ぐ若い世代がいる事に関心した。
遷宮にしても建て替えにしても、伝統的な技術を次の世代に継承するのに一役買っている。

f:id:owari-nagoya55:20211214181806j:plain社殿左からの眺め。

この辺りの境内は広々とした余裕のある空間がある。
境内の杜は主に楠木が主のようで、それら見事な枝ぶりのものばかり。

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拝殿左に境内社が纏められ、更に左の建物が長草天神社どぶろく酒造所。

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本殿は透かし塀もあり、全体を窺うことは出来なかった。
垂木や隅木にも梅紋の入った飾り金具が施され、コンクリートではあまり意味のない技術かもしれない。

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本殿左にも撫で牛。
天神様と牛
「天神様と牛を結び逸話は数多くある。
社頭に牛の像があるのも天神様のお使いとして信仰され、心願成就、病の平癒など祈願し牛を撫でる風習がある。
謂れは一般的に道真公が丑年の丑の刻生まれとされ、牛を大切されたという」

道真が丑年なのは知ってはいたが、真意のほどは定かではないようですが、丑の刻(午前1~3時)生まれだと云うのは今更ながら知らなかった。

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その左に境内社が二社祀られています。
そこを守護するのが石柱の台座に乗せられ、小粒ながらしっかり角を持つ可愛い狛犬
相方も一緒に載せたかったが、色が飛んでしまい吽形のみとなってしまった。

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右手が津島社
祭神は建速須佐之男命
左手が五社
神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神社の五社相殿。
祭神は天照皇大御神豊受大御神大山祇大神大名持大神、少名彦大神、火産霊大神、猿田彦大神

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長草天神社どぶろく酒造所
6つの酒元組により、輪番でどぶろく醸造し「とぶろく祭」当日に1年の無病息災を祈願し参拝客に振る舞われるそうだ。…これは機会があれば来るしかないナ。

その西は隣接する地蔵寺
江戸末期まで同じ敷地内にあり、境内西側から地蔵寺山門前に繋がっている。
今頃かみさんはこちらで納経を済ませている頃だろう。

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境内西側の清祓所と鷽替之碑
鷽替(うそかえ)とは、天満宮の特殊神事のひとつ、野鳥の鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年の災厄・凶事などを嘘とし、新しい年が吉となるように祈念する神事。
実物の鷽が見ると「ウソ!」と思うかもしれないがデホルメされた鷽の石像。

そろそろかみさんの元に行かねば。
まだこの下に狛犬が見える、待たせついでに行ってみよう。

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境内南側は一段下がって県道249号線沿いに小さな神域があり、奥に狛犬が見えます。
入口左に手水鉢がありました、元号は文化(1804~1818年)と刻まれていた。

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先に進むと上の境内から見えていた狛犬とその先に……?
この先は参道入口の楠木の巨木と撫で牛に繋がっている。
この狛犬はそれらを守護しているのかな?

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境内から地蔵寺山門前の石段に繋がる脇参道。
ここから地蔵寺に向かいます、随分待たせてしまった。

長草天神社
創建 /   1494年(明応3)
祭神 / 管原道真、菅原雅規
境内社 / 津島神社、五社宮(神明社、藤井神社、田ノ神社、山ノ神社、荒神
所在地 / ​大府市長草町本郷44
公共交通機関アクセス / JR東海道本線「共和」駅から徒歩20分程
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豊田市松平町『高月院』

松平東照宮からあやめ恋路を『高月院』に向け歩いてきました。
紅葉のトンネルも間もなく終わり視界も広がってきます。

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あやめ恋路出口の駐車場から望む高月院山門。

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高麗門の山門は1641年(寛永18)家光によって伽藍全て再建された当時のまま。
左手に「法然上人三河二十五霊場、第一番高月院」の石標、右に「愛知高原国定公園」の碑が建つ。

f:id:owari-nagoya55:20211213175702j:plain門前に掲げられた高月院解説と「高月院」の山門額。

f:id:owari-nagoya55:20211213175721j:plainこの辺りから城壁のように続く室町塀、松平郷方向を眺める。
松平村史には「秋には紅葉、茸狩りに適す」と記されるほど、松平郷は昔から紅葉とキノコが知られているようです。現在もシイタケがこの地の特産品というのも頷けるものがある。

f:id:owari-nagoya55:20211213175737j:plain山門から境内の眺め、三段で造られた境内、正面に中門、右手に庫裏に続く赤い通用門も見て取れる。
直角に近い石垣が積まれた光景はやはり城のイメージ。

f:id:owari-nagoya55:20211213175756j:plain参道から山門。
2本の本柱に各々控え柱が付き、切妻瓦葺の屋根が付く。
門からは白壁が続き、まるで城郭のよう。

f:id:owari-nagoya55:20211213175814j:plainこの石垣も再建当時のものだろうか。
石垣の上には枝垂れ桜の古木などがあり、春は参道を彩るだろう。

f:id:owari-nagoya55:20211213175832j:plain参道左の本松山三十三観音堂と百度石。
ここから本堂へは中門の石段を経て結構な距離があり、それを百度

f:id:owari-nagoya55:20211213175850j:plain観音堂右手のモダンな作りの手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20211213175908j:plain中門全景。
石段左には仏足石と葵の紋の入った小さな観音像が安置されています。
お釈迦様の足跡とされる仏足石、大きさは様々のようでこちらの足跡は大きい。

f:id:owari-nagoya55:20211213175928j:plain中門。
シンプルな瓦葺の四脚門で両側に壁が続く。

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中門から見る本堂。
境内にも枝垂桜があり、紅葉だけではなさそうです。
これは春に訪れる必要がありそうだ。
門扉の掲示物は是非とも読んでみたい、色々と取り組む住職の人となりが伝わってくる。

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本堂山号額。
本尊は安阿彌定朝作と伝わる阿弥陀如来立像。
 
高月院は草創期の松平氏と結びつき、14世紀後半から15世紀末にかけ浄土宗を西三河に定着させた鎮西派寺院、隣松寺(豊田市)、信光明寺(岡崎市)、大樹寺(岡崎市)などの一つ。
開創時期や松平氏縁故など共通点も多いようですが、高月院は他寺院に比べ開創時期の経緯がやや不明瞭とされるようです。

創建は1367年(貞治6年)、当時松平郷を治めた在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(足助重正)が開山。
開創当時は寂静寺と号し、応安(1368年~1375年)の頃に松平親氏の歸依により現在の「本松山 高月院」に改め菩提寺として本尊や堂宇が整えられました。

また親氏は、高月院から少し上の観音山の岩洞に観音像を勧請し、七日間天を仰いで祈ったとされる『親氏公行場跡』も現存します。

親氏、松平氏第2代泰親の埋葬に伴い、高月院境内に廟塔が建立され、天文年間(1532年~1555年)には松平氏第四代親忠の五男(超誉)が住職となるなど強く結びつき、第五代長親が土地を寄進し、松平氏の始祖親氏、2代泰親、後に5代長親の母閑照院殿の廟として整えられた。

天下統一を成し遂げた徳川家康は、1602年(慶長7)に上洛の途上に高月院の祖廟を参詣したとされ、その後も1641年(寛永18)には家光によって伽藍全て再建されるなど、江戸幕府により明治維新まで厚遇されていた。

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伽藍全景。
入母屋瓦葺で平入の向拝が付く本堂、当初瓦葺ではなかったようですが、幾度となく補修の手が入る中で現在の姿になって行ったようです。
写真の奥が庫裏になり、トーク好きな住職が御朱印を書いてくれます。

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鐘楼と中門、この梵鐘の音が松平郷に時を刻み、一日は朝6:15の鐘の音から始まる。

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中門全景。
左に元信公(家康)手植えの枝垂れ桜、他にも宗家公手植えの松など徳川の息吹が漂っている。

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通用門と左に供養塔。

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松平弁才天
本堂左にある宝物庫の横に鎮座、詳細は不明。

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松平氏墓所
本堂の左にあり、家康の祖先松平氏墓所
中央に始祖親氏、右に泰親、左に5代長親の母、閑照院殿の墓塔があり、下に歴代住職と松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。
墓塔の宝篋印塔は一部欠損しているが、室町時代のもので文政年間、明治中期に補修の手が掛けられている。

因みに廟の左にふるさと小径があり、それを進み、突き当りを左の山手方向に進むと親氏公行場跡方面に続きます。

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高月院東の小高い丘から見る伽藍全景。

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そこから左に目をやれば山門が見下ろせる。
柿が実り、紅葉が色を添える里山らしい光景が見られる。

手前のビオトープではハッチョウトンボも見られるそうで、メダカも放たれているようです。
悲しいかな持ち帰る輩がいる様で貼り紙が張られていた。
ここにきてあるべき姿を見るから価値がある、メダカはデリケート、捕まえても酸素の行き届かない移動中に死なせてしまうだけ。
熱田神宮の北外れにめだかの学校があるけれど、ここで群れて泳ぐ生徒の姿を見た事がない。

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高月院
山号 / 本松山
宗旨 / 浄土宗
宗派 / 鎮西派白旗流
本尊 / 阿弥陀如来
創建 / 1367年(貞治6年・正平22年)
開基 / 在原信重
開山 / 見誉寛立
中興 / 超誉存牛  本誉尊太(第15世)
所在地 / ​豊田市松平町寒ケ入44
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