奈良県 律宗総本山 「唐招提寺」

近代に再建され、人目を引き付ける伽藍の多かった薬師寺を後にして10分程北の唐招提寺に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20220221103310j:plain薬師寺西側の通りを真っすぐ進む、やがて道は三叉路となるのでそこを右に進むと左手に唐招提寺南大門に至ります。

平城京を支えた日本仏教の6つの宗派(三論宗成実宗法相宗倶舎宗華厳宗律宗)、それらを南都六宗と呼ばれます。
それら宗派の中心となった寺院を南都七大寺(東大寺西大寺法隆寺薬師寺・大安寺・元興寺興福寺)と呼びます、この呼称は奈良時代すでにあったそうですが、唐招提寺(律宗)はここに数えられない。
薬師寺は歴史もあります、しかし奈良時代からの伽藍は東塔のみでほとんどは中世以降の再建です。
それに対し唐招提寺奈良時代の伽藍を多く留め、薬師寺にはない清楚な印象の寺。

f:id:owari-nagoya55:20220221103346j:plain

上は寛政3年(1791)刊行の大和名所図会の唐招提寺の挿絵。
大阪の浮世絵師 竹原春朝斎により江戸時代中期の唐招提寺の伽藍が描かれたもの。
伽藍の中核をなす金堂や講堂、左右の鐘楼、鼓楼、右側の東室や礼堂、礼堂右側にある校倉造の経蔵、宝倉など今も現存する。
五重塔や西室は残念ながら現存しない。
塔のある薬師寺は風景に溶け込む姿が美しく存在感もあるが、三方を森に包まれた唐招提寺は遠景からだと存在感は薄いかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20220221103404j:plain

昭和35年(1960)に再建された南大門、その門に掲げられた扁額「唐招提寺
女性天皇として46・48代と二回即位し、時に女帝とも形容される孝謙天皇(718~770)の揮毫とされる勅額、その筆跡は女帝の印象とは違う女性らしいやさしさが現れているように感じる。
重要文化財に指定され、ここに掲げられているのはレプリカ、オリジナルは神宝庫に収蔵されている。

f:id:owari-nagoya55:20220221103420j:plain

南大門から正面に国宝の金堂が一望できる、下は境内から眺める南大門の全景。

f:id:owari-nagoya55:20220221103440j:plain

唐招提寺解説と境内配置。
「古都奈良のお寺の中でも、唐招提寺は火災などの被害が比較的少なく、創建当初の建物が多く残る。
金堂は奈良時代(780年頃)建立された現存する唯一の本格的な金堂遺構として、寺院建築の研究にも非常に貴重な存在。

同様に朝廷から朝集殿を移築した講堂は、現存している平城京建築例。
日本人僧侶を教育するために、国内の仏教をさらに広めるため、聖武天皇が唐から招待した中国人僧侶鑑真和上が、唐招提寺を759年に建立。
仏教の導入に鑑真は多大な影響を与え、唐招提寺における鑑真の教えは、その過程において重要であった。

南大門を通り伽藍に入ると、参拝道が真っ直ぐ金堂に続き、落ち着いた色合いの大きく延びやかな屋根が見えます。
均等の取れた美しい軒を支える太い8本の円柱は、アテネパルテノン神殿に比べられる程。
素晴らしい外観とともに、金堂の中には仏教的な宇宙観を表す、廬舎那仏坐像など9体の仏像が安置されている。
その中でも1000本の腕を持つ千手観音像は木造のものでは国内最大最古の一つ」

1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。
廬舎那仏坐像始め9体の仏像は全て国宝に指定されています、本尊は廬舎那仏。

f:id:owari-nagoya55:20220221103459j:plain

参道から眺める金堂と左手の吐水盤。

f:id:owari-nagoya55:20220221103516j:plain

金堂(国宝)
解説にあるように奈良時代に建立されたもので、現在の姿は2000年(平成12)~2009年(平成21)にかけて解体修理が行われたもの。
寄棟瓦葺きで、大棟左右に国宝の鴟尾が乗る。
左の鴟尾は創建当初のもので、右の鴟尾は鎌倉時代のものとされ国宝に指定されている。
解体修理の際に国宝の鴟尾は新宝蔵に収蔵され、現在大棟を飾るのはその際に新調されたもの。

派手な外観の薬師寺金堂に対し、シックで落ち着いた佇まいのもの。
中央に本尊に盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像の並ぶ姿は厳かな雰囲気が漂っている。
奈良時代に作られた盧舎那仏、その光背に施された862体(本来は1000体)の化仏は単眼鏡で間近に見ると、これを作った当時の人のエネルギーが伝わってくる。

f:id:owari-nagoya55:20220221103538j:plain

金堂右側の礼堂・東室と左が鼓楼。

 

f:id:owari-nagoya55:20220221103555j:plain

鼓楼(国宝)
鎌倉時代の仁治元年(1240)に作られた入母屋瓦葺の二層構造で、各層に連子窓が付き落ち着いた外観の
建物。元は経蔵だったとも云われるようです。
現在は鑑真和上が持ち帰った仏舎利を納めた国宝の金亀舎利塔が安置される事から「舎利殿」とも呼ばれるそうです。

f:id:owari-nagoya55:20220221103616j:plain

講堂(国宝)
金堂後方の入母屋瓦葺で安定感のある姿の建物、この姿は鎌倉時代に改修を受けたところが大きいといわれます。
堂内には本尊の弥勒如来坐像(重文・鎌倉時代)始め、持国天増長天立像(重文・奈良時代)など多くの仏像を安置する。ここも単眼鏡でじっくり見ているとあっ云う間に時は過ぎていく。

左に見えるのは挿絵にも描かれている鐘楼。

f:id:owari-nagoya55:20220221103640j:plain

礼堂(重文・鎌倉時代)
入母屋瓦葺の南北に細長い建物で鼓楼に安置された仏舎利を礼拝する礼堂と馬道と呼ばれる通路を挟んで北側が東室が一つになっています。
礼堂は鎌倉時代から続く「南無釈迦牟尼仏」を唱える法要が行われ、釈迦如来立像(重文)、日供舎利塔(重文)を安置しているという。
嘗ては鐘楼西側にも西室がありましたが現在は残っていない、寛政3年(1791)刊行の大和名所図会の挿絵にその姿は描かれています。
江戸時代の嘉永元年(1848)に伽藍西側の戒壇を焼失している事から、西室はこの際に失ったのものかもしれない。解説の中にその部分は語られていない。

f:id:owari-nagoya55:20220221103658j:plain

経蔵(国宝・奈良時代)

礼堂右側の南北に寄棟瓦葺の二棟の校倉造りが建つ、右側が経蔵、奥が宝蔵。
唐招提寺創建以前の新田部親王(~735)邸の米倉を改造したものとされ、伽藍の中で最古の建造物。
校倉造りというと真っ先に正倉院が思い浮びますが、現存するものでは唐招提寺の経蔵が日本最古のものだという。
礎石の上に束柱をたて、その上に台輪を組み、校木を組むログハウスのような構造で、ログ(丸太)に対し校木は丸太を等分に割り三角状に加工、底辺を内側にして組み上げているのでログに比べひと手間かかっている。その手間のお陰で内壁は面になり物を保管するには都合がいい。
当時そこまでして守りたいものといえば・・・真っ先に食料だろう。
食材が海外から潤沢に手に入る現在とは違い、汗を流し耕し育て収穫した食料は何よりも守るものだろう。当たり前の現状は、微妙なバランスのうえには成り立っている、バランスが崩れると結果はすぐに生活に直結する、それだけで収まればいいが・・・

宝蔵(国宝・奈良時代)
寄棟瓦葺の校倉造で南側の経蔵に比べ若干大きく感じます、唐招提寺創建に合わせて建てられたもの。
校木を支える台輪の形状に大切なものを害獣から守りたい智恵が形に表れています。

f:id:owari-nagoya55:20220221103720j:plain

開山堂と芭蕉句碑
礼堂と東室の間にある馬道を抜け右に進んだ先に建ち、門に続く石段左脇に芭蕉の句碑が残っています。
貞享5年(1688)、鑑真和上坐像を拝した芭蕉が詠んだ句「若葉して御目の雫拭はばや」が刻まれていた。
境内にはこうした句碑が立てられ往古から俳人歌人唐招提寺を訪れていた。

f:id:owari-nagoya55:20220221103742j:plain

開山堂へは左に上に続く参道を上っていきます。

入母屋瓦葺で妻入りの堂の始まりは徳川家歴代の霊殿として元禄時代に建立され、後の明治14年(1881)に鑑真大和上の像を安置するためこの場所に移築されたという。
国宝の和上像は開山堂北側に建つ御影堂に移されますが、覚盛上人、聖武天皇徳川家康の坐像を安置し本願殿として参拝されていた、堂の改修工事の際に鑑真大和上を写した「御身代わり像」が平成25年(2013)に安置されこれにより開山堂として落慶したという。

f:id:owari-nagoya55:20220221103805j:plain

御身代わり像

f:id:owari-nagoya55:20220221103823j:plain

開山堂から一旦右に進み、東室の横に下りて行きます。
境内には瓦と土を重ねて造られた土塀が延々と続いています。
熱田神宮境内の信長塀の長い版。

新宝蔵
東室前あたりから左に石畳が続き、その先の新宝蔵に続きます。

昭和45年(1970)に新たに建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設。
唐招提寺の所蔵する多くの文化財を収蔵しています。
ここには金堂に安置されていた木造大日如来坐像や多数の木彫群、南大門の勅額などが収められています。開館日が限定され、訪れた12月21日は残念ながら2022年2月末までの冬季閉館期間で閉館中。
新宝蔵から左に進み、突き当りを右に進み鑑真和上御廟へ向かう。

f:id:owari-nagoya55:20220221103844j:plain

唐招提寺境内の北東にあたり、樹々に包まれ静まり返った場所に位置します。
突き当りは唐招提寺東側の山門で閉鎖されています。
長い土壁の途中にある門から参道が伸び廟に続いています。

f:id:owari-nagoya55:20220221103913j:plain

門をくぐる
廟内は一面苔むし、静寂な空間が広がっています。

f:id:owari-nagoya55:20220221103929j:plain

仏教の教えを広めるため、故郷の揚州から命がけともいえる航海を経て遠く離れた異国に立った鑑真はこの地で生涯を終えた。

f:id:owari-nagoya55:20220221103955j:plain

初夏になると廟前に白い可憐な花が咲くそうだ、それは1963年に鑑真の故郷揚州から寄贈された瓊花(ケイカ)、故郷の花に包まれてここに眠っている。

次は門から右に続く参道を西に進みます。

f:id:owari-nagoya55:20220221104148j:plain

工事中の御影堂を通り過ぎると開山堂手前に歌碑がある。
北原白秋の歌「水楢の柔き嫩葉派はみ眼にして 花よりもなほや白う匂はむ」が彫られていた。
開山堂西に建つ社、詳細は分からなかった。
社から西側は建物のない広い空間になっていて、以前の食堂はこの辺りにあったのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20220221104208j:plain

更に西へ進み中興堂先に見える門は唐招提寺本坊。

f:id:owari-nagoya55:20220221104228j:plain

醍醐井戸
参道突き当りの右奥に、注連縄の張られた覆屋がある。
唐招提寺建立の際に鑑真自ら掘ったとされる醍醐井戸がある。
多角形の井戸枠の中には枯れる事無く水が湧いている。

ここから参道を左方向に進みます。

f:id:owari-nagoya55:20220221104250j:plain

右側に土壁と門が見えます、奥に建物が見えるが詳細が分からなかった。
手前は蓮池とあるがこの時期は枯れ葉が埋め尽くしていた。
この辺りも苔が綺麗だ、花ごと落ちるのは椿、花弁が散るのは山茶花という、正直なところ識別は怪しい。
この辺りから参道左側がポツンと空いている、この辺りに西室があったと思われます。

f:id:owari-nagoya55:20220221104307j:plain

戒壇
僧となるための授戒が行われる場所で。
創建時に築かれたとされますが、中世に廃され後に再興されたが嘉永元年(1848)火災により建物は失われた。基壇中央の宝塔は昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模し建てられたもの。

これで境内をひと回りしました、ここから左手の金堂方向へ向かい御朱印を手にしたかみさんと合流。
目はやや△になっている・・・ような。

f:id:owari-nagoya55:20220221104328j:plain

お待たせです、唐招提寺を後にしよう、その前に南大門左に鎮座する弁天社だけ・・・・
挿絵にある五重塔はこの辺り、礎石とか残ってるんじゃ・・・?△△

唐招提寺後にしよう。
豪華絢爛な薬師寺と閑古素朴な唐招提寺、工事や休館がなければあっという間に陽は傾く。

f:id:owari-nagoya55:20220221104348j:plain

2021/12/21

律宗総本山 唐招提寺
所在地 / 奈良県奈良市五条町13-46
薬師寺本坊から唐招提寺 / 北へ​徒歩10分程
関連記事 / ​

owari-nagoya55.hatenablog.com