稲置街道を行く 「金幣 村國眞墨田神社」

名鉄楽田駅から稲置街道を歩き始め、前回記載した稲置街道「犬山神社」をゴールとしていましたが、そこから犬山城の東を木曽川堤に向かい、木曽川を渡り鵜沼方向に向かいますもう一社参拝し、帰りは新鵜沼から家路に向かう事に。

f:id:owari-nagoya55:20210717092212j:plain公園坂の赤い橋を越え左手に進むとその先は木曽川

f:id:owari-nagoya55:20210717092228j:plain堤を上流に向け歩いて行くとその先に木曽川に架かる犬山橋が見えてきます。
2021/3/9この時期、河津桜が咲き誇り色合いが乏しかった風景に春の訪れを告げる。
対岸の小高い山は鵜沼城址

f:id:owari-nagoya55:20210717092244j:plain橋の上から下流の眺め、左に国宝犬山城と対岸に伊木山城址、いずれの城も目と鼻の先。
一目で互いの動きが捉えられる距離にあり、川を挟んで対立する際には戦略的にも重要な場所。
木曽川沿いに御囲堤を築いたのも頷ける。

f:id:owari-nagoya55:20210717092300j:plainひと昔前の犬山橋は電車と車が並行して渡っていた恐怖の橋、今は分離され安心して通行できるように整備された。
高山線の踏切を渡ると左に「金幣 村國眞墨田神社入口」の看板が見えてきます。
かみさんは正面右の和菓子屋さん、おやじは村國眞墨田神社と別行動。

f:id:owari-nagoya55:20210717092325j:plain県道27号線から線路沿いに左に進む、右手に立派な玉垣が見えてきます。
今回参拝する最後の神社「村國眞墨田神社」です。

f:id:owari-nagoya55:20210717092346j:plain社頭から境内の眺め、右手に「郷社 村國眞墨田神社」社号標、郷社の文字は埋められているようだ。
1908年(明治41)健之の鳥居、その先の境内は奥行き、横幅共に余裕たっぷりの広さを持つ。

f:id:owari-nagoya55:20210717092403j:plain鳥居扁額は「式内 眞墨田神社」
鵜沼地区の産土神で、各務原市「金弊五社」(那珂手力雄神社、加佐美神社、村国神社、御井神社、村國眞墨田神社)の一つです。玉垣右に金弊社の石標がある。
金弊社。
明治初期、神社は県社、郷社、村社に格付けされましたが、戦後は全国の神社を一律、平等に扱うことになり、この制度は廃止されます。
しかし岐阜県社格が一律なのはおかしいということから金弊社、銀弊社、白弊社、無格社の4つに分類したもので岐阜県固有のものらしい。
社格制度はともかく、各務原市鵜沼地区の産土神として人々から崇敬されている。 

一の鳥居から見るこの姿に、長い歴史を誇る式内社として威厳が漂う。

f:id:owari-nagoya55:20210717092423j:plain小振りで子犬の様な狛狐が守護する眞墨田稲荷神社
鳥居をくぐった左に東向きに鎮座する。

f:id:owari-nagoya55:20210717092448j:plain境内右に手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20210717092505j:plain舟の様な形の手水鉢は1823年(文政6)のもの。
龍口からは絶え間なく清水が注がれていました。

f:id:owari-nagoya55:20210717092527j:plain境内全景
左から朱の鳥居は恵比寿大黒神社、右の明神鳥居が護国神社、その右の神明鳥居は金毘羅社、注連柱の先が千鳥破風が付く入母屋平入拝殿。
境内はとても綺麗に掃き清められていた。

f:id:owari-nagoya55:20210717092543j:plain境内で一際目立つ荒樫の御神木。
元々は拝殿脇の杉の巨木が御神木だったが、昭和34年の伊勢湾台風で倒木、代わって樹齢600年と云われるこの樹が御神木に、老木ゆえに樹木医により数々の延命措置が講じられ現在の姿を保っている。

f:id:owari-nagoya55:20210717092606j:plain天正十二年(1584)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた際に、許可を得て現在の場所に神社を遷宮したとのことです。

f:id:owari-nagoya55:20210717092622j:plain金幣村国真墨田神社の御由緒
当社の祭神は天之火明命 彦火火出見命 金山彦命 岡象女命 村国雄依の5柱である。
社名の由来は南宮 真墨田 村国の組み合わせで美濃の南宮神社の系列で尾張の真清田神社と同系である。
村国は飛鳥時代当地方を治めた村国氏の祖を祀ることでつけられたもので、この地に散在する古墳が村国氏にゆかりが深いことはよく之を物語っている。
醍醐天皇の御代の延喜式神名帳には村国大明神と有り、天正12年までは南町部落郷倉にあった。
戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね永正3年、時の城主大沢和泉守吉正の弟大沢治郎左衛門正継が出家の折り奉納した愛刀村正は現在神刀として保存されている。
永禄10年鵜沼城は落城し織田領となり、天正12年小牧長久手の戦いに船頭がしら河村惣六は豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力、その功により馬5頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり、之を奉納し当社の宝物となっている。
惣六は喜んで村中氏子の同意を得、現在地に神殿を造営奉遷し現在に到っている。
一番古い棟札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である。

f:id:owari-nagoya55:20210717092638j:plain拝殿前の警護担当。

f:id:owari-nagoya55:20210717092700j:plain祭神は天之火明命、金山彦命彦火火出見命罔象女命、村国男依を祀る
本殿は流造のようですが全容は捉えきれませんでした。
創建時期は7世紀頃といわれ、美濃国各務郡を支配していた豪族村国氏が美濃国一宮の南宮大社の主神「金山彦命」と尾張国一宮の真清田神社の主神天火明命を合祀して創建したのが始まりのようです。
村国男依は後に祭神として合祀されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210717092720j:plain拝殿額は「稜威」と拝殿内の額は「金幣村國眞墨田神社」

f:id:owari-nagoya55:20210717092739j:plain拝殿左に六末社(天満社、秋葉社、雨之宮社、山神社、洲原社、御鍬社)

f:id:owari-nagoya55:20210717092820j:plain

f:id:owari-nagoya55:20210717092835j:plain拝殿左に神明鳥居を構える社が金毘羅社。
鳥居の先で本殿を守護する小さな狛犬は年期が入っていそうですが年号を見忘れました。

f:id:owari-nagoya55:20210717092858j:plain恵比寿大黒神社一の鳥居(上)と一見するとニの鳥居に見える正面の鳥居は護国神社の鳥居(下)。
恵比寿大黒神社の二の鳥居は参道左の朱の鳥居。

f:id:owari-nagoya55:20210717092921j:plain護国神社本殿を先に参拝。本殿は神明造。

f:id:owari-nagoya55:20210717092941j:plain参道左側の恵比寿大黒神社。
左手は日露戦争記念碑。

f:id:owari-nagoya55:20210717093001j:plainその並びに小社と霊神碑、御嶽神社だろうかか?

f:id:owari-nagoya55:20210717093021j:plain
境内西側から社務所方向の眺め。境内右に神馬像がある。

社地西側の脇参道から境内の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210717093044j:plain社頭の南はJRと名鉄の線路が横切り赤い電車が行き交う。

f:id:owari-nagoya55:20210717093103j:plain鳥居から南を眺めると道の先には木曽川で隔てられているが犬山城天守を一直線に眺めることが出来る。
この眺めは岡崎の大樹寺山門から直線上に岡崎城が一望できる「ビスタライン」と似ている。
「鵜沼ビスタライン」とでも命名しよう。

金幣 村國眞墨田神社
創建 / 不明
祭神 / 天之火明命、金山彦命彦火火出見命罔象女命、村国男依
境内社 / 六末社護国神社、眞墨田稲荷神社、金毘羅社、恵比寿大黒神社、
所在地 /    岐阜県各務原市鵜沼山崎町1丁目
犬山神社より徒歩 / ​県道27号線、犬山橋経由30分程
公共交通機関アクセス /   名鉄犬山線各務原線新鵜沼駅より徒歩5分
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