既に掲載した信濃國 二之宮「小野神社」
ひとつの社叢を共にする小野神社と矢彦神社、今回は辰野町の飛地となる境内に鎮座する「信濃國二之宮 矢彦神社」を掲載。
両社は細い水路で塩尻市と辰野町の飛地境界を設け、一つの社地を共有する。
小野神社から一旦国道153号線を南に向かい、矢彦神社の赤い鳥居を通り過ぎ、北上する際見かけた矢彦神社の手水舎に向かう。
走行中に見えていた光景、左に手水舎と古びた石の神明鳥居、そこから石畳の参道が杜に続く。
石垣の中ほどから引かれた清水が絶えることなく手水鉢に注がれている。
この清水は長野県の「ふるさとの水20撰」にも選ばれ、長野県の代表的湧水リストにも名を連ねている御手洗の奥の境内には小さな泉もあり水の豊かさを感じられる。
矢彦神社由緒。
信濃国二ノ宮矢彦神社
御祭神
正殿 大己貴命、事代主命
副殿 建御名方命、八坂刀賣命
南殿 天香語山命、熟穂屋姫命
北殿 神倭磐余彦天皇、譽田別天皇
明治宮 明治天皇
御由緒
当神社の社伝によると、矢彦神社は1400年ほど前に創建されたとされる信濃国二ノ宮であり、上伊那郡54か村の総鎮守である。
遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命を従えこの地に立ち寄ったと伝えられる。
古くから皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばあった。
欽明天皇の御代、大己貴命、事代主命を正殿に、建御名方命、八坂刀賣命を副殿にお祀りし、矢彦神社の形が整う。
例祭日は毎年八朔(旧8月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)と云われた。
天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造営、御柱祭とが7年毎の式年祭と定められた、白鳳2年(674)の事である。
安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造営、以後約700年にわたり宮材を木曽山林から出材されることになる。
以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(武田信玄)、勝頼をはじめ徳川幕府の崇敬厚く再三社殿が造営された。
慶安2年(1649)徳川家光から神領高10石及び附属山林諸役免除の公丈御朱印状を献納される。
明治天皇の御代、明治5年(1872)社格が郷社となり、明治14年(1881)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜る。
明治27年(1894)、明治遥拝殿を創建、明治天皇の生祠明治宮は、我国でも初めてのもの。
明治33年(1900)、社格は郷社から県社に昇格。
御造営材の御下賜は昭和7年(1932)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称された。
昭和11年(1936)、巣山沢御料地を御造営材供給の備林として24町歩余の山林御下賜の天恩を受ける。
例大祭 9月朔日(現在は10月第一日曜)
式年御柱大祭 毎卯酉年5月
鳥居をくぐった左手の境内社。
社名札等見当たらず詳細は不明。
左脇の社叢には小さな泉があり、泉中央に小さな石の祠をお祀りした小島が浮かんでいる。
右手後方は御柱と矢彦神社神楽殿。
社叢の中の小島と祠。
神楽殿の左がニ之御柱、右は一之御柱。
諏訪信仰の一角をなし、諏訪大社に次ぐ「信濃国二之宮」の風格ある佇まいで、社叢を共にする矢彦神社は上伊那郡の総鎮守、隣の小野神社は東筑摩の総鎮守と呼ばれる歴史のある神社です。
先程くぐった鳥居は神明鳥居だったが、こちらは朱の明神鳥居。
境内から見える山を越えれば諏訪大社。
社伝によると
「天保13年(1842)に完成されたとされ、弘化3年(1846)の「普請諸入用調帳」も残されていることから、このころ建築されたと考えられます。
さらに、この「調帳」から立川和四郎冨昌の請負であることが判明しています。
建物は梁間3間、桁行4間の木造切妻造妻入りで、銅板葺です。柱はすべて丸柱で、身舎外側の四方に浜縁と擬宝珠高覧を廻し、正面のみに階を備えています。
神楽殿内部に架けられている奉納額。
ほゞ顔料は退色し全体の描写もよく分からず奉納年度は定かではない。
小さな体でよくぞここまで登るものだ、豊かな杜は小さな命も育む。
神楽殿後方に建ち、建築年代は定かではなく、17世紀後期と推定されます。
シンプルな外見ですが細やかな彫や透かし彫りも施されています。
神社HPによれば
拝殿左右の廻廊と共に、安永9年(1780)に初代立川和四郎冨棟が請け負っていることが、残された請負証文で明らかとなっています。
社伝によると天明2年(1782)に完成したとされています。
両廻廊ともに4間左右に広がったのち、正面に向かって折れています。
建物外面は連子格子および板壁とし、内面は開放されています。
拝殿前の狛犬と拝殿唐破風。
年代不明の狛犬。
拝殿の巧みな斗組や見事な彫物は視線を釘付けにする。
拝所の格子天井全面にデフォルメされた龍が描かれ、周囲の透かし彫りにも龍が彫られている。
二枚の額が掲げられているが、随神?が描かれていたのだろうか、脱色し輪郭がうっすらと見える。
大きな鏡が輝く内陣。
拝所同様に内部も細かな彫飾りが施されている。
正面、左右に面格子が組まれているが、以外に外光が入らず良く見えなかった。
拝殿と廻廊。
拝殿両脇の脇障子の彫物は水面と蓑亀、竹が彫られている。
拝殿の木目が綺麗な象と獅子の木鼻に大きな屋根を支える斗組。
本殿域には手前に流造の社四棟(南殿、副殿、正殿、北殿)がある。
その四棟後方にも三棟が建てられ、中央のやや大きめの流造の社が明治宮だろうか。
板塀が囲う本殿域の外周は、小野神社同様御柱を立てるための道が付けられ一周する事も可能。
ここまで来たものの、高い板塀に遮られた本殿域は見渡せなかった。
かつては1郷であった村も毛利秀頼と石川数正の領地争いの結果、秀吉の裁定で2つに分けられ、同じ社叢に2つの神社が祀られる形になったが、両社を隔てるものは細い流れだけです。
両社ともに静かで落ち着いた居心地のいい神社です。