厳島神社外宮 『地御前神社』

既に掲載した地御前・大歳神社を少し先に進むと山陽本線の踏切が現れます。
今回取り上げる「地御前神社」は踏切を越えた右側に見える杜に鎮座しています。

地御前史跡MAPの寺御前神社の鎮座地は☆の位置になります。

山陽本線踏切から見る地御前神社の杜。

公道が境内を横切り、左側に鳥居、道路を挟んで社殿が鎮座します。

地御前神社社殿。
右手に大きな石碑が建てられ、道路はその先の拝殿前を横切っていきます。

国道開鑿碑、ここに道路の解説が記されていた。内容は以下。

明治維新以降、嶺・峠・坂が続く往還から平らな道の必要性が生まれた。
明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より始まった。
明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。
そして明治13年2月にはついに大竹まで新道が開通した。
工事費は当時の金額で三万円余りを費やし、その殆どが民間 有志の寄付金で賄われた。道路にかけた当時の民衆の熱意の高さをうかがい知ることが出来る。
碑文では、「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するための大運動を展開した。
結果、神社前の国道2号線が完成した。」と伝えている。
明治18年8月 明治天皇西巡の際、聖駕(天子の乗り物)をお通しし歓呼して天皇をお迎えした。
明治20年の国道開鑿碑建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号「平成」の由来の一つと言われている。)
碑の裏面には当時の佐伯郡東は己斐村より、西は大竹に至る86ヶ村の世話役修路従事者510名の芳名が刻されて感謝の意が表されている。
明治20年(1888)2月成立 令和2年(2020)5月復元
令和2年11月 地御前地区自治
地御前郷土文化保存会
地御前市民センター企画運営委員会」

以下は地御前の明治頃とほぼ現在の地形を比較した地図。

当時の地図には山陽本線広島電鉄の線路はなく、海岸線は地御前神社の前まで迫り、地御前・大歳神社に至っては社頭の前に海岸は迫っていた様子が分かります。
その後、海岸線は埋め立てが進み、陸地は海に〃迫り出し、その上に現在の国道や鉄道路線、漁港が作られ地域の発展にもつながったようです。

石碑後方の境内に鎮座する境内社「胡子(えびす)神社」。

解説がなく創建など詳細は不明ですが、その名から祭神は蛭子神と思われます。

五間社流造の本殿。
背後を山陽本線が行き交い、遮断機の音や振動でゆっくり落ち着かないか?
祭神は厳島神社の本宮と同じく、市杵島姫命田心姫命湍津姫命宗像三女神で、非常に大きな入母屋の拝殿があります。

厳島神社の鎮座する宮島の対岸に位置し、厳島神社の外宮として同時期に建立されたとされたのが地御前神社。
往古は19の神殿舎屋があったされますが、現在の本殿は宝暦10年(1760)に再建されたもの。
こうして見る社殿から往時の面影を感じる事はなく、手前の拝殿と本殿、本殿左に隣接する客人(まろうど)殿、拝殿右側の境内末社胡子神社が主な伽藍になります。

拝殿は大正3年(1914)に再建されたもので、往古の厳島神社は一般の上陸が許されなかったため、対岸の地御前に外宮として社殿が建てられ、拝殿から厳島を遥拝していたようで。
当時は拝殿前の鳥居から先は海岸線で、一説には祭礼のひとつで旧暦6月17日におこなわれる管絃祭では
神職を乗せた御座船はこの拝殿横まで舟が着けられ、そこから拝殿に上がる事ができたとも云われ、その場所がこの場所にあたるようです。
その痕跡だろうか、拝殿の妻を支える柱の一部に途中で切られたものがあり、恰も舟を繋ぐ目的と思われるものがあります。
手前の石段など見ていると船着場の雰囲気が感じられなくもない。

地御前神社は宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火で民家共々焼失し、宝暦10年(1760)に再建され、この舟形の手水鉢はその際に寄進されたもの。
火災は安政5年(1858)正月6日にもあり、その際は拝殿、お旅所、お供え所、神馬屋、釈迦堂を焼失、現在の拝殿は大正5年(1916)に再建された。

拝殿前には石の明神鳥居が立ち、かつては鳥居の前まで海岸が迫り、拝殿に舟が付けられたというのも頷ける。
今は鳥居のすぐ先を広島電鉄の線路と国道2号線が横切り、かつて拝殿の前に広がっていた海や沖に見えた厳島の姿は、今では国道の防波堤に阻まれ、容易に拝めない。
この鳥居はもともとは仁治元年(1240)に木造の大鳥居が建立されており、享和元年(1801)に再建され、現在のものは明治31年(1898)に建立されたもの。

線路のフェンス際から眺める拝殿。
この辺りがかつての明神が浜になるのだろう。
ここまで下がっても拝殿と両脇の狛犬が一枚に収まり切れない。
横長の拝殿は軒先の反りとのバランスが良く、どっしりとした安定感のある姿をしています。

狛犬(阿形)。

見つめる先は海ではなく、誰も訪れることないフェンスで区切られた線路と国道。

吽形、電車がやってきた。


入口側の石の扁額は「厳島外宮社」

境内側の扁額は「地御前神社」

拝殿全景。
銅葺屋根の入母屋で平側が10間、妻側は3間の吹き抜けで、大正3年(1914)に再建されたもの。

拝殿左から見る拝殿と客人殿。

棟には三ツ盛り亀甲花菱の紋が施されています。
社殿後方の杜は通称桃山と呼ばれる社叢で、山陽本線の先まで続き、その先には住宅地と社頭同様に変貌しています。

客人殿。
全景が良く見えないけれど恐らく、三間社流造のように見えます。
祭神は天忍穂耳命天穂日命天津彦根命

拝殿脇の社記

厳島神社摂社 地御前神社々記
広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座
1.御祭神
御本宮は嚴島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命湍津姫命 所謂宗像の三女を奉斎せり。
御客人宮の御祭神は厳島神社の御客人宮の御祭神に同じ。
2.御由緒
御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。
明治維新までは、厳島神社(御本宮・内宮)、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。
御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。
厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐拍鞍職に幽事を治め、百王を鎭護す」と示現ありしと云ふ。
この御鎮座の所を合浦といふ。
3.祭日 陰暦5月5日御陵衣祭。 雅楽舞「後の舞」。流鏑馬神事あり。端午の節句
陰暦6月15日管絃祭御洲堀神事。
6月17日、厳島御本宮管絃祭。」

板張りの広い拝殿内。

右手が拝所正面にあたり、奥が客人殿になります。
拝殿内には奉納絵馬や額が掲げられていますが、いずれも脱色しており拝所からは窺い知れません。

右の額の奉納年はなんとか大正5年と読めますが、何が描かれているのか・・・流鏑馬か?


大正13年に奉納された額で厳島神社の鳥居と舟が描かれた管弦祭の様子だろうか。

平成に入り奉納されたもので鶴と鳥居が描かれていました。
左は昭和に奉納された美女、琵琶を持っているので弁財天か。
吹き抜けの拝殿には、他にも幾つか掛けられていますが、脱色するのは早いようです。

拝殿左から地御前神社の全景。

普段は訪れる参拝客はなく、この村から出兵し亡くなられた方の名が刻まれた皇威輝八紘碑や神社の前を時折車が通り過ぎる程度の静かな通りですが、流鏑馬神事が奉納される時には、この通りは多くの観衆で賑わうのだろう。

有府川に架かる外宮橋。
ここを渡り海側に向かいます。

また走ってきた。

地御前神社前の堤防から宮島方向の眺め。
厳島神社の奥宮は外宮の地御前神社から真南に鎮座します。
ここから国道沿いに降車駅の地御前駅に戻り、電車に揺られ宮島口に向かいます。


厳島神社摂社 地御前神社
創建 / 推古天皇元年(593)
客人宮 / 天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命
例祭 / 御陵衣祭(旧暦5月5日)
管絃祭 / (旧暦6月17日)
所在地 / ​広島県廿日市市地御前5-17
参拝日 / 2023/03/03
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