公道が境内を横切り、左側に鳥居、道路を挟んで社殿が鎮座します。
地御前神社社殿。
右手に大きな石碑が建てられ、道路はその先の拝殿前を横切っていきます。
国道開鑿碑、ここに道路の解説が記されていた。内容は以下。
明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より始まった。
明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。
そして明治13年2月にはついに大竹まで新道が開通した。
明治20年の国道開鑿碑建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号「平成」の由来の一つと言われている。)
以下は地御前の明治頃とほぼ現在の地形を比較した地図。
当時の地図には山陽本線や広島電鉄の線路はなく、海岸線は地御前神社の前まで迫り、地御前・大歳神社に至っては社頭の前に海岸は迫っていた様子が分かります。
その後、海岸線は埋め立てが進み、陸地は海に〃迫り出し、その上に現在の国道や鉄道路線、漁港が作られ地域の発展にもつながったようです。
石碑後方の境内に鎮座する境内社「胡子(えびす)神社」。
解説がなく創建など詳細は不明ですが、その名から祭神は蛭子神と思われます。
五間社流造の本殿。
背後を山陽本線が行き交い、遮断機の音や振動でゆっくり落ち着かないか?
祭神は厳島神社の本宮と同じく、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神で、非常に大きな入母屋の拝殿があります。
往古は19の神殿舎屋があったされますが、現在の本殿は宝暦10年(1760)に再建されたもの。
こうして見る社殿から往時の面影を感じる事はなく、手前の拝殿と本殿、本殿左に隣接する客人(まろうど)殿、拝殿右側の境内末社の胡子神社が主な伽藍になります。
拝殿は大正3年(1914)に再建されたもので、往古の厳島神社は一般の上陸が許されなかったため、対岸の地御前に外宮として社殿が建てられ、拝殿から厳島を遥拝していたようで。
神職を乗せた御座船はこの拝殿横まで舟が着けられ、そこから拝殿に上がる事ができたとも云われ、その場所がこの場所にあたるようです。
その痕跡だろうか、拝殿の妻を支える柱の一部に途中で切られたものがあり、恰も舟を繋ぐ目的と思われるものがあります。
手前の石段など見ていると船着場の雰囲気が感じられなくもない。
地御前神社は宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火で民家共々焼失し、宝暦10年(1760)に再建され、この舟形の手水鉢はその際に寄進されたもの。
拝殿前には石の明神鳥居が立ち、かつては鳥居の前まで海岸が迫り、拝殿に舟が付けられたというのも頷ける。
この鳥居はもともとは仁治元年(1240)に木造の大鳥居が建立されており、享和元年(1801)に再建され、現在のものは明治31年(1898)に建立されたもの。
線路のフェンス際から眺める拝殿。
ここまで下がっても拝殿と両脇の狛犬が一枚に収まり切れない。
横長の拝殿は軒先の反りとのバランスが良く、どっしりとした安定感のある姿をしています。
狛犬(阿形)。
見つめる先は海ではなく、誰も訪れることないフェンスで区切られた線路と国道。
吽形、電車がやってきた。
上
入口側の石の扁額は「厳島外宮社」
下
境内側の扁額は「地御前神社」
棟には三ツ盛り亀甲花菱の紋が施されています。
社殿後方の杜は通称桃山と呼ばれる社叢で、山陽本線の先まで続き、その先には住宅地と社頭同様に変貌しています。
客人殿。
全景が良く見えないけれど恐らく、三間社流造のように見えます。
祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命。
拝殿脇の社記
御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。
明治維新までは、厳島神社(御本宮・内宮)、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。
御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。
厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐拍鞍職に幽事を治め、百王を鎭護す」と示現ありしと云ふ。
この御鎮座の所を合浦といふ。
板張りの広い拝殿内。
右手が拝所正面にあたり、奥が客人殿になります。
拝殿内には奉納絵馬や額が掲げられていますが、いずれも脱色しており拝所からは窺い知れません。
右の額の奉納年はなんとか大正5年と読めますが、何が描かれているのか・・・流鏑馬か?
大正13年に奉納された額で厳島神社の鳥居と舟が描かれた管弦祭の様子だろうか。
下
平成に入り奉納されたもので鶴と鳥居が描かれていました。
左は昭和に奉納された美女、琵琶を持っているので弁財天か。
吹き抜けの拝殿には、他にも幾つか掛けられていますが、脱色するのは早いようです。
拝殿左から地御前神社の全景。
普段は訪れる参拝客はなく、この村から出兵し亡くなられた方の名が刻まれた皇威輝八紘碑や神社の前を時折車が通り過ぎる程度の静かな通りですが、流鏑馬神事が奉納される時には、この通りは多くの観衆で賑わうのだろう。
有府川に架かる外宮橋。
ここを渡り海側に向かいます。
また走ってきた。