『日本橋』東京都中央区

東京都中央区日本橋

f:id:owari-nagoya55:20200807182552j:plain桜が待ち遠しい時期でもあり、COVID19の足音が忍び寄ってきたころ、かみさんと日本橋を訪れた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182623j:plain仕事で訪れ、ここを通りかかっても、立ち止まって景色を眺める事などあまりなかった。
空を覆うように首都高が伸び、周囲はビルばかりで殺伐とした人工的な風景と色合いの広がる世界は、立ち止まる事より、とっと帰ろうとしか思えなかった。
かみさん主催「おのぼりさんツアー」の目的地の中に日本橋近くでおでんを食べるために改めて日本橋を眺めてみた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182700j:plain首都高につながれてそそり立つ柱。
「道路元標地点」と鋳印された柱は、家康が各地を結ぶ目的から整備を進めた五街道(東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道)、ここ日本橋は1604年(慶長9)にそれらの起点に定められた。

f:id:owari-nagoya55:20200807182722j:plain二本の高速道路の高架に連結するように脚が付けられ、中央から柱が上に伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20200807182744j:plain日本橋の親柱の「麒麟
かみさんは東野圭吾の大ファン、ここに来たら「麒麟」は撮っておかなきゃいけないと教えられ一枚。
麒麟の翼」が映画化された時にこの「麒麟」像が登場したようです。
翼が付けられた麒麟、躍動感があり凛々しい姿です。
東京市の繁栄を願い麒麟が設置されたようですが、翼が付けられた麒麟の姿はここから世界に羽ばたこうとする願いもあるのかもしれない。

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明治に入り、橋の中央が全国の国道の起点と定められ、佐藤栄作により文字の刻まれたブロンズ製の元標が橋の中央の車道に埋め込まれています、車道のため実物は見れませんが橋を渡った橋詰にそのレプリカがあります。

ここから西へ国道1号線(旧東海道)が東北に国道4号線(日光街道奥州街道)が伸びていきます。
国道6号線(水戸街道)、国道14号線(千葉街道)、国道15号線国道17号線(中山道)、国道20号線(甲州街道)など、今も昔も要となる道路の起点は日本橋から始まっています。

上は江戸名所図会の日本橋の光景、日本橋川を行き交う船、そして人。
船は車に代わっても人の往来の多さは今も変わらないようです。

f:id:owari-nagoya55:20200807182842j:plain橋の手前に中央区教育委員会の解説板があり、それによれば
国指定重要文化財日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。
橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重歌川広重)の錦絵でも知られています。
現在の日本橋東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。
橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。
橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。

f:id:owari-nagoya55:20200807182923j:plain今の時代にあって文化財にも指定されない古いものは取り壊され、無機質な新しいものに変えられていくそうした風潮には寂しいものがある。
空を覆う高速は東京が羽ばたいた証なんだろうが・・・・・
2020/2/20

日本橋
住所 / 東京都中央区日本橋室町1-1