『備後國一ノ宮吉備津神社』​広島県福山市新市町

先回掲載した吉備津神社境外社「厳島神社」と「胡神社」からの引き続きとなります。

 今回は胡神社から先の吉備津神社

参道の先の石の明神鳥居とその先の随神門。
 参道はまっすぐに続き正面に見える石段へ続きます。
社頭右に「国幣小社吉備津神社」の社号標、左手に由緒書きが掲げられています。
 扁額は緑青で見えにくいけれど「吉備津一宮」と記されています。
柱には慶安元年(1648)の銘が刻まれていた。

社頭の由緒書き
「備後國一宮 吉備津神社
由緒
当社は吉備開拓の恩恵神 吉備国の総祖神 大吉備津彦を奉斎し 霊験あらたかにして光輝き 国家安寧 護国豊穣 交通安全 延命長寿 開拓招福の守護神として備後國一宮・一宮さんと親しまれ広くそのご神威を仰がれている。
例祭 市立大祭 
(11月23日及びそれに近い日曜を含む3~5日間)」 とある。

吉備津神社境内。
 虎睡山東麓斜面に伽藍が広がり、多くの境内社と本殿裏山には吉備津神社裏山遺跡も発掘されている。
図でお分かりの様に随神門から一直線に伽藍が配されていますが、随神門を二つ構えているのは珍しいかもしれない。

吉備津神社下随神門。
 入母屋瓦葺の八脚門で、鎌倉時代の「一遍上人絵伝」では楼門として描かれており、室町時代の「備後一宮大明神絵図」では八脚門に描かれ、現在の門は後者を建替えたものされる。   

 当社には上随神門、下随神門の二つあり其々に随神が安置されている。
その理由が社伝に記されている。
 10月の神無月は全国の神〃が出雲に集まる、しかしここの大吉備津彦命のだけが欠席したという。
そこで出雲から2人の使者が吉備津神社に派遣されたが、歓待を受けそのまま吉備津神社の門守として仕えた事から上下に随神門が作られたいう。

下の随神門をくぐると視界は一気に広がり、イチョウの巨木が聳える広大な駐車場が現れる。
後方の山は虎睡山。
 このイチョウの巨木、樹高は22㍍で幹回りは6㍍を越え樹齢は300年とも云われるが、木の勢いは衰える事無く丸い樹形の立派なもので、駐車中の車と比較するとその大きさが想像できるのでは。
実を付けるのか定かではないが、仮に実を付けたとすると凄い量の銀杏だろうし、広い駐車場は黄色の落ち葉で染まるのではないかな。

参道右の桜山神社

 注連縄柱の先に瓦葺の平入拝殿と瓦葺の入母屋平入の本殿の伽藍。

境内左に見頃を過ぎた桜とその奥に桃太郎の像が立てられている。
 備前国一ノ宮「吉備津彦神社」境内の桃太郎のセメント像は色合い、シルエット共にシュールだったが、こちらは安心して見られる。

1488年(長享2)頃、桜山城に創建されたが、1765年(明和2)の暴風で倒壊、現社殿は1911年(明治44)桜山城跡から移築・再建されたものという。

拝殿前を守護する狛犬は双方玉持ちで表情は随分とやんちゃな顔つきに見える。

 拝殿から本殿は渡廊で結ばれている。
明治に移築されたこともあり伽藍全体傷みは少ないようだ。

本殿は入母屋瓦葺の平入で向拝が付く。
 祭神は桜山茲俊命、他23柱。

鎌倉時代末期元弘元年(1331)後醍醐天皇が討幕を計画し失敗、笠置山に逃れて兵を募った時に、楠正成に呼応して桜山四郎入道慈俊も挙兵、備後一之宮に拠って一時は備後半国を従えました。
 しかし、同年九月に笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城、楠正成は戦死した。
桜山方の見方は離散し慈俊は一族郎党二三人とともに、翌二年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝わる。
一説によれば桜山茲俊は吉備津神社を崇敬していたと云う、その社殿の荒廃が進み、幾度か再建を志すが財政が伴わず念願は叶わなかっという。
 後醍醐天皇に協力したのも根底には吉備津神社再興の目論見があったと云う。
彼らが自刃前に神社を焼き払ったのは、再興を願っての事だっという。

上随神門に続く石段脇の手水舎。

 龍口の奥には水神が祀られている。

石段の中ほどに、左右に境内社が祀られています。


左が大山祇神社で手前は神馬舎。

右側が秋葉神社四所神社の相殿。

上随神門。
 下随神門と造はほぼ同じで、手前の間に安置される随神は出雲から遣い。
親近感が沸く表情だね。

門をくぐって裏の間に………解説とかなかったような気がするが、不思議なものが安置されていた。

門をくぐって右が社務所、随分立派なものだ。
 こちら方向に進むと境内社が複数祀られている。

門の正面が神楽殿

1673年(寛文13)に建てられ、入母屋瓦葺で四方は吹き抜けのもの。
 屋根は銅板が葺かれているが以前は檜皮葺だったという。

境内はここから二段に造営され、石段の先が拝殿になります。

 この日はタイミングが悪く、祭礼に向け幕やテントを張る工事の真っ最中で、ここから先は気が引ける状態だった。
取り敢えず内部の写真だけ撮影し、作業の妨げになるのでやむなく右側から回り込み本殿に向かう。

境内右側の境内社
右が彰徳宮、祖神社、白髪神社の三社を祀る覆殿。

その左の覆屋は吉備津天満宮
 祭神は菅原道真
内部には願いが記された無数の絵馬で一杯だ。

吉備津天満宮左側にも境内社が続く。


厩戸皇子神社。 祭神は聖徳太子

右、武内神社。祭神は武内宿弥。左、疱瘡神社。祭神は少名彦名命。

突き当りの山の斜面の先に祀られているのは十麻里二柱神社(とまりふたはしらじんじゃ)

 祭神は吉備津彦命、その親族12柱が祀られている。
旅人の安全と交通安全に御利益があるという、まだ先は長い、帰途無事に戻れるように。

吉備津神社本殿。

眼にも鮮やかな朱で彩られた本殿は江戸時代の1648年(慶安元年)に初代福山藩主水野勝成による造営された入母屋桧皮葺で大きな千鳥破風と唐破風向拝の付く豪華な造りだ。(国重要文化財)
創建は806年(大同元年)で主祭神大吉備津彦命
相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命

一宮さんの名で親しまれ、備後國一宮として現在も崇敬されている。
国幣小社、現在は別表神社

一年の2月と9月に正中の光という、不思議な現象が起こると云う。
ご神体が朝日を反射し正中を貫き、ここまで見て来た拝殿、神楽殿、上随身門、下随身門の建造物の中をすり抜けて石鳥居付近まで照らし出すという。
その時期の日の出の方角と伽藍位置を織り込んで設計されたという事、昔の人は凄い事を考えるものだ。

本殿前には2対の狛犬が守護する。

 備前焼狛犬は妙に痛々しい姿、表情は冴えないようだ。
下はやんちゃそうな風貌だ、何れも寄進年度を見忘れた。

本殿の千鳥破風と唐破風向拝で額には「虎睡山」とある。
 鮮やかな朱色が唯々鮮やか。

公孫樹乳房神。
 祭神 / 乳房神

下、吉備津神社本殿裏山遺跡解説。
吉備津神社本殿裏山で焼失した建物が見つかり、平安時代の瓦や土器などの出土品が多数発見されたという。
 そのきっかけは1985年の大雨による土砂崩れでその際偶然に発見されたと云う。
鎌倉時代に描かれた「一遍上人絵伝」では本殿の背後に多宝塔が描かれていて、前進的な建物の可能性が強いと云う。神社の伽藍は現在より更に広大なものだったと見られている。

多理比理神社。
 右側の石碑に記された由緒は以下。

「御祭神 多理比理神(息長帯姫神(姉)・息長日子王(弟))
由緒  古事記に記載してある右の神々を祀ると見るのが至当。
 延喜式神名帳に記載してある神社(式内社)二千八百六十一社の一つで、西暦七百年代には既にかなりの伝統を有していた備南随一の神社」とあり、かなりの古社のようだ。

十二神社。

 鳥居扁額には大名持神社とあるが、大己貴神を祀る十二神社でいいようだ。
 祭神 / 大吉備津彦命の一族12柱と大名持神。
干支の石像が参道両側に並んでおり厄除け、縁結び、そして大願成就として知られる。
 三日、七日、二十一日の期間に願(がん)かけすると道が開けるとされる。

この右手に吉備津稲荷神社もあるが、この一画は時間の都合で鳥居から先には進まなかった。

多理比理神社から左手に下りていくと左手に二社。

左が山雷神社で祭神は雷神。
右が真名井神社、祭神は御井神、前にあるのは井戸。

更に先に進むと大山祇神社が鎮座する。
 石段左側に見えていた社です。
祭神 / 大山祇神

その右に神馬舎。
 ここから上随神門に続く石段を下り境内を後にする。

境内から下随神門、御池方向の眺め。
 かみさんのは既に車に向かったようです。
・・・・広島焼き間に合うか。

備後國一ノ宮吉備津神社
創建 / 806年(大同元年)
祭神 / 主祭神大吉備津彦命
相殿神 / 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命
境内社 / 桜山神社大山祇神社秋葉神社四所神社、彰徳宮、祖神社、白髪神社、吉備津天満宮厩戸皇子神社、武内神社、疱瘡神社、十麻里二柱神社、公孫樹乳房神、多理比理神社、十二神社、吉備津稲荷神社、山雷神社、真名井神社大山祇神社
所在地 / ​広島県福山市新市町宮内400

参拝日 / 2022/04/20
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