『冨士大権現 天満天神宮』名古屋市中川区荒子

荒子観音寺を後にして次は冨士大権現 天満天神宮を目指します。
神社が鎮座する権現公園に向け南へ約10分程の移動時間。
「まつと共に過ごした荒子城界隈と前田利家ゆかりの地を巡る」ヒラメキ散歩コースに従って巡っています。
行きたいとこリストもかみさんと共有していたが、問題を解くのが最優先のようだ。

写真は権現公園南側に面した道路から冨士大権現 天満天神宮の杜の眺め。

上は大正初期の荒子村周辺地図で村の真ん中から少し西よりに位置しています。
前田利家所縁の地を巡るこのコース、冨士大権現 天満天神宮をチェックポイントにしたのには理由がある訳で、この場所に荒子城が築城されていたことによる。

海東郡荒子村の地を収めた前田利昌は、この地から西の庄内川右岸の前田城を拠点にしていたが、天文13年(1544年)にこの地に荒子城を築き拠点にしたと云われます。
その利昌の四男として生まれたのが前田利家で、ここ荒子城が前田利家の誕生之地とされます。
コースには前田城も含まれており、そちらの由緒によれば、利家は前田城で生まれたともあり、諸説あるようです。
いずれにせよ、加賀百万石の礎を築いた前田利家がこの尾張から誕生した事に違いはありません。

冨士大権現 天満天神宮境内の眺め。
大きな楠と松が聳え、適度に間引かれた明るい杜で、この時期は境内に植えられた梅が咲き誇っていた。
社頭の参道に、梅鉢紋の入った赤い幟が風に揺れている。
加賀藩前田家の梅鉢紋は知られるところで、一説に前田家のルーツは菅原道真とも云われるようで、彼が好んだ梅をモチーフにした梅鉢紋を使っていたのかな。

ほゞ南向きに社頭を構え、正面の拝殿まで石畳が続いています。
社頭は右側に「冨士大権現 天満天神宮」の社標が立てられ、左に由緒・荒子城解説が立てられています。
鳥居は石造の明神鳥居で、その先に一対の常夜灯と左側に手水舎があります。

由緒・荒子城跡解説。
荒子城解説は以下の様に解説されています。
荒子城跡
天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝わる。
その子利久、利家、利家の子利長が相継いで居城。
天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地へ移り荒子城廃城。
『尾陽雜記』『古城志』などによると、城は東西約68m、南北約50mで一重堀を巡らしていた。
名古屋市教育委員会
このことから、現在の権現公園と社地を含めた敷地面積が城の規模とイメージできますが、現状では城が合った痕跡は見られません。
越前国府中に領地を与えられた利家は、天正4年(1576)菩提寺である荒子観音寺の本堂を再建し、越前府中の統制に注力していった。
利長が府中に移った後、荒子城は廃城となったようですが、城内鎮守の冨士大権現天満天神宮は村人により護られていったようです。

左の富士社 天満社由緒記
・亦名「冨士権現天満宮
・御祭神は、木花開那媛尊、菅原道真
・創建の詳細は不明
荒子城主前田氏の城内鎮守として勧請され、弘治元年(1555)「前田利家再興」の棟札がある。
・前田氏の祖は菅原氏とも云われ菅原道真を祀る。
天正4年(1576)越前に移りし後も村民・氏子から篤く崇敬されている。
・昭和63年(1988)社殿再建。

由緒について尾張志(1844年)に目を通しました。
「富士天満天神相殿社 高畑村中脇と云う所にあり」に留まり、それ以上の情報は得られなかった。

境内左の手水舎、西側の権現公園と境内は遮るものはなにもありません。

龍は絶え間なく清水を注いでくれていました。
この日は先を目指すあまり、神社の歴史を綴る寄進物の年代は見ておらず心残り。

拝殿正面全景。
切妻瓦葺の四方吹き抜けの木造拝殿で、妻側に格子戸、軒側は縦格子の腰壁が付くもの、拝殿と本殿は渡廊で結ばれています。

狛犬は子持ち毬持ちのもの。

拝殿から本殿方向の眺め。
妻壁に黄金色に輝く梅鉢紋がアクセントになり、賽銭箱には金色の五七の桐と梅鉢紋が入る。
派手な装飾の無いシックな佇まいをしている。

拝殿から本殿を結ぶ渡廊と本殿域。

本殿は一間社流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
祭神は木花開那媛尊、菅原道真公。

大きな社ではありませんが、脇障子や虹梁など手の込んだ彫が見られます。

拝殿左の前田利家荒子城の解説から一部抜粋。
「加賀百万石の藩祖、前田利家は1537年(天文6)(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。
幼名は犬千代。
15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。
22歳のとき、10歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。
この頃、又左衛門利家と名を改めています。
若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。
桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍。
33歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。
利家39歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。
その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。
荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。
規模は狭い平地に簡単な棚と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。
城内には、富士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。
また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。
利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。
時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。」 

生誕地など諸説あるようですが、いずれにせよ郷土が生んだ一大武将であることに違いはなく、地元の誇りとして前田利家発信隊が結成され愛されている。

本殿域左に聳え立つ「前田利家卿誕生之遺址」の石碑。

馬にまたがった若き利家と初陣を見送るまつの姿。(名鉄荒子駅西出口の前田利家公初陣之像)

利家がまつと夫婦になったのが22歳の時とされ、まつは12歳、この初陣之像だけ捉えれば利家の初陣が14歳の時とされるので、まつの姿は4歳....
まつは生涯に11人の子を出産したと云う。
因みに2023年の出生率は1.2という結果のようです。

冨士大権 現天満天神宮
創建 / 不明(弘治元年(1555)の棟札が残る)
祭神 / 木花開那媛尊、菅原道真
境内社 / ……
例祭日 / 10月第一日曜日
所在地 / 名古屋市中川区荒子4
参拝日 / 2024/02/14
荒子観音寺から冨士大権現 天満宮へ徒歩 / 門前通りを​南へ徒歩7分
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から​​南へ徒歩10分​​
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