「駅から始まるヒラメキさんぽ」のコースから逸れ、三狐(さんこ)神社、八王子神社と訪れてきました
八王子神社にきて、寄りたい所リストに気付いてくれたかみさん
更にコースから外れ県道190号線を10分前後南下した雨宮神社に舵を切ってくれた

写真は野田一丁目交差点の少し南から見た雨宮神社の杜。
県道脇に南北に長い社地を持ち、県道から左に入った南側に社頭を構えています。

上は大正9年(1920)の鎮座地付近、当時の西脇集落の西に鳥居の印があります
この辺りは伊勢神宮と所縁の深い地域で
平安時代、庄内川左岸にかけて伊勢神宮の御厨 一楊御厨(いちやなぎのみくりや)がひろがっていました
明治期に野田村の一部として、後に御厨村、荒子村と合併を続け、大正10年(1921)に名古屋市南区に編入、その後昭和12年(1937)に中川区に編入され、現在の中川区中郷(ちゅうごう)に至っています
御厨村の由来も一楊御厨の厨郷からきているとされ
ここから南の旧村名の東中島、西中島、三軒屋、法華の各集落でも伊勢神宮と所縁の深い神明社が祀られていったようです

雨宮神社北側から見る中鄉伏見稻荷社覆殿
雨宮神社社殿は左の森の先に鎮座します
社頭へは次の道を左折してください

コミュニティーセンター横の石碑、銘文から一部を抜粋
「この地域一帯は湿田米作地帯で防災的道路もなく、昭和17年東西1㌔、巾55㍍、中心に10㍍道路を整理を行った・・・・・
無秩序な宅地化が将来禍根残す事を惧れ住民の総意から健全な市街地造成した・・・・・」
古くから河川の氾濫が起こり、氾濫がもたらす土壌を耕し広大な田園が整備されたが、時代が変わり田園は姿を消し、土地を改良し宅地化が進んだ土地柄なのが良く分かる
今はゆとりのある区画、何十年かすると切り刻んだ住宅密集地に変っていき、その先は空屋ばかりの町になっていくのだろうか
境内は全周玉垣で囲われ、右手に社号標、常夜灯、その先に石の神明鳥居を構えている
「雨宮神社
御祭神 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
文政2年(1819)に遷座
明治5年郷社に
明治25年(1892)指定郷社に列す
近郷の鎮守の宮として、五穀豊穣・風雨の神と崇拝されている
例祭には、干支歳にあたる人々より健康や家内安全を祈り奉納行事が執り行われる
祭典 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社」
とある
宝珠院、光明院の位置が記されており、それからすると破線の〇辺りに雨宮神社が記されていてもよさそうですが記されていません、更に西側の村絵図にも雨宮神社は表れません
絵図左上の破線で囲んだ二つの神社があり、そこに雨宮、風宮が記されています
絵図が描かれた時には雨宮、風宮両神社は野田に鎮座していました
左は尾張志(1844年)の記述
雨宮社「天照皇大神、高龗神を祀り、末社に白山社、冨士社あり」とだけ記されています
その下に
風宮社「中島新田地内にあり、天照皇大神の他2柱を祀る」の記述が見られます
現在の雨宮神社は由緒にあるように野田集落から文政2年(1819)に現在地に遷座したもの
風宮社は明治40年に遅れて遷座したようです
祭神の高龗神は、伊邪那岐命が軻遇突智を斬った時に、闇龗ととも出現した水を司る神として崇敬されている
瓦葺で切妻妻入りで梁行き桁行ともに三間のもの
左側に境内社が纏められています
切妻瓦葺の平入で、手前に手水鉢と覆殿の前にやけに目立つ色合いの狛犬の姿がある
左は朱の覆殿は中鄉伏見稻荷社で猿田彦社・白龍社が祀られている
年季が入っていそうですが寄進年を見忘れました
ここには左から秋葉社・風宮社・津島社の額が掛けられています
雨宮と風宮の神が揃う神社はあまり記憶がないかもしれない
余程素材が柔らかいのか肌はきめ細かく、阿形の頭部や吽形の尾など剥離した様に欠損している
朱の奉納鳥居が右の覆殿まで立ち並びます
鳥居をくぐった左側にありますが年代は見忘れました
正面の朱に塗られた玉垣の先が中鄉伏見稻荷社
左右に猿田彦社・白龍社の二社が祀られています
手前に一対の狛狐が守護し、その先の本殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が付く
右は稲荷社と同様の造りで、一見すると稲荷社に見間違えそうですが狐がいない
左は板宮造り、どちらも社名札がなく社から社名は分からないが、猿田彦社と白龍社であることは由緒から間違いない
・・・神明造の社が猿田彦社かな、いや千木が内削ぎだ・・・導いて欲しい
鮮やかな朱色がとても印象に残る
雨宮神社
創建 / 不明 (文政2年(1819)遷座)
祭神 / 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 / 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社
氏子域 / 中川区荒中町、打中、中郷、中花町
例祭日 / 10月第2月曜
参拝日 / 2024/02/14
所在地 / 名古屋市中川区中郷2-164
八王子神社から雨宮神社 / 県道190号線を南下10分前後
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「この地域一帯は湿田米作地帯で防災的道路もなく、昭和17年東西1㌔、巾55㍍、中心に10㍍道路を整理を行った・・・・・
無秩序な宅地化が将来禍根残す事を惧れ住民の総意から健全な市街地造成した・・・・・」
古くから河川の氾濫が起こり、氾濫がもたらす土壌を耕し広大な田園が整備されたが、時代が変わり田園は姿を消し、土地を改良し宅地化が進んだ土地柄なのが良く分かる
今はゆとりのある区画、何十年かすると切り刻んだ住宅密集地に変っていき、その先は空屋ばかりの町になっていくのだろうか

境内は全周玉垣で囲われ、右手に社号標、常夜灯、その先に石の神明鳥居を構えている


「雨宮神社
御祭神 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
文政2年(1819)に遷座
明治5年郷社に
明治25年(1892)指定郷社に列す
近郷の鎮守の宮として、五穀豊穣・風雨の神と崇拝されている
例祭には、干支歳にあたる人々より健康や家内安全を祈り奉納行事が執り行われる
祭典 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社」
とある

宝珠院、光明院の位置が記されており、それからすると破線の〇辺りに雨宮神社が記されていてもよさそうですが記されていません、更に西側の村絵図にも雨宮神社は表れません
絵図左上の破線で囲んだ二つの神社があり、そこに雨宮、風宮が記されています
絵図が描かれた時には雨宮、風宮両神社は野田に鎮座していました
左は尾張志(1844年)の記述
雨宮社「天照皇大神、高龗神を祀り、末社に白山社、冨士社あり」とだけ記されています
その下に
風宮社「中島新田地内にあり、天照皇大神の他2柱を祀る」の記述が見られます
現在の雨宮神社は由緒にあるように野田集落から文政2年(1819)に現在地に遷座したもの
風宮社は明治40年に遅れて遷座したようです
祭神の高龗神は、伊邪那岐命が軻遇突智を斬った時に、闇龗ととも出現した水を司る神として崇敬されている



瓦葺で切妻妻入りで梁行き桁行ともに三間のもの
左側に境内社が纏められています







切妻瓦葺の平入で、手前に手水鉢と覆殿の前にやけに目立つ色合いの狛犬の姿がある
左は朱の覆殿は中鄉伏見稻荷社で猿田彦社・白龍社が祀られている

年季が入っていそうですが寄進年を見忘れました

ここには左から秋葉社・風宮社・津島社の額が掛けられています
雨宮と風宮の神が揃う神社はあまり記憶がないかもしれない

余程素材が柔らかいのか肌はきめ細かく、阿形の頭部や吽形の尾など剥離した様に欠損している

台座の年代は大正15年(1926)刻まれていましたが、台座も同様に欠損していました
素材はなんだろうか


朱の奉納鳥居が右の覆殿まで立ち並びます

鳥居をくぐった左側にありますが年代は見忘れました

正面の朱に塗られた玉垣の先が中鄉伏見稻荷社
左右に猿田彦社・白龍社の二社が祀られています

手前に一対の狛狐が守護し、その先の本殿は神明造で4本の鰹木と内削ぎの千木が付く

右は稲荷社と同様の造りで、一見すると稲荷社に見間違えそうですが狐がいない
左は板宮造り、どちらも社名札がなく社から社名は分からないが、猿田彦社と白龍社であることは由緒から間違いない
・・・神明造の社が猿田彦社かな、いや千木が内削ぎだ・・・導いて欲しい

鮮やかな朱色がとても印象に残る
雨宮神社
創建 / 不明 (文政2年(1819)遷座)
祭神 / 高龗神、志那都比古神、天照皇大神
祭典 / 歳旦祭・春祭・例祭・勤労感謝祭・大祓
境内社 / 風宮社・津島社・秋葉社、中鄉伏見稻荷社、猿田彦社・白龍社
氏子域 / 中川区荒中町、打中、中郷、中花町
例祭日 / 10月第2月曜
参拝日 / 2024/02/14
所在地 / 名古屋市中川区中郷2-164
八王子神社から雨宮神社 / 県道190号線を南下10分前後
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