松平東照宮からあやめ恋路を『高月院』に向け歩いてきました。
紅葉のトンネルも間もなく終わり視界も広がってきます。
あやめ恋路出口の駐車場から望む高月院山門。
高麗門の山門は1641年(寛永18)家光によって伽藍全て再建された当時のまま。
左手に「法然上人三河二十五霊場、第一番高月院」の石標、右に「愛知高原国定公園」の碑が建つ。
門前に掲げられた高月院解説と「高月院」の山門額。
この辺りから城壁のように続く室町塀、松平郷方向を眺める。
松平村史には「秋には紅葉、茸狩りに適す」と記されるほど、松平郷は昔から紅葉とキノコが知られているようです。現在もシイタケがこの地の特産品というのも頷けるものがある。
山門から境内の眺め、三段で造られた境内、正面に中門、右手に庫裏に続く赤い通用門も見て取れる。
直角に近い石垣が積まれた光景はやはり城のイメージ。
参道から山門。
2本の本柱に各々控え柱が付き、切妻瓦葺の屋根が付く。
門からは白壁が続き、まるで城郭のよう。
この石垣も再建当時のものだろうか。
石垣の上には枝垂れ桜の古木などがあり、春は参道を彩るだろう。
参道左の本松山三十三観音堂と百度石。
ここから本堂へは中門の石段を経て結構な距離があり、それを百度…
観音堂右手のモダンな作りの手水舎。
中門全景。
石段左には仏足石と葵の紋の入った小さな観音像が安置されています。
お釈迦様の足跡とされる仏足石、大きさは様々のようでこちらの足跡は大きい。
中門。
シンプルな瓦葺の四脚門で両側に壁が続く。
創建は1367年(貞治6年)、当時松平郷を治めた在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立(足助重正)が開山。
開創当時は寂静寺と号し、応安(1368年~1375年)の頃に松平親氏の歸依により現在の「本松山 高月院」に改め菩提寺として本尊や堂宇が整えられました。
また親氏は、高月院から少し上の観音山の岩洞に観音像を勧請し、七日間天を仰いで祈ったとされる『親氏公行場跡』も現存します。
伽藍全景。
入母屋瓦葺で平入の向拝が付く本堂、当初瓦葺ではなかったようですが、幾度となく補修の手が入る中で現在の姿になって行ったようです。
写真の奥が庫裏になり、トーク好きな住職が御朱印を書いてくれます。
鐘楼と中門、この梵鐘の音が松平郷に時を刻み、一日は朝6:15の鐘の音から始まる。
中門全景。
左に元信公(家康)手植えの枝垂れ桜、他にも宗家公手植えの松など徳川の息吹が漂っている。
通用門と左に供養塔。
松平弁才天
本堂左にある宝物庫の横に鎮座、詳細は不明。
松平氏墓所。
本堂の左にあり、家康の祖先松平氏の墓所。
中央に始祖親氏、右に泰親、左に5代長親の母、閑照院殿の墓塔があり、下に歴代住職と松平太郎左衛門尚栄・重和二代と尚栄夫人等一族の墓地がある。
墓塔の宝篋印塔は一部欠損しているが、室町時代のもので文政年間、明治中期に補修の手が掛けられている。
因みに廟の左にふるさと小径があり、それを進み、突き当りを左の山手方向に進むと親氏公行場跡方面に続きます。
そこから左に目をやれば山門が見下ろせる。
柿が実り、紅葉が色を添える里山らしい光景が見られる。
手前のビオトープではハッチョウトンボも見られるそうで、メダカも放たれているようです。
悲しいかな持ち帰る輩がいる様で貼り紙が張られていた。
ここにきてあるべき姿を見るから価値がある、メダカはデリケート、捕まえても酸素の行き届かない移動中に死なせてしまうだけ。
熱田神宮の北外れにめだかの学校があるけれど、ここで群れて泳ぐ生徒の姿を見た事がない。
高月院
山号 / 本松山
宗旨 / 浄土宗
宗派 / 鎮西派白旗流
本尊 / 阿弥陀如来
創建 / 1367年(貞治6年・正平22年)
開基 / 在原信重
開山 / 見誉寛立
中興 / 超誉存牛 本誉尊太(第15世)
所在地 / 豊田市松平町寒ケ入44
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