斎穂社と千手観音

名古屋市守山区大森5
名鉄瀬戸線の「大森・金城学院前駅」から「斎穂社」へは、線路南側を東に歩いても15分はかからない。
車だと県道61号線の「八剣」交差点を左折して左側に鳥居が見えてくる、残念ながら駐車場がない事を書き留めておきます。

f:id:owari-nagoya55:20201211092019j:plain 斎穂社社頭
こちらを訪れたのは12/9、楓の紅葉が境内に彩りを添える時期でした。
南向きに東西に長い境内、鳥居の先に社が三つ、右に瓦葺の方型のお堂があります。

f:id:owari-nagoya55:20201211092040j:plain 鳥居左の由来
祭神 大年神、御年神、御食津神事代主神大宮売神
例大祭 10月5日
第40代天武天皇の御代白鳳5年(676年)秋9月大嘗祭にあたり、尾張國山田郡印場村渋川地内に悠紀斎田を点定した。
斎庭の稲穂をここに移し新穀を精選し献上して、この地に斎穂社を祀り鎮座された。
1878年(明治11)6月大森村八劔神社境外末社となる。
現在地は土地区画事業により旧神域が道路敷地となったため1973年(昭和48)、ここを神域として定め遷座しこれを祀る。

斎田点定の儀 大嘗宮の儀で天皇が神々に供える米を育てる田んぼ(斎田)をアオウミガメの甲を使い出来た罅から占う「亀卜(ボク)」で「悠紀」地方と「主基」地方から其々選定する儀式。
「悠紀」地方とは新潟、長野、静岡から東の地を「悠紀」、それから西側の地を「主基」と分けられているようです、令和の斎田点定の儀では秋田県大分県が選ばれた事は記憶に新しいところです。
どうやって占うのか?ダーツの旅のように簡単には決まらない秘儀とされるようです。

f:id:owari-nagoya55:20201211092100j:plain 社を守護する狛犬達、右には大きな鯛を左に抱えた恵比寿さん(事代主命)とふくよかな姿の大黒さん(大国主命)が並ぶ。

f:id:owari-nagoya55:20201211092120j:plain 三つの社
社名札があればいいのですが、中央の社に大年神、御年神、御食津神事代主神大宮売神が祀られ、左の赤い社は天王社、右は恐らく熱田社ではないだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20201211092139j:plain 後方に検藤流之碑
昭和6年に建立された碑で大森に棒の手を伝えたとされる松本伊左衛門の名が刻まれている。

f:id:owari-nagoya55:20201211092206j:plain 境内右の瓦葺の二つの堂、右手の堂は千手観音の額がある。
こちらの神社は神と仏がともに祀られているようです。
神社の遷座以前から神仏習合だったのか、遷座してからなのかはよく分からない。

f:id:owari-nagoya55:20201211092226j:plain 千手観音縁起
千手観世音菩薩は滅罪除病の功徳があるとされ、こちらの石像は1717年(享保2)の建立とある。
江戸中期の享保天明年間の大飢饉の際の疫病が流行ったころはこの千手観音像が苦難克服の拠り所として崇められたようです。
この大森新田地内は古くから観音信仰の篤い地域だったようです。
斎穂社の遷座が1973年(昭和48)で鳥居もその時に建てられたのに対し、千手観音の前の石灯籠は1975年(昭和50)とあり、以前からこちらに安置されていたと考えるより、斎穂社遷座後に近隣からこちらに移されたものかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20201211092250j:plain 千手観音堂の左にも小さな堂があり、彩色された小さな石像が安置されています。
堂の右には庚申塔も建てられている。

f:id:owari-nagoya55:20201211092311j:plain 観音堂の額

f:id:owari-nagoya55:20201211092331j:plain 堂内には西国三十三ヶ所観音霊場順拝の奉納額が飾られていて、その中央に鮮やかに彩色された素朴な姿の千手観音像が安置されている。
縁起にあった様に疫病が流るとこの千手観音像が苦難克服の拠り所として崇めらてきたようです、正に今がその時、賽銭を奮発しCOVID-19の早期克服をお願いさせてもらいました。
2020/12/9

斎穂社
創建 / 676年(白鳳5)
祭神 / 大年神、御年神、御食津神事代主神大宮売神

千手観音堂
建立 / 1717年(享保2)
本尊 / 千手観音
住所 / ​名古屋市守山区大森5-1916
公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「大森・金城学院前駅」から東へ徒歩15分程
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