『雨宮神社』名古屋市中川区中郷

「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、三狐(さんこ)神社、八王子神社と訪れてきました
八王子神社にきて、寄りたい所リストに気付いてくれたかみさん
更にコースから外れ県道190号線を10分前後南下した雨宮神社に舵を切ってくれた

写真は野田一丁目交差点の少し南から見た雨宮神社の杜。
県道脇に南北に長い社地を持ち、県道から左に入った南側に社頭を構えています。

上は大正9年(1920)の鎮座地付近、当時の西脇集落の西に鳥居の印があります
この辺りは伊勢神宮と所縁の深い地域で
平安時代庄内川左岸にかけて伊勢神宮の御厨 一楊御厨(いちやなぎのみくりや)がひろがっていました
明治期に野田村の一部として、後に御厨村、荒子村と合併を続け、大正10年(1921)に名古屋市南区編入、その後昭和12年(1937)に中川区編入され、現在の中川区中郷(ちゅうごう)に至っています
御厨村の由来も一楊御厨の厨郷からきているとされ
ここから南の旧村名の東中島、西中島、三軒屋、法華の各集落でも伊勢神宮と所縁の深い神明社が祀られていったようです

雨宮神社北側から見る中鄉伏見稻荷社覆殿
雨宮神社社殿は左の森の先に鎮座します
社頭へは次の道を左折してください

コミュニティーセンター横の石碑、銘文から一部を抜粋
「この地域一帯は湿田米作地帯で防災的道路もなく、昭和17年東西1㌔、巾55㍍、中心に10㍍道路を整理を行った・・・・・
無秩序な宅地化が将来禍根残す事を惧れ住民の総意から健全な市街地造成した・・・・・」
古くから河川の氾濫が起こり、氾濫がもたらす土壌を耕し広大な田園が整備されたが、時代が変わり田園は姿を消し、土地を改良し宅地化が進んだ土地柄なのが良く分かる
今はゆとりのある区画、何十年かすると切り刻んだ住宅密集地に変っていき、その先は空屋ばかりの町になっていくのだろうか

雨宮神社社頭全景
境内は全周玉垣で囲われ、右手に社号標、常夜灯、その先に石の神明鳥居を構えている

社標は明治34年(1901)に寄進されたもの、鳥居、常夜灯の寄進年は未確認

参道右の由緒
「雨宮神社
御祭神 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
文政2年(1819)に遷座
明治5年郷社に
明治25年(1892)指定郷社に列す
近郷の鎮守の宮として、五穀豊穣・風雨の神と崇拝されている
例祭には、干支歳にあたる人々より健康や家内安全を祈り奉納行事が執り行われる
祭典 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社」
とある

上は寛政頃(1789~1801)に描かれた愛知郡村邑全図から中郷村の絵図
宝珠院、光明院の位置が記されており、それからすると破線の〇辺りに雨宮神社が記されていてもよさそうですが記されていません、更に西側の村絵図にも雨宮神社は表れません
絵図左上の破線で囲んだ二つの神社があり、そこに雨宮、風宮が記されています
絵図が描かれた時には雨宮、風宮両神社は野田に鎮座していました
左は尾張志(1844年)の記述
雨宮社「天照皇大神、高龗神を祀り、末社に白山社、冨士社あり」とだけ記されています
その下に
風宮社「中島新田地内にあり、天照皇大神の他2柱を祀る」の記述が見られます

現在の雨宮神社は由緒にあるように野田集落から文政2年(1819)に現在地に遷座したもの
風宮社は明治40年に遅れて遷座したようです
祭神の高龗神は、伊邪那岐命軻遇突智を斬った時に、闇龗ととも出現した水を司る神として崇敬されている

参道左の手水舎

龍は清水を注ぎ、手水鉢の清水は澄んだいた

雨宮神社拝殿
瓦葺で切妻妻入りで梁行き桁行ともに三間のもの
左側に境内社が纏められています

社殿は拝殿から渡廊を経て鞘殿が一体となっており、本殿姿は窺えなかった

拝殿前の狛犬は昭和48年(1973)に寄進されたもの

鬼には社名の雨宮が入る

妻壁には馬が駈け、龍が蠢き、鯉が滝を登る姿が彫られている

シックな雨宮神社の木目が鮮やかな拝殿額は大正3年(1914)のもの

下り棟の鬼には雨、その隣で獅子が跳ねる

拝殿左の覆殿
切妻瓦葺の平入で、手前に手水鉢と覆殿の前にやけに目立つ色合いの狛犬の姿がある
左は朱の覆殿は中鄉伏見稻荷社で猿田彦社・白龍社が祀られている

手水鉢
年季が入っていそうですが寄進年を見忘れました

覆殿
ここには左から秋葉社・風宮社・津島社の額が掛けられています
雨宮と風宮の神が揃う神社はあまり記憶がないかもしれない

離れていても存在感のある狛犬
余程素材が柔らかいのか肌はきめ細かく、阿形の頭部や吽形の尾など剥離した様に欠損している

台座の年代は大正15年(1926)刻まれていましたが、台座も同様に欠損していました
素材はなんだろうか

秋葉社・風宮社・津島社が祀られる覆殿と雨宮神社の覆殿。

中鄉伏見稻荷社
朱の奉納鳥居が右の覆殿まで立ち並びます

手水鉢
鳥居をくぐった左側にありますが年代は見忘れました

手水鉢から右に朱のトンネルは続き
正面の朱に塗られた玉垣の先が中鄉伏見稻荷社
左右に猿田彦社・白龍社の二社が祀られています

中鄉伏見稻荷社本殿
手前に一対の狛狐が守護し、その先の本殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が付く

さて、この二社が分からない
右は稲荷社と同様の造りで、一見すると稲荷社に見間違えそうですが狐がいない
左は板宮造り、どちらも社名札がなく社から社名は分からないが、猿田彦社と白龍社であることは由緒から間違いない
・・・神明造の社が猿田彦社かな、いや千木が内削ぎだ・・・導いて欲しい

県道の歩道側から隙間なく連なる奉納鳥居と覆殿
鮮やかな朱色がとても印象に残る

雨宮神社
創建 / 不明 (文政2年(1819)遷座)
祭神 / 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 / 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社
氏子域 / 中川区荒中町、打中、中郷、中花町
例祭日 / 10月第2月曜
参拝日 / 2024/02/14
所在地 / 名古屋市中川区中郷2-164
八王子神社から雨宮神社 / ​​県道190号線を南下10分前後
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野田村三社 『八王子神社』 (中川区野田)

『八王寺神社』
前回掲載した三狐神社の社頭を南北に伸びる県道190号線、そちらを南下し野田小学校西交差点を通り過ぎて次の道を右折すると八王寺神社の社頭が現れます

野田交番の東隣りに隣接し、社頭はその南側になります、三狐神社から移動時間は徒歩5分程になります
所在地は中川区野田2
江戸時代の当地周辺は愛知郡野田村で、野田村に鎮座する三社を称して野田村三社と呼ばれたようです

上は大正9年当時の鎮座地、当時はまだ荒子村大字野田の頃
Wikiによれば、野田の由来は当地が湿地や湿田が多く、そうした場所を沼田(ぬだ)と呼んでいた
いつからか「ぬだ」が転じて「野田」になったという
江戸時代の愛知郡野田村はその後、愛知郡御厨村大字野田、荒子村大字野田、名古屋市南区野田町、中川区野田町を経て、昭和28年~昭和59年の間は八王子町とされたようで、その由来は当社からきていると云う
その後八王子町は消え、現在の中川区野田2丁目に編入されたようです

南向きに社頭を構え、社頭右に昭和5年(1930)に寄進された八王子神社社号標
その先の一対の常夜灯は明治41年(1908)の寄進もの
石の明神鳥居は昭和60年(1985)

鳥居手前から境内の眺め
参道右に神馬像、参道左が手水舎、正面には一対の狛犬と社殿が連なります

境内の「八王子神社の御祭神と沿革」
内容は以下
「当社の御祭神は古事記によれば天照大御神素戔鳴尊が誓約(神意を占うこと)され、天照大御神は三女神を、素戔鳴尊は五男神を生んだ、すなわち田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命
八王寺権現とも呼ばれ当社に祀られ、更に当地地名の由来でもある
尚、当社には古来より御神田があり、御斎田として耕作されていたが、農耕法により県へ買収された
今日我々崇敬者一同は、神の御守護を受けて平穏無事な日々を送ることができるのである
ここに挙って町内安全と世界平和を祈願してやまない
昭和六十一年十月 」

しかし三狐神社の際に目を通した尾張徇行記(1822年)で中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」記述と除地と記されています
創建は詳らかにはならないようですが
慶長13年(1608)、徳川義直の命から伊奈備前守ら検地奉行により尾張全域で実施された備前検地時には既に神社は存在していることが分かってきます
また尾張志(1844年)では、「野田の氏神社の神明社から東南」に八王子社があると記され(マップ左に貼り付け)ており、当社を指す事は明らかです
野田村三社の創建時期は更に遡っていきそうです

八王子神社で一際目を引く大きな楠の木陰に建てられた手水舎

八王子神社の龍

境内右の神馬像(1985)の鞍の紋は千成瓢箪だろうか

社殿全景
社殿はこの拝殿と後方の覆屋下に流造の本殿

拝殿前の狛犬昭和5年(1930)に寄進された子持ち毬持ちのもの

拝殿の破風飾に五七の桐紋、妻壁や蟇股に彫られた彫飾りはなかなかのもの

妻壁の飾り
正面の立派な龍に視線は行きますが、左右にあまり見覚えのない満月と三日月の彫が施されている
そしてこの拝殿で一際目を引くのが格子天井に描かれた色鮮やかな天井絵かもしれない

拝殿内の天井絵と八王子神社拝殿額(昭和初期の寄進)
鮮やかな色合いの花の天井絵は比較的最近描かれたものだろう
身近で見られる花が鮮やかに描かれ、拝殿内の印象もとても明るく感じられます
祭神は愛知県神社によれば天照大御神須佐之男命となっていましたが、ここでは社名、由緒を尊重し田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命としておきます

本殿覆屋

本殿は外削ぎの置き千木と5本の鰹木が施された流造
本殿域の玉垣はやはり昭和5年(1930)、この時期に境内は大きく改修されたようです

寄進年は不明ですが、本殿両脇で二対の小さな狛犬達が本殿を守護しています
後方の陶製狛犬は小さい体ながら角を生やしたもの

本殿側から見る拝殿妻壁の意匠
こちらは龍の上は虎かな、こちらの面にも左右に満月と三日月が描かれています
満月と書いていますが、太陽(天照)と月(月読)を描いたものかもしれません

八王子神社
創建 / 不明 (寛文7年(1667)再建)
祭神 / 田心姫、湍津姫、市杵嶋姫、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野忍蹈命
境内社 / ・・・
氏子域 / 中川区 打出、中須町、野田
例祭日 / 10月12日
参拝日 / 2024/02/14
所在地 / 名古屋市中川区野田2-375
秋葉神社から八王子神社 / ​南東に5分程
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中川区野田2「秋葉神社
前回掲載した三狐神社から西へ4分程の住宅街、そこの交差点の角地に鎮座するのが秋葉社

交差点の北西角に社地が与えられ、社殿はほぼ東向きに建てられています
高く築かれた本殿域は玉垣で囲われ、切妻造の大きな覆屋の下に社が祀られています

上は大正9年の当地の地図で赤枠が秋葉神社の鎮座地になります
この時代、ここに鳥居の印はなく、その後もここに印は描かれていなかった
野田集落の西外れにあたり、ここから西側は庄内川左岸に田んぼが広がる一帯だったことが分かります
地史から野田村の記述に目を通すも、秋葉社について語られておらず、大正から昭和にかけて世帯数の増加に伴い、災い除けの神が祀られるようになったのかも知れない

秋葉神社から西方向の眺め
庄内堤まで広がっていた田畑は姿を消し、今では古くからの建物は建て代わり、新しい住宅が広がる地域となっています

秋葉神社南側から社殿の眺め
玉垣の石柱や基壇の石組の色は綺麗で、覆屋も傷みはなく、覆屋の下に祀られる板宮造の社も綺麗なものです

覆屋に架けられた額は秋葉神社

秋葉神社本殿全景
玉垣の間にピッタリしつらえられた賽銭箱があり、住宅地の火伏の神に賽銭投入参拝

脱線しますが
人的・物的ともに甚大な被害を与えた能登半島地震
輪島の火災を見るにつけ、我家周辺の切り刻んだ宅地に人も通れないほど敷地一杯に建てた細長い木造家屋が林立する環境を思うと不安を覚える
そこから比較すると、このあたりの余裕のある家並みは羨ましく思う
なによりこうして見守る神さまがいる

 

秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土大神
境内社 / ・・・
所在地 / 名古屋市中川区野田2-176
三狐(さんこ)神社から秋葉社 / ​西へ5分
参拝日 / 2024/02/14
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前回は「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、中川区中郷の白山神社を訪れました。
本来のルートは県道29号線を西に向かうのですが、先を歩くかみさんは県道を越え、荒子川沿いを北上し高畑公園方向へ、高畑公園を過ぎたあたりから導かれるように西方向に歩いていく。

茨塚公園の南側で店舗を構えるプチ・ポンレヴェックnoda(中川区野田1-323)。
マップ上に赤〇で示しておきます。
某番組で紹介されたみたいで、ひらめき散歩を歩く動機付けのひとつとしてチェックしていたようだ。
最近開業した所謂パン屋さん、ひとつ〃のパンは小さく、一個幾らではなくgram売りなんだとか。
ここで彼女が買い物している間、ここから西へ3分程の場所に神社があったので訪れることにしました。

県道190号線沿いに鎮座する三狐神社。
周辺の建物の越えるほど育った大きな松が三狐神社の象徴かも知れない。

上は大正初期の鎮座地周辺、赤枠が三狐神社で二つの赤い星が野田村三社の鎮座地になります。
何れの神社も明治以前から野田村に鎮座しているのが記されていました。(赤〇はパン屋さんの位置)
ここまで来ると庄内川も目と鼻の先になります。

東向きに石の神明鳥居を構え、右側に「三狐神社」社標が立つ。
境内の樹々は適度に間引かれたものか、この時期は境内が良く見渡せ、手水舎、神馬像、拝殿の先の本殿まで一望できる。

社頭北側から眺める三狐神社。
右側が更地で、社地も白いフェンスで囲われているのもあり、すっきりとした印象を受ける神社。

鳥居から拝殿・本殿の眺め。
拝殿は梁間桁行き三間で四方吹き抜けの瓦葺切妻のもので妻壁などに彫飾りが施されています。
正面の本殿には5本の鰹木が載せられているのが見通せる。

境内右の神馬像。
昭和60年(1985)に寄進されたもので、訪れた際には碑文に目を通すのもいいかもしれない。

拝殿左が手水舎。

三本の鋭い爪、長い髭を持つ堂々とした姿の龍。

拝殿前を守護する狛犬は、骨太でがっちりとした筋肉質の姿をしたもの。
境内に三狐神社の由緒はなく、詳細が分からず地史に目を通して見た。
尾張志、尾張徇行記、尾張名所図会など目を通すが注目する内容は以下のものでした。
尾張志(1844年)では
「野田村の氏神 神明社氏神社より東南に八王子社、氏神社より東にサグジノ社」と記されています。
三狐神社をサグジノ社とすると、氏神社の鎮座地からほゞ東に位置しており、三狐神社がここで云うサグジノ社のようです。
野田村三社の神明社は三狐神社から西の野田公園、八王子社は三狐神社から南へ5分程の場所に鎮座しており、何れも歩いて廻れる距離にあり、マップに示した赤い星が其々の鎮座地になります。

尾張徇行記(1822年)の一柳庄野田村に「三狐神社」として名が記されいました。
中郷村の神明社・三狐神社・八王子社を指して「この三社、創建年は不明なれど再建は寛文7年(1667)」と再建の時期が記されていた。

再建年度だけを捉えれば、かなり古くから鎮座している神社のようです。
愛知県神社庁にも紹介されていましたが、内容は祭神、祭礼日に留まっていた。
三狐神社の祭神は豊受大神を祀る神社です。
ここで尾張志の「サグジノ」が気になってきます。
サグジノと聞くと、万物に宿る自然神を崇敬するミシャグジ信仰を思い浮かべます。
三狐神社の前身がミシャグジ信仰から始まったのか?となると、それを示す記述や崇敬対象となるようなものを境内で見かける事はありませんでした。

この神社の見所は、拝殿妻壁をはじめ全周に施された彫飾りだろう。
人目を引く派手な飾り金具などの意匠はないけれど、正面の大きな二匹の龍からはじまり、蟇股の干支や木鼻の獅子などシックな佇まいの小さな拝殿ですが作り手の拘りを感じる意匠が施されています。
それらを見ていく前にまずは参拝。

大嫌いな蛇をはじめ全周に干支のキャラクターが施されている。

柔らかな鶏の尾羽も良く彫られている。

上は猪に犬だろうか、下の正面妻壁には宝珠を握りしめた龍、その上には兎の姿もある。

拝殿から本殿の眺め、本殿は板宮造りで、棟には外削ぎの置き千木が置かれています。
拝殿内正面に三狐神社の額と右側に昭和51年に奉納された白馬の奉納額が掛けられています。

三狐(さんこ)神社本殿、最初に三狐の社名から受けた印象は宇迦之御魂神をお祀りする稲荷かと勝手に想像していましたが、愛知県神社庁では「さんこ」とあり、境内からも稲荷社ではないようです。

本殿域を小さい体の二対の可愛い狛犬が守護しています。

寄進年は分かりませんが、手前の愛くるしい姿をした陶製狛犬は、左の阿形は前脚が欠け落ち台座に置かれており、玉乗りの吽形に至っては頭部が欠落した痛々しいもの。
結構古そうな台座の上に載せられた狛犬をよく見れば、鮮やかに色付けされ、細かな装飾が施されているだけに、寄進者や作者の思いが込められた造形物は、新しく変えようかというのもなんだか重い。
金継ぎとはいかないまでも元の姿に戻してやりたいものだ。

覆屋の下に祀られた本殿全景。
こちらでも寄進物の寄進年度は見忘れてしまった。

拝殿下り棟の鬼には三狐の文字が入る。
社殿全体は大きな傷みもなく、比較的最近補修されたようです。
境内も綺麗に手入れされ、居心地のいい神社でした。

『八百万神社・白山神社・秋葉神社』名古屋市中川区中郷

前回掲載した宝珠院の仁王門から南に伸びる道があります。
利家を巡るルートから外れますが、仁王門を出て南に進み、光明院を左手に見ながら、約1分の距離に中川区中郷(ちゅうごう)に鎮座する白山神社があります。

上は大正9年1920年当時の周辺地図。
先回訪れた宝珠院から少し南の寺脇集落の西外れに鎮座します。
当時の地図に神社の印は現れませんが、約300年前から寺脇集落に鎮座しているようです。

写真は白山社社頭を西側から見たもので、三叉路の角地に僅かな社地が与えられていました。

南向きの社頭には鹿島鳥居に似た木造鳥居があり、くぐるとすぐ先が本殿域になります。
小規模の神社で社号標も見当たりませんが、常夜灯、狛犬など整えられ、寺脇集落の鎮守の趣が漂う神社。

後方に見えている森は先程参拝した宝珠院の寺叢になります。

社頭左の解説板。秋葉山神社八百万神社白山神社
白山神社
光明院の森に鎮座、歯痛が治る神様。
豆腐をお供えして食べると不思議にも歯痛を忘れた様に治る霊験あらたかな神。
八百万神社
延宝2年創建(1674)と歴史に見え、八百万の神々をお祀り申し諸願成就息災延命の神。
秋葉山神社
火を防ぎ家難排除の守護の神」
とある、小さな見た目から想像できない歴史があり、八百万神社は300年以上前から集落を見守ってきた神社のようだ。

境内全景。
石積みの本殿域は大小三つの社が祀られています。

境内右は手水鉢だろうか。

本殿域全景、手前には小さな狛犬の姿が見える。

本殿域を守護する小さな狛犬。(寄進年は未確認)

解説の社名の並びから見ると左から秋葉山神社、八百万神社、白山神社となるが、Gマップでは白山社とあり、それからすれば中央が白山社となるのだろうが、三社に社名札はなく特定できません。
祭神についてもここでは不明としておき、ここは賽銭を投入し三社纏めて祈願するしかないようだ。
愛知県神社庁から住所で検索して見たが情報は得られず、神社解説によれば八百万神社の創建が延宝2年創建(1674)とあるので地史を見ていけば、白山神社秋葉山神社の創建時期も少し分かるのかもしれません。

社地東側から北側の眺め。
正面に宝珠院仁王門、手前右手の森は白山神社が鎮座していた光明院の寺叢。

いろいろ知りたいこともあり、人の姿を探すも近寄って来たのは恋の時期を迎えたこの猫達だけだった。


八百万神社
創建 / 延宝2年(1674)
祭神 / 不明
境内社 / 秋葉山神社(創建・祭神不明)、白山神社(創建・祭神不明)
所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11
参拝日 / 2024/02/14
宝珠院から白山神社 / ​仁王門から南へ徒歩1分程
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『如意山 宝珠院 常楽寺』名古屋市中川区荒子

如意山 宝珠院 常楽寺
前回掲載した冨士大権現 天満天神宮から​北西に徒歩15分程の県道29号線の南に鎮座する寺院。

上は大正初期の宝珠院鎮座地周辺。
当時の愛知郡荒子村大字中郷の高畑の西、寺脇集落の北の田畑の中に鎮座しています。

名古屋七福神巡りの大黒天のお寺として知られ、1月7日の七草の日までに、7つの幸福を与える7人の神々をお祀りしたお寺を参拝する事で福運が得られるものだそうです。
過去に一度七福神巡りで訪れた事がありますが、調べて見れば2017年と随分久し振りに訪れた。
今回は七福神ではなく、前田利家の所縁の地を巡るコースに含まれていた。

名古屋西部県税事務所の西側に宝珠院の仁王門、山門が連なっています。
「税」で「うすうす思い出した」が、確定申告まだ済ませていなかったなぁ、なんだかやる気がしない。

宝珠院仁王門。
この通りを左進むと山門が建っています。
コースに宝珠院が組み込まれたのは、仁王門右にある歌碑を読み取り、問題の空白を埋め完成させるもの。
かみさんはこの歌碑を見つけられず境内を彷徨い、お寺の方に歌碑の場所を教えて頂いた。
その際「最近この碑を見に訪れる方が多いがなんなの?」と質問されたとか、どうやらイベント側とチェックポイントに選定された場所とは事前に共有されていない印象。

仁王門から本堂の眺め。

左右の間に安置されている仁王像。
宝珠院の開創は古く、奈良時代天平元年(729)に泰澄大師が開創した古刹。
寄木造の二体の像もかなり年季の入った風貌のもので、随所に補修が加えられていますが、なぜか市・県の文化財一覧に挙げられておらず、制作年代や作者など詳細は不明です。

仁王門から眺める本堂全景。
入母屋瓦葺で千鳥破風、軒唐破風の付く堂々とした建物で、堂内には本尊の薬師如来はじめ、大黒天、弘法大師、泰澄大師像、五大明王像、弁財天が安置されています。

境内右の仏足石と百度石。
宝珠院は弘法大師誓願道場「名古屋二十一大師霊場巡り」の第十一番札所。

本堂左の水かけ不動尊(左)と亀の甲羅の上の七福神

水かけ不動尊は、体の病んだ部分に水をかけ、祈願する事で改善されると言われています。
歳を重ねるとかける箇所も増え、全身かけたくなってくる。

本堂破風の連なり。

本堂の寺号額。

宝珠院の先に書いたように奈良時代天平元年(729)に泰澄大師が開創したと伝わります。
往時は6坊を有したが、文和年中(1352~1356)の火災で三坊を焼失、後に宝珠院、東蔵院、光明院を再建するも、明暦年中(1655~1658)に再び火災に遭い、東蔵院は廃絶となり、ここ宝珠院と南に鎮座する光明院のみとなる。
泰澄大師といえば加賀白山を開山したことで良く知られます。

宝珠院について尾張名所図会、尾張誌、名古屋市史で調べてみたが詳細な記述は見つけられなかった。
中川区史跡散策路の宝珠院解説は以下のものでした。
奈良時代天平元年(729年)に泰澄大師が開創した郷土の古刹である。
伊勢湾台風の被害を受けているが仁王像は鎌倉時代の作と言われており、歴史を感じる。
境内は名古屋市の保存樹である五葉松の大樹などの庭園を含め特別緑地保全地区に指定されており、四季折々、鳥のさえずる憩いの寺でもある」

これによれば仁王門の像の制作年代は鎌倉時代(1185~1333)とあり、文和年中の火災以降に彫られたものだろうか。

楠の一木造りの大黒天、じつにいい表情でこうありたいものです。(2017年撮影)

…そうありたいんだがねぇ、これを書きながら国会中継を聞いていますがついつい目は△になってくる。

本堂左から客殿に続く中門と左の鐘楼。

建立年代は詳らかではありませんが、2017年当時と比較して大きな違いはないようです。
また、手入れの行き届いた庭園も当時と何ら変わっていない。

温かい陽射しを受けて横になる寝弘法。
庭園には他に修行大師、摩尼車など安置されています。

境内北側の寄棟瓦葺の客殿全景、大棟の金色に輝く鴟尾(しび)が印象的な建物です。
鴟尾は鯱や鬼瓦の原形ともいわれ、鴟尾そのものも意匠は時代により様々なようです。
建物を自然災害から守る目的から棟に飾られたもので、一説によれば鳳凰の羽を模したものから始まり、意匠が変化していったとも云われるようです。

金堂から眺める山門と十三重石塔

重厚な山門の正面全景。

山門の山号額。

道路から山門・客殿の眺め。
7世紀以上の歴史を誇り、幾多の自然災害を乗り越えて今も続く古刹なので、利家もひょっとして訪れているやもしれない。

山門左には札所の石標。

宝珠院
宗派 / 真言宗智山派
創建 / 天平元年(729)
開基 / 泰澄大師
山号 / 如意山
寺号 / 常楽寺
院号 / 宝珠院
本尊 / 薬師如来
札所 / 名古屋二十一大師11番札所、東海三十六不動尊霊場13番札所、名古屋三弘法第一番札所、名古屋七福神(大黒天)
所在地 / 名古屋市中川区中郷1-11
参拝日 / 2024/02/14
冨士大権現 天満天神宮から宝珠院 / ​北西に15分程
公共交通機関 / 地下鉄東山線「高畑」から​西へ徒歩10分
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荒子観音寺を後にして次は冨士大権現 天満天神宮を目指します。
神社が鎮座する権現公園に向け南へ約10分程の移動時間。
「まつと共に過ごした荒子城界隈と前田利家ゆかりの地を巡る」ヒラメキ散歩コースに従って巡っています。
行きたいとこリストもかみさんと共有していたが、問題を解くのが最優先のようだ。

写真は権現公園南側に面した道路から冨士大権現 天満天神宮の杜の眺め。

上は大正初期の荒子村周辺地図で村の真ん中から少し西よりに位置しています。
前田利家所縁の地を巡るこのコース、冨士大権現 天満天神宮をチェックポイントにしたのには理由がある訳で、この場所に荒子城が築城されていたことによる。

海東郡荒子村の地を収めた前田利昌は、この地から西の庄内川右岸の前田城を拠点にしていたが、天文13年(1544年)にこの地に荒子城を築き拠点にしたと云われます。
その利昌の四男として生まれたのが前田利家で、ここ荒子城が前田利家の誕生之地とされます。
コースには前田城も含まれており、そちらの由緒によれば、利家は前田城で生まれたともあり、諸説あるようです。
いずれにせよ、加賀百万石の礎を築いた前田利家がこの尾張から誕生した事に違いはありません。

冨士大権現 天満天神宮境内の眺め。
大きな楠と松が聳え、適度に間引かれた明るい杜で、この時期は境内に植えられた梅が咲き誇っていた。
社頭の参道に、梅鉢紋の入った赤い幟が風に揺れている。
加賀藩前田家の梅鉢紋は知られるところで、一説に前田家のルーツは菅原道真とも云われるようで、彼が好んだ梅をモチーフにした梅鉢紋を使っていたのかな。

ほゞ南向きに社頭を構え、正面の拝殿まで石畳が続いています。
社頭は右側に「冨士大権現 天満天神宮」の社標が立てられ、左に由緒・荒子城解説が立てられています。
鳥居は石造の明神鳥居で、その先に一対の常夜灯と左側に手水舎があります。

由緒・荒子城跡解説。
荒子城解説は以下の様に解説されています。
荒子城跡
天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝わる。
その子利久、利家、利家の子利長が相継いで居城。
天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地へ移り荒子城廃城。
『尾陽雜記』『古城志』などによると、城は東西約68m、南北約50mで一重堀を巡らしていた。
名古屋市教育委員会
このことから、現在の権現公園と社地を含めた敷地面積が城の規模とイメージできますが、現状では城が合った痕跡は見られません。
越前国府中に領地を与えられた利家は、天正4年(1576)菩提寺である荒子観音寺の本堂を再建し、越前府中の統制に注力していった。
利長が府中に移った後、荒子城は廃城となったようですが、城内鎮守の冨士大権現天満天神宮は村人により護られていったようです。

左の富士社 天満社由緒記
・亦名「冨士権現天満宮
・御祭神は、木花開那媛尊、菅原道真
・創建の詳細は不明
荒子城主前田氏の城内鎮守として勧請され、弘治元年(1555)「前田利家再興」の棟札がある。
・前田氏の祖は菅原氏とも云われ菅原道真を祀る。
天正4年(1576)越前に移りし後も村民・氏子から篤く崇敬されている。
・昭和63年(1988)社殿再建。

由緒について尾張志(1844年)に目を通しました。
「富士天満天神相殿社 高畑村中脇と云う所にあり」に留まり、それ以上の情報は得られなかった。

境内左の手水舎、西側の権現公園と境内は遮るものはなにもありません。

龍は絶え間なく清水を注いでくれていました。
この日は先を目指すあまり、神社の歴史を綴る寄進物の年代は見ておらず心残り。

拝殿正面全景。
切妻瓦葺の四方吹き抜けの木造拝殿で、妻側に格子戸、軒側は縦格子の腰壁が付くもの、拝殿と本殿は渡廊で結ばれています。

狛犬は子持ち毬持ちのもの。

拝殿から本殿方向の眺め。
妻壁に黄金色に輝く梅鉢紋がアクセントになり、賽銭箱には金色の五七の桐と梅鉢紋が入る。
派手な装飾の無いシックな佇まいをしている。

拝殿から本殿を結ぶ渡廊と本殿域。

本殿は一間社流造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
祭神は木花開那媛尊、菅原道真公。

大きな社ではありませんが、脇障子や虹梁など手の込んだ彫が見られます。

拝殿左の前田利家荒子城の解説から一部抜粋。
「加賀百万石の藩祖、前田利家は1537年(天文6)(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生まれました(前田城説あり)。
幼名は犬千代。
15歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。
22歳のとき、10歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。
この頃、又左衛門利家と名を改めています。
若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。
桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍。
33歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。
利家39歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。
その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。
荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。
規模は狭い平地に簡単な棚と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。
城内には、富士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。
また、利家が府中に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。
利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。
時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹校提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。」 

生誕地など諸説あるようですが、いずれにせよ郷土が生んだ一大武将であることに違いはなく、地元の誇りとして前田利家発信隊が結成され愛されている。

本殿域左に聳え立つ「前田利家卿誕生之遺址」の石碑。

馬にまたがった若き利家と初陣を見送るまつの姿。(名鉄荒子駅西出口の前田利家公初陣之像)

利家がまつと夫婦になったのが22歳の時とされ、まつは12歳、この初陣之像だけ捉えれば利家の初陣が14歳の時とされるので、まつの姿は4歳....
まつは生涯に11人の子を出産したと云う。
因みに2023年の出生率は1.2という結果のようです。

冨士大権 現天満天神宮
創建 / 不明(弘治元年(1555)の棟札が残る)
祭神 / 木花開那媛尊、菅原道真
境内社 / ……
例祭日 / 10月第一日曜日
所在地 / 名古屋市中川区荒子4
参拝日 / 2024/02/14
荒子観音寺から冨士大権現 天満宮へ徒歩 / 門前通りを​南へ徒歩7分
公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線高畑駅5番出口から​​南へ徒歩10分​​
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