豊場中之町『医王山 長寿寺』

豊山町豊場中之町『医王山 長寿寺』

f:id:owari-nagoya55:20220317082855j:plain二月に掲載した豊場中之町『津島社』の東隣に臨接する曹洞宗の寺院。

赤のマーカーで示した場所が長寿寺の鎮座地です。
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津島社社頭から赤い塀が続く長寿寺方向の眺め。

 

あの日は時間の制約もあり二社だけ巡って終わっています。
豊山の町周辺には寺社も多く、町角に祀られた観音堂地蔵堂も多く魅かれるものが多い。
長寿寺前の通りを奥に向かった左側にも新田観音堂が建っています。
この日二つの堂に出会い、それらは後日纏めて掲載します、全てを巡るのは難しいかもしれないが機会を見てこの辺りを訪ねようと思う。
今回は前回寄れなかった津島社東隣の『医王山 長寿寺』を取り上げます。

f:id:owari-nagoya55:20220317083226j:plain長寿寺山門入口。

右に寺号標があり、参道はすぐに左に折れてその右に山門が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20220317083311j:plain切妻瓦葺の薬医門に白壁の塀が連なった山門。

f:id:owari-nagoya55:20220317083328j:plain山門手前に二体の石仏。

f:id:owari-nagoya55:20220317083346j:plain山門から境内の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20220317083403j:plain角柱を用いた木造の山門は小型ながら軒桁と柱を繋ぐ斗組もしっかりと作られている。

軒桁を支える斗組ですが装飾の意味もある。
絶対必要かというとそうでもない、一説には間違えて柱を短く切ってしまい、長さを補うために組んだものが始まりとも聞きます。DIYでよくあるやつだ。
そこに手をかける事は作り手側の拘りを表現するところかもしれない。

 

山門にシンプルな額が掲げられているが文字は読み取れなかった。

f:id:owari-nagoya55:20220317083422j:plain山門から境内の眺め。

左に二つの堂と正面の本堂、右に庫裏の伽藍。

f:id:owari-nagoya55:20220317083439j:plain左の堂が薬師堂、右の堂はよく分からなかった。

f:id:owari-nagoya55:20220317083457j:plain本堂全景。

大きな向拝を持つ寄棟瓦葺で堂の右に大きな石標が建てられている。
長寿寺の創建を古史で調べて見たがどうも見当たらなかった。
ただ一点、前回掲載した「萬松山 常安寺」とは拘わりがあるようです。
織田家家臣の溝口富之助が常安寺を創建した812年(弘仁3)、薬師堂として始まったのが長寿寺のようだ。
やがて田畑は広がり、それと共に集落も大きくなり、常安寺の末寺となったようです。

f:id:owari-nagoya55:20220317083516j:plain軒丸瓦に五七の桐、集水枡に金色の輪宝らしき紋が見える。

本堂内の額は医王山。
 

f:id:owari-nagoya55:20220317083536j:plain本堂右の石碑

第七世住職 恒川活禅和尚の碑で、法務の傍ら茶華道を極め、小牧・春日井地域に茶華道を広めた功績を称え建てられたもの。

f:id:owari-nagoya55:20220317083554j:plain薬師堂

方型の瓦葺の堂で豊山町最古の建造物とされ、長寿寺を訪れる動機になるだろう。
約250年前の常安寺再興の際にこの地に移転されたものだという。

f:id:owari-nagoya55:20220317083613j:plain堂前の解説板、それによればこうある。

「町指定文化財 薬師如来坐像(長寿寺)
秀麗な面貌表現・深浅を交えた写実的な衣文は当代の作例中でも出色。
檜造高さ32㌢、高さ32㌢、長寿寺薬師堂の本尊」

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薬師堂内。
山号の医王山はこの薬師如来から来ているとも云われるようで、当然ながら十二神将が守護する厨子の中に安置された薬師如来像の姿は窺うことが出来ない。格子天井には天井絵が描かれている。

f:id:owari-nagoya55:20220317083652j:plain本堂から山門方向の眺め。

犬山街道一帯に法務の傍ら茶華道を広めた恒川活禅和尚、豊山町最古の建造物薬師堂のある寺。
2022/02/24

 

医王山 長寿寺
宗派 / 曹洞宗
創建 / 不明
本尊 / 不明