世良田東照宮 (群馬県太田市世良田町)

群馬県太田市世良田町鎮座「世良田東照宮
太田市の南西に位置し、西に伊勢崎市との境も近く、利根川左岸沿いの早川の東に広がる広大な田畑の中に鎮座します。

世良田東照宮の西に隣接する新田荘歴史資料館の駐車場が無料で利用できるのでありがたい。
一帯には歴史資料館と世良田東照宮太田市歴史公園がありますが、もともとは世良田東照宮と長楽寺の領地で神仏分離までは一つの寺として多くの塔頭寺院があったようです。

かつての新田荘は浅間山の噴火で荒廃したと云います。
その新田郡を新田義重が新田荘として再開発し、私領を手放しその資金で長楽寺の再興を図るなど、この地の礎を築いたと云われます。
義貞は鎌倉幕府を倒したことでも知られ、新田荘資料館の前には義貞の銅像が立てられています。
また、この地は徳川所縁の地でもあり、一帯には所縁の地や遺跡などが点在します。

世良田東照宮へは、駐車場から新田荘歴史資料館を横切り、小学校方向に向かうと写真の小黒門が現れます。

東照宮創建時、幕府により建てられたもので、当時は門の左右に白壁が80㍍に渡って繋がっていたそうです。
江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝だったようですが、正月と家康公薨去日4月17日などは特別に開かれ、拝殿下の拝所からの参拝が許されたと云います。
この小黒門は別名縁結び門と呼ばれ、門の敷居をまたいで参拝すると良縁が成就すると言われています。

要約すると、日光東照宮を三代将軍家光が改修した際に、徳川氏発祥の地とされるこの地の長楽寺境内に旧社殿を移築し東照宮を勧請、幕府からも厚遇を受けていた。

上は境内にも掲示されている上毛世良田東照宮全図。
描かれた当時と現在で建物の配置は大きく変わりはないようで、表門とあるのが小黒門にあたります。
ここには描かれていませんが境内の左側には移築された五重塔も建っていたようです。
境内左の稲荷社と社務所の左にある日枝社も当時のままです。(境内社は後日掲載)

小黒門の敷居を渡ると参道左に手水舎。

手水鉢には絶え間なく清水が注がれ、5月だというのに異常な暑さの当日にこの冷たさは有難かった。

参道から小黒門、門前の眺め。
境内には桜の古木が多く、桜の時期は楽しませてくれそうです。

鳥居から拝殿の眺め。

境内には宝暦から天保元号が刻まれた石灯籠が見られます。
写真は天保15年(1844)。

大鉄燈籠。
上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠。

高さ4.95mで当時日本一大きい鉄燈籠。

御供水井戸。
社務所から拝観券(@300)を買い求め神殿域に入って最初に目にする井戸。
御宮へお供えする水を汲み上げるための井戸。
寛永21年(1644)、東照創建に幕府の命により造られたもの。
現在も滾々と湧き出ており、容器持参で汲み上げに来る方もいるという。

拝殿正面。
入母屋銅瓦葺、桁行(長側面)五間、梁間(妻壁のある面)3間の平入(妻壁のない側)で、前後の軒に唐破風が付くもの。
拝殿は日光東照宮奥社のものとして元和年間(1615~1623)に建立され、寛永17年(1640)~同19年に日光東照宮の改修に伴い、徳川氏発祥の地とされるこの地に移築された。

前日、ガラスの殿堂に収められた前橋東照宮を参拝しましたが、世良田東照宮の社殿は陽光に照らされ、朱も鮮やかで華麗な姿を見せてくれます。
建物の保存管理という避けて通れない難題解決の王道の姿だと感じる。

神殿域へは右の冠木門をくぐっていきます。
諸説云われますが、家康は堅実派で絢爛豪華なものを好まなかったと云われる事もあります。
個人的に思い描く家康もそうした人物だっただろうなと思います。
家康の思いが込められ最初に作られた日光東照宮の神殿、それがこの建物だと思います。
日光東照宮は圧倒的な規模と絢爛豪華な装飾が施された類を見ない美しい建物ですが、一庶民から見ると身の置き所のない別世界に感じてしまいます。
家康が望んだ形はそうしたものを望んでいたとは思えない。

後方の本殿域は現在(5月12日時点)、唐門・本殿・透塀が修復工事中で本殿域を拝み見る事は叶わなかった。

正面軒唐破風。
各間には職人の手で細かな装飾が施されていますが木鼻の意匠など比較的大上品なもの。

中央の間の上段に飛龍、下には松の木に身を埋める鷹の姿が描かれています。
修復中の本殿にはこれと似たようなデザインの「巣籠りの鷹」があります、修復工事が終わった後に訪れた際は、見上げて見るといいでしょう。
松の木に作られた巣に3羽のひな籠り、左右から親鳥が見守る姿は、家族愛、子孫安泰、家内を守護する意味が込められています。それらは左甚五郎、狩野探幽により形作られたとされます。

拝殿内。
レプリカかもしれませんが堂内には、狩野探幽の弟、永真安信をはじめ狩野休伯長信、狩野元俊秀信の三人によって描かれた三十六枚の歌仙図が掛けられています。
中央には世良田東照宮造営時に後水尾天皇より下賜された勅額(レプリカ?)が掛かる。
また、鏡を守護する様に左右に金色に輝く狛犬の姿も見える。

拝殿左の妻壁と梁の装飾。

拝殿斜め後方から全景。
修復履歴は調べていませんが、全体の色合いは丁度落ち着き、煌びやかですが、過度な装飾のない上品なもの。

後方の軒唐破風。
正面と意匠は似ているが鷹の姿は松の木の上で羽を休めている姿。
この鷹の姿は本殿の巣籠りの鷹と物語として繋がっていくものかもしれない。

本殿域の前に植えられていた二葉葵。
三つ葉葵の紋は知られますが、所謂「三つ葉葵」と呼ばれるものは存在せず、この二葉葵をモチーフにしてデザイン化されたもの。
なんとなく山葵の葉に似てなくもなく、山葵の様に食用になるかは定かではない。

本殿。
何度も書きましたが、修復作業中で姿は見ることが出来なかった。
工事の紹介から抜粋していますが、左下が本殿のあるべき姿。
左上は唐門の柱部分ですが、漆や彩色は剥離され、露わになった躯体の修復の後、新たに塗られていきます。
こうした修復工事は、文化財を修復する為の技術や将来の人材の育成にも繋がる。
仮にこうしたものが真空パックされ、永久保存する流れが行われたとすると、そうした技術や携わる人材も離れていく事になるのだろう。
参拝時が修復期間中に当たると残念ではあるけれど、あるべき姿を見るために再訪する動機にもなるだろう。

右の燈籠は政保2年(1645)、忍藩老中阿部忠秋の寄進。
左は宝暦13年(1763)癸未に前橋藩松平朝矩により寄進されたもの。

境内左の境内社「開運稲荷社」と世良田東照宮拝殿の眺め。
境内社は別途掲載する事にします。

更に左に進むと新田壮遺跡、晋光庵跡などの遺構があり、冠木門に至ります。
その手前に年輪を重ねたソメイヨシノの老木に目が止まります、なんでも群馬県では一番太い樹だという。
割れ目が入りながらも青々と葉を茂らせ、木の勢いは衰えていない見事な桜です。

その後方の方形の覆屋は真言院井戸。
鎌倉時代に長楽寺別院として建てられ、灌頂を行う水を汲み上げるために作られた井戸。
現在残るものは寛永19年(1642)に作り替えられたもの。

冠木門。
南御門と呼ばれ世良田東照宮の南にあり、道路の向かいは新田荘歴史資料館になります。
当初は現在地より更に南に建てられていたようです。

世良田東照宮
創建 / 寛永21年(1644)
祭神 / 東照大権現
配祀 / 菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。
境内社 / 稲荷社、日枝社
祭事
一月元日 初詣
1月4日 除魔神事 午後1時
1月5日 御釿始め式 午後一時
4月第一日曜日葵祭り 午前十時~
4月17日例祭、10月17日春季祭
11月 七五三祝祭
拝観料・開場 / 300円・9:00から
参拝日 /2023/05/12