この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪れ、半日程葡萄畑の下で新酒のワインを味わって来た。
多治見駅に向かう帰り道「金幣社 本土神社」を参拝してきました。
多治見駅から北東方向へ徒歩約15分程、多治見簡易裁判所の西隣りに鎮座します。
周辺は南を流れる土岐川に向け緩やかに傾斜が続く一帯で、そこに石垣を積み社地が作られています。
社地東側で小規模な参拝者駐車場を見かけました。
社頭全景。
南側の車道が走り、一段上がった所に境内が広がる。
右手に二つの社号標が立っています。
手前に本土神社(昭和6)、その奥に金弊社本土神社(昭和54)と彫られた社号標が見られます。
金弊社は岐阜県独自の社格制度、金幣社、銀幣社、白幣社、無格社で別けたもの、過去にも柯柄八幡神社(銀幣)、村國眞墨田神社(金幣)など岐阜の神社を訪れると見かけます。
背景には組織と社格の違いによる金銭が絡み、組織に属さない神社も現れている。
社頭左の本土神社由緒。
「主祭神 猿田彦命
配祀神 庭津日命
境内社(祭神) 神明神社(天照皇大神)、八王子神社(五男三女神)、北野神社(菅原道真)、稲荷神社(倉稲魂命)、荒神神社(火牟須火命)、出雲神社(大国主命)、金刀比羅神社(大物主命)」
石の明神鳥居(明治41)と本土神社と刻まれた額。
社名の本土は「ほんど」と読むようです。
旧地名なのか、それ以外なのか謂れを調べてみるも分からなかった。
上
境内右に忠魂碑。
下
多治見市指定文化財の「宝篋印塔」
市内上野町の御嶽神社境内から移されたもので銘文はなく、隅飾の垂直に立つ突起の形状が室町初期に流行った造形らしい。
梵字が彫られているが今も読み取れない、恐らく虚空菩薩?だろうか、解説は梵字としかなかった。
境内左の手水舎。
鉢は昭和9年のもの、パイプを差し込まれた龍口に物悲しさを感じる。
参道から拝殿方向の眺め。
参道は拝殿前から左にも別れ境内社に繋がっています。
拝殿前を二対の狛犬が守護、入母屋銅葺屋根の拝殿は千鳥破風、唐破風向拝が付き立派な佇まいだ。
その創建年月日は詳かではありませんが、元徳2年、今から約七百年前に奉修覆御殿一守と云う棟札が現存しているところより推察しますと、創建はそれ以前であることが證されますが、私共の遠い祖先の代からこの地の守神として今日に至っています。
この地は鎌倉時代に至って土岐氏の一族が長瀬郷に居住し就中長瀬入道頼氏は神仏に対する信仰の念極めて厚き武将で、本土神社を修覆し社家を置いて祭祀を司らしめられたことが虎渓山の古文暦、長福寺の由来記などで窺知することが出来るが当時の社は東西55間(約100㍍)南北50間と云う崇巌な社であったようでありますが、天正11年土岐氏は織田氏に亡ぼされ同時に社家が絶えたので本社に関する詳細の記録は此の時烟滅したものと思われる。
創立年紀不詳なれども、元徳二年奉修復御殿壱宇と云ふ棟札あり。
按ずるに創建は夫れ以前なるべし。
土岐頼貞長瀬郷に居舘を構ふや本神社の社殿を修復。
四十余枚の棟札を存す。近郷の総社なり。
明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に列す。
祭礼10月15日近い日曜日」
定かな所では元徳2年(1330)の棟札だろう、wikiなどが云う長元3年(1030年)まで遡るのかは椿大社社伝に記録が残るかだろう。
拝殿前の狛犬1、大正7年(1918)に寄進されたもの。
こちらは寄進を見忘れましたが、風貌だけ捉え年代を想像すれば、素朴な外観の狛犬1には及ばないだろう。
唐破風向拝、飾り金具には五七桐が施され、神社幕にも大きな紋がはいる。
拝殿斜めから社殿全景、と捉えたいところですが、拝殿から奥の幣殿や本殿などは見通せない。
拝殿脇の由緒略記。
「当本土神社にお祭りする、猿田彦の神は今から六百有余年前既にこの地に鎮座され、私共の遠い祖先の代からの守り神として今日に至っております。
猿田彦神は神話に伝わる、天孫瓊々杵尊の降臨に際し、高千穂の峯に御先導申上げた神として有名であります。
社名の本土の由来は「土地の守護神」から来ているようだ。
拝殿。
拝殿左の境内社から本殿方向を眺める…本殿などの姿はさっぱり見えません。
拝殿左の境内社。
右から北野神社、稲荷神社、荒神神社、出雲神社、金刀比羅神社の五社相殿。
両脇に小さな石標が安置され、一部に氏神と彫られている物もある。
市街化に伴いここに移されたものか?
由緒にあった神明神社、八王子神社はここには祀られていなかった、本殿域に祀られているのかもしれない。
本土神社
創建 / 不明
祭神 / 猿田彦命、庭津火命
境内社 / 北野神社、稲荷神社、荒神神社、出雲神社、金刀比羅神社、神明神社、八王子神社
所在地 / 岐阜県多治見市小田町1-20
公共交通機関 / JR中央線「多治見」駅降車徒歩15分
参拝日 / 2022/11/03
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