大分空港から休憩を含み車で南下する事約90分程。
大分県臼杵市大字深田の「臼杵石仏」に到着。
臼杵川右岸にあたり、平野の南東外れに位置し、周囲を小高い山々に囲まれた長閑な風情が漂う里山。
大分県臼杵市大字深田の「臼杵石仏」に到着。
臼杵川右岸にあたり、平野の南東外れに位置し、周囲を小高い山々に囲まれた長閑な風情が漂う里山。
街には西深田川はじめ幾筋かの小さな流れがあり、錦鯉が優雅に泳ぐ静かな環境。
駐車場から臼杵石仏へは写真右の観光センターの前を5分も歩けば辿り着く。
上は臼杵大仏と周辺の観光マップ。
この山間に臼杵大仏の他、日吉神社や満月寺等もあり見所は多く、摩崖仏だけを巡れば1周約30分とある。
今回はマップの赤丸エリアの1と2、マップに記されていないけれど、2から右の山肌にある重要文化財「五輪塔」までを掲載。
国宝の臼杵石仏は右側の小高い山の岩肌に4郡に渡り摩崖仏が彫られ、その数は約60体にのぼるという。
この山間に臼杵大仏の他、日吉神社や満月寺等もあり見所は多く、摩崖仏だけを巡れば1周約30分とある。
今回はマップの赤丸エリアの1と2、マップに記されていないけれど、2から右の山肌にある重要文化財「五輪塔」までを掲載。
国宝の臼杵石仏は右側の小高い山の岩肌に4郡に渡り摩崖仏が彫られ、その数は約60体にのぼるという。
駐車場から徒歩5分もあれば最初の摩崖仏に辿り着けます、後は整備された参拝路を巡っていきます。
上
観光センター前の小さな祠、中には石仏の頭部が安置されている。
下
ここから少し先に架かる石橋を渡り、鑑賞券を買い求めホキ石仏を巡っていく。
「ホキ」とは「がけ」という意味らしく「がけ石仏」という感じなんだろう。
透き通った流れの中には色鮮やかな錦鯉が悠然と泳ぐ姿がある。
券売所からは緩やかな上りが続く。
入口付近に国宝臼杵石仏の石標と「国宝・特別史跡臼杵摩崖仏と満月寺・日吉社」の解説。
「臼杵摩崖仏(深田・中尾石仏群)は、ホキ石仏第一群、第二群、山王山石仏、古園石仏の4群に分かれた61体の仏像。
平安末期から鎌倉末期(12~14世紀)に造立された。
ここに多くの摩崖仏が彫られた背景は「臼杵荘」と呼ばれた一帯が、藤原氏の流れをくむ九条家の所領だった事に関係がある。
ホキ石仏第一群、第二群、古園石仏は京都・奈良の仏師により製作され、九条家が天台宗総本山比叡山延暦寺と深い関係があり、一流の仏師が臼杵に派遣され摩崖仏が造営された。
同時期に摩崖仏を本尊とする天台宗満月寺が建立され、その記録は寺社考にも記録が残る。
山王山石仏の直上には満月寺の鎮護社として日吉社が同時期に建立され、天台宗の広がりとともに延暦寺の鎮護社「日吉社」も全国に建てられるようになった。
山岳信仰の神「大山咋神」などを主祭神とすることから「山王社」とも称され、深田の里入口の「深田鳥居」の額束の上部に一部風化して読めないが「■王」と刻まれている事から日吉社の鳥居であったと推定される。
摩崖仏と満月寺、日吉社は臼杵荘が仏の力で護られ、ここに住む人々の極楽往生を願って作られた。」
「深田鳥居」は深田の里入口の国道502号線脇の一面稲田の中にポツンと立っています。
柱の太さが印象的な石の明神鳥居で、柱の下部は埋もれているのだろう、訪れた当日は稲田にテントが張られ発掘調査?が行われていた。(駐車場なし)
上
解説脇の香炉で焚かれた煙の先は深田の里が広がる。
下
右手に日吉神社の鳥居とその先に古園石仏の覆屋。
そこからスロープを進み、正面に現れる覆屋が「ホキ石仏第2群」、マップの1に当たります。
すべての摩崖仏はこうした覆屋で囲まれています。
上
臼杵摩崖仏ホキ石仏第2群保存修理工事概要。
摩崖仏は阿蘇溶結凝灰岩に高肉彫りで刻まれています。
彫刻しやすい反面、もろく風化しやすい性質の為、母岩の亀裂に依り多くの仏像は割れ落ち、一部は原形を留めていなかった。
昭和58年から4年の保存修理を受け今の姿を留めています。
「臼杵市はこの摩崖仏を後世に伝えるため保存管理に努力しています。」と書いてあるように、当日も二人の学芸員?に依り摩崖仏の保存管理をする姿が見られた。
下
ホキ石仏第二群第二龕解説。
九品の阿弥陀像を解説脇から全体を眺める。
上
観光センター前の小さな祠、中には石仏の頭部が安置されている。
下
ここから少し先に架かる石橋を渡り、鑑賞券を買い求めホキ石仏を巡っていく。
「ホキ」とは「がけ」という意味らしく「がけ石仏」という感じなんだろう。
透き通った流れの中には色鮮やかな錦鯉が悠然と泳ぐ姿がある。
券売所からは緩やかな上りが続く。
入口付近に国宝臼杵石仏の石標と「国宝・特別史跡臼杵摩崖仏と満月寺・日吉社」の解説。
「臼杵摩崖仏(深田・中尾石仏群)は、ホキ石仏第一群、第二群、山王山石仏、古園石仏の4群に分かれた61体の仏像。
平安末期から鎌倉末期(12~14世紀)に造立された。
ここに多くの摩崖仏が彫られた背景は「臼杵荘」と呼ばれた一帯が、藤原氏の流れをくむ九条家の所領だった事に関係がある。
ホキ石仏第一群、第二群、古園石仏は京都・奈良の仏師により製作され、九条家が天台宗総本山比叡山延暦寺と深い関係があり、一流の仏師が臼杵に派遣され摩崖仏が造営された。
同時期に摩崖仏を本尊とする天台宗満月寺が建立され、その記録は寺社考にも記録が残る。
山王山石仏の直上には満月寺の鎮護社として日吉社が同時期に建立され、天台宗の広がりとともに延暦寺の鎮護社「日吉社」も全国に建てられるようになった。
山岳信仰の神「大山咋神」などを主祭神とすることから「山王社」とも称され、深田の里入口の「深田鳥居」の額束の上部に一部風化して読めないが「■王」と刻まれている事から日吉社の鳥居であったと推定される。
摩崖仏と満月寺、日吉社は臼杵荘が仏の力で護られ、ここに住む人々の極楽往生を願って作られた。」
「深田鳥居」は深田の里入口の国道502号線脇の一面稲田の中にポツンと立っています。
柱の太さが印象的な石の明神鳥居で、柱の下部は埋もれているのだろう、訪れた当日は稲田にテントが張られ発掘調査?が行われていた。(駐車場なし)
上
解説脇の香炉で焚かれた煙の先は深田の里が広がる。
下
右手に日吉神社の鳥居とその先に古園石仏の覆屋。
そこからスロープを進み、正面に現れる覆屋が「ホキ石仏第2群」、マップの1に当たります。
すべての摩崖仏はこうした覆屋で囲まれています。
上
臼杵摩崖仏ホキ石仏第2群保存修理工事概要。
摩崖仏は阿蘇溶結凝灰岩に高肉彫りで刻まれています。
彫刻しやすい反面、もろく風化しやすい性質の為、母岩の亀裂に依り多くの仏像は割れ落ち、一部は原形を留めていなかった。
昭和58年から4年の保存修理を受け今の姿を留めています。
「臼杵市はこの摩崖仏を後世に伝えるため保存管理に努力しています。」と書いてあるように、当日も二人の学芸員?に依り摩崖仏の保存管理をする姿が見られた。
下
ホキ石仏第二群第二龕解説。
九品の阿弥陀像を解説脇から全体を眺める。
良くある輪郭だけの平面的な摩崖仏ではなく、一体〃立体的に削り出されたもの。
いずれも表情豊かで、心にやすらぎをあたえてくれる像容で、一体〃彩色も施されていた痕跡が残っています。
中央の阿弥陀坐像と左右に阿弥陀立像各四体が刻まれ九品の阿弥陀を形作っている。
両脇に多聞天と菩薩像らしき姿があるけれど何れも傷みがひどい。
阿弥陀坐像を正面から眺める。
母岩には大きな亀裂が入り、欠損が目立つが、これでも母岩にボルトを打ち込み固定し、欠損部分は接合、風化した表面は樹脂で保護した結果によるもの。
長い年月で逸失したものを敢えて復元し、在りし日の姿に戻すのもいい、そうして見栄えが良くなったものは何か違う物になっている気がしてならない。それらをしなかった事に賛同する。
そうした試みは3D画像や3Dプリンターに任せておけばいいと思う。
ホキ石仏第二群第一龕解説。
覆屋の左部分に当たる。
正面全体像。
中央の阿弥陀如来坐像は古園石仏、山王山の三尊像と共に臼杵磨崖仏を象徴する石仏。
脇侍は観音菩薩(右)と去勢菩薩(左)、阿弥陀如像と共に顔立ちや表情がとても美しいと感じる。
天眼鏡があるとその表情が良く伝わってくる。
観音菩薩。
元は全身鮮やかに彩色されていたのだろう、年月と共に退色している、思いをもって作られたものは色褪せても美しい。
阿弥陀如来。
去勢菩薩。
何れもふくよかで実に穏やかな表情を見せてくれる。
なんだかねぇと感じる事ばかりの昨今、心の乱れが表情にも表れてくることがある、そんな日常を癒してくれて、あるべき姿に戻してくれるものがここにはある。
ホキ石仏第一群覆屋全景。
マップの2に当たり、第二群から2~3分上った場所にあります。
こちらも第二群同様の保存修理が3年に及び行われ、更に1990年から2年をかけて摩崖仏をこの立派な覆屋で覆った。
ホキ石仏第一群第一龕解説。
第二群より更に亀裂、崩落が多いが欠落部分の貼り付けなど行われ、形を保っている。
左から薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像。
阿弥陀如来坐像。
釈迦如来坐像。
薬師如来坐像。
ホキ石仏第一群第二龕解説。
第一龕(左)と第二龕(右)
中央の阿弥陀如来坐像を中心に薬師如来坐像(左)、釈迦如来坐像(右)の三像が彫られている。
ホキ石仏第一群第三龕解説。
第三龕正面全体像。
中央に金剛界大日如来坐像、右に釈迦如来坐像、左に阿弥陀如来如来坐像が並び、その左右に勢至観音菩薩立像・観音菩薩立像が彫られている。
欠損部分は逸失してしまったようだ。
ホキ石仏第一群第四龕正面全体像と解説。
中央の地蔵菩薩坐像と左右に十王立像が配されている。
何れも鮮やかな彩色が良く残っている。
1周30分とあったがここまでに既に20分を費やした。
山王石仏に向かう事にしよう。
歩き出してすぐ、右の山肌に続く道の入口に重要文化財五輪塔の案内があり寄り道。
細い山道を5分程道なり進んだ突き当りに写真の覆屋がある。
マップには五輪塔は示されていないが、位置的にはホキ石仏第一群の上の斜面になるのか?。
五輪塔解説によれば
「大小2基とも五輪塔である。
大きい方は151㌢あり、空輪、風輪の一部を欠損しているが、粗削りで素朴ながら重量感がある。
嘉応弍年(1170)の刻銘が残る。
小さい方は104㌢あり承安二年(1172)の刻銘が残り、如法経(法華経)を納める目的で建立された。」
それぞれ塔の側面に梵字が刻まれているが内容までは分からない。
右隅の石が何なのかは案内はなかった。
五輪塔から戻り、看板の矢印に従い山王石仏へ、100㍍とある。
今回はここまで、次回「§2 山王石仏から古園石仏」へ続く。
臼杵石仏(ホキ石仏第2群から第1群)
参拝日 / 2022/10/26
中央の阿弥陀坐像と左右に阿弥陀立像各四体が刻まれ九品の阿弥陀を形作っている。
両脇に多聞天と菩薩像らしき姿があるけれど何れも傷みがひどい。
阿弥陀坐像を正面から眺める。
母岩には大きな亀裂が入り、欠損が目立つが、これでも母岩にボルトを打ち込み固定し、欠損部分は接合、風化した表面は樹脂で保護した結果によるもの。
長い年月で逸失したものを敢えて復元し、在りし日の姿に戻すのもいい、そうして見栄えが良くなったものは何か違う物になっている気がしてならない。それらをしなかった事に賛同する。
そうした試みは3D画像や3Dプリンターに任せておけばいいと思う。
ホキ石仏第二群第一龕解説。
覆屋の左部分に当たる。
正面全体像。
中央の阿弥陀如来坐像は古園石仏、山王山の三尊像と共に臼杵磨崖仏を象徴する石仏。
脇侍は観音菩薩(右)と去勢菩薩(左)、阿弥陀如像と共に顔立ちや表情がとても美しいと感じる。
天眼鏡があるとその表情が良く伝わってくる。
観音菩薩。
元は全身鮮やかに彩色されていたのだろう、年月と共に退色している、思いをもって作られたものは色褪せても美しい。
阿弥陀如来。
去勢菩薩。
何れもふくよかで実に穏やかな表情を見せてくれる。
なんだかねぇと感じる事ばかりの昨今、心の乱れが表情にも表れてくることがある、そんな日常を癒してくれて、あるべき姿に戻してくれるものがここにはある。
ホキ石仏第一群覆屋全景。
マップの2に当たり、第二群から2~3分上った場所にあります。
こちらも第二群同様の保存修理が3年に及び行われ、更に1990年から2年をかけて摩崖仏をこの立派な覆屋で覆った。
ホキ石仏第一群第一龕解説。
第二群より更に亀裂、崩落が多いが欠落部分の貼り付けなど行われ、形を保っている。
左から薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像。
阿弥陀如来坐像。
釈迦如来坐像。
薬師如来坐像。
ホキ石仏第一群第二龕解説。
第一龕(左)と第二龕(右)
中央の阿弥陀如来坐像を中心に薬師如来坐像(左)、釈迦如来坐像(右)の三像が彫られている。
ホキ石仏第一群第三龕解説。
第三龕正面全体像。
中央に金剛界大日如来坐像、右に釈迦如来坐像、左に阿弥陀如来如来坐像が並び、その左右に勢至観音菩薩立像・観音菩薩立像が彫られている。
欠損部分は逸失してしまったようだ。
ホキ石仏第一群第四龕正面全体像と解説。
中央の地蔵菩薩坐像と左右に十王立像が配されている。
何れも鮮やかな彩色が良く残っている。
1周30分とあったがここまでに既に20分を費やした。
山王石仏に向かう事にしよう。
歩き出してすぐ、右の山肌に続く道の入口に重要文化財五輪塔の案内があり寄り道。
細い山道を5分程道なり進んだ突き当りに写真の覆屋がある。
マップには五輪塔は示されていないが、位置的にはホキ石仏第一群の上の斜面になるのか?。
五輪塔解説によれば
「大小2基とも五輪塔である。
大きい方は151㌢あり、空輪、風輪の一部を欠損しているが、粗削りで素朴ながら重量感がある。
嘉応弍年(1170)の刻銘が残る。
小さい方は104㌢あり承安二年(1172)の刻銘が残り、如法経(法華経)を納める目的で建立された。」
それぞれ塔の側面に梵字が刻まれているが内容までは分からない。
右隅の石が何なのかは案内はなかった。
五輪塔から戻り、看板の矢印に従い山王石仏へ、100㍍とある。
今回はここまで、次回「§2 山王石仏から古園石仏」へ続く。
臼杵石仏(ホキ石仏第2群から第1群)
参拝日 / 2022/10/26
所在地 / 大分県臼杵市大字深田804-1
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