名古屋市中村区名駅5 『天王社』

名古屋市中村区名駅5 天王社

名古屋の玄関、名古屋駅から地下鉄桜通線に乗り一駅先の「国際センター」駅で降車、3番出口から地上に出る。
 そこは桜通りと江川線が交差する泥江(ひじえ)町交差点。
今回訪れる天王社はここから南の1ブロック先を左に入ると鳥居が見えてくる。徒歩1~2分で辿り着く。

江川線沿いは花車ビルをはじめオフィスビルが林立し、上を見上げると名古屋高速の高架が空を覆い視界の狭い空間が広がり、偉大なる田舎と呼ばれた名古屋も息の詰まる都会になってきた。

上は明治頃の名駅5付近とほぼ現在の地図を並べて見ました。
 中央の堀川を境にして右と左で町割は見事に違う。
名古屋城を中心とした当初の町割と後に発展していった町の違いがよく分かる。
 1898年当時にしてここから西の庄内川に向け水田が広がり、その中に集落が点在する土地柄だった。

明治生まれの曾祖母が生前良く言っていたが、水が湧く湿地帯が多く、夜道を歩いていると狐や狸が道を謀ってきて「もう信じらんない!サイアク~」そんな世界だったという。
 今や方向を謀るのは狐や狸ではなく、どれもこれも個性のないビルが林立する森かも知れない。

 昔の人はとにかく良く歩いたものだ。
車や地下鉄で最寄り迄、なんて選択肢はなかった時代、それに比べなんとひ弱な自分、歳と共につくづく感じる。

泥江(ひじえ)町交差点から1ブロック先で左に入り、花車ビルの東側の通りに出る。
 一本中に入るだけで随分と見通しも利き、周囲は静かになる。

名駅5の天王社全景。
 交差点の角地一画にある駐車場の一角に天王社は鎮座します。

周囲を石垣と玉垣で囲われた小さな社地、西を向いて石の神明鳥居が立つが、社標はなく天王社かい?と思えてくる。
 樹々に包まれ、高い位置に祀られた社の趣は御嶽神社にも見えてくる。

後方の紅葉と書かれたシャッターがある建物は「名古屋市指定文化財 紅葉狩車格納庫」
 ここを調べて見るとこの社が天王社である事が定かになった。

社頭全景。
 良くぞ開発から免れたものだ、旧広井村から花車町へ変わり、この地に居住する住民から護り継がれて来た結果だろう。
紅葉狩車格納庫と隣り合っていればこの先も鎮座し続けられるだろう。

 この天王社の詳細は分かりません、鳥居の寄進年は1934年(昭和9)、これを以て地図に記されていない天王社の創建時期と推測するには無理がありそうです。

 それは1610年(慶長15)名古屋城築城に伴い掘削された堀川にあり、堀川により水運が発達し四間道をはじめ堀川沿いには商人の住居や土蔵が立ち並び住居が軒を連ねるようになります。
住居が密集すると様々な災い除けのため、社が祀られていくのは自然な事です。

 街道沿いや四間道沿いの住居の軒下に屋根神様が祀られていきます。
そうした屋根神様も時代と共に地に降ろされたり、住居の一角に社地を与えられ祀られますが、それらはまだいい方で、住居の建替えと共に姿を消していきました、これも自然な事です。
 こちらの天王社もそうした流れからここに移された可能性はあります、それが鳥居寄進年の1934年なのかもしれない。

すぐ東の四間道沿いは景観保全に積極的で、かつての面影を残すためそうしたことから通りには今も屋根神様が残っています。


 千種区山門町の日泰寺参道にある屋根神様(2022/10/01、日・タイ文化フェスティバルの際に参拝)
屋根神様には写真の様に津島神社熱田神宮秋葉神社の三社が祀られる場合が多く、こうした提灯が吊るされている光景が見られます。

鳥居をくぐって天王社境内の全景。
 岩が高く組まれその最上段に社が祀られています。
では早速参拝……ん? 賽銭箱が見当たらない。

台の上にその理由は書かれていた、敢えて文字に起こそう。
「おさい銭が再三盗難にあっています
 『罪人を作らない』為、おさい銭を遠慮致します。
あなた様の清らかな参拝は三社の神様に通じていると思います」

悲しい内容だ、一度の事ではないだろう。
 防犯カメラを投資し愚かな行為を取り締まる解決策もあるなか、街中の小さな神社が選んだ、人を責めず仕組みを変える究極の選択だろう。
龍口や蛇口、排水桝・・・金目のものはなんでも盗んで行く、貧しい国になったものだ。

 岸田さん! 政権与党! 先生方! ここまで追い込まれている今の日本の現実どう考えている? 

気を取り直し、ささやかな賽銭を置き、三社に参拝させてもらおう。

天王社東に隣接する紅葉狩車山車蔵。
 個人的にこの辺りとは縁がなく、紅葉狩車が曳航される花車神明社祭は知らない。

「名古屋の文化財から祭りの概要を見る。
この山車は、那古野神社の天王祭に周辺の町から曳き出された山車で、1818~1830年(文政年間)に作られたといわれている。山車に用いられる水引幕、大幕も製作当初のままである。人形は、能の紅葉狩を写したもので、大将維盛・鬼女・従者の三体からなっている。」
とあった。

那古野神社(中区丸の内2)の前身は三の丸天王社で、1818~1830年(文政年間)には祭礼で曳き出されていたと云う。
 往時の天王祭ではこの町内(旧広井村)から9輌の山車が天王社のだんじりに対する献灯車として参加していたと伝わる。 
現在、この町内には紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車が受け継がれ、他は各地に転売されるなどされているとの事。
 
 明治時代に入り三の丸天王社の城外移転に伴い祭礼は衰退し、献灯車としての役割も無くなり、山車は地元の祭で巡行されるようになったと云う。
1955年(昭和30)、名古屋まつりに山車が巡行されるようになると、 資金面で年に2回の巡行は難しくなり、名古屋まつりと同じ10月に行われる花車神明社(同町)の祭例に山車を巡行するようになったと云う。
 格納されている紅葉狩車のからくりは、女人形の優しい顔が一瞬で鬼の形相に早変わりするらしい。
まるでかみさんを怒らせた時の様だ。


天王社
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / 名古屋市中村区名駅5-9-10
参拝日 / 2022/10/12
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「国際センター」駅降車、3番出口から​南へ徒歩1~2分
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