鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下)

鶴岡八幡宮境内社白旗神社」・「若宮」からの引き続きとなる今回。
若宮から左の舞殿(下拝殿)と、その左の杜の中に鎮座する祖霊社、そして源実朝が暗殺の場として知られる大石段を上り鶴岡八幡宮本宮(上宮)と境内社の丸山稲荷を巡ります。

上の境内案内図の赤い実線の丸部分が舞殿・祖霊社・本宮(上宮)・丸山稲荷の位置になります。

参道から望む舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)、右手が若宮(下宮)。
治承4年(1180)、頼朝が歴史上初の武家政権である鎌倉幕府を鎌倉に構え、源氏の氏神である八幡宮を遷し、鎌倉幕府はじめ東国の守護神として崇敬されてきたもの。
昨日は人波で写真に収める気になれなかったけれど、朝の境内は静寂が漂う落ち着いた姿を見せています。

舞殿は文治2年(1186)静御前義経を慕う思いを込めて舞った場所として知られ、ここから若宮(下宮)に続くかつての廻廊跡に建っており、下拝殿とも呼ばれるそうです。

建久2年(1191)の鎌倉大火後、建久4年(1193)に再建された入母屋平入での四方吹抜けで、前後に唐破風屋根を持ち、前側には唐破風向拝が施された朱塗りの建物で、金色の飾り金具と垂木全てに垂木飾りが付き、着飾った女性の姿にも似ている。
現在の建物は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊し、昭和7年(1932)に再建されたもので、その際に茅葺き屋根から銅葺屋根に葺き替え、四方吹き抜けのものに姿を変えたようです。

上は享保17年(1732)に描かれた境内図鶴岡八幡宮境内絵図から神仏分離以前の舞殿、本殿域を切り取ったもの。
現在は広々とした印象のある舞殿周辺の境内を思うと、鶴岡八幡宮寺として仏教施設が立ち並んでいた頃は荘厳な境内だったことが伺われます。
調べた限りでは神仏分離令以降、これら施設は近隣の寺に移築されることなく破却されたようです。

舞殿正面全景。

女性的な印象を持ってしまうのも静御前のイメージからか。

舞殿側面全景、綺麗な姿はどこから見ても綺麗なもんです。
現在は全く立ち入る事は出来ませんが、建替え後の古い写真を見る限り、一時期に於ては舞殿の間近まで近づけたようです。

大石段と左側の「親」銀杏と「子」銀杏。

承久元年(1219)、雪が降りしきるこの場で三代将軍実朝は公暁により討ち取られた場所。
石段左に聳えていた樹齢1000年とも云われた隠れ大銀杏、公暁はここに身を隠したとされます。
天然記念物にも指定されていた大銀杏も2010年に倒伏してしまい、現在は注連縄で囲われ、その根から芽生えた子銀杏が樹齢を重ねています。

祖霊社。
舞殿左の杜の中にひっそりと佇んでおり、社頭は舞殿手前の左に写真のような参道が伸びています。

大石段を上る前に祖霊社に参拝、参道はこの先で右に伸びています。

朝の祖霊社周辺の杜は聞き慣れない鳥のような鳴き声が周囲から聞こえてきます。
かみさんと二人で鳴き声の主を探していると、覆い被さるような樹々の枝を駆けまわる小さな影を見付けました。
なかなかじっとしてもらえず、漸くとらえたのが上の写真。
ふさふさとした尾を持つリスらしき姿を捉える事ができた、鳴き声の主はどうやらこの方らしい。
群れをなし、樹々を駆け回り、お互いに「怪しい二人組が来たぞ」とばかり鳴き合っている。
その動きの速さに動体視力が追い付かない。

しんと静まり返った杜の中に佇む祖霊社。
鶴岡八幡宮の氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊を祀り、昭和24年に建立されたもの。
例祭日 春分の日秋分の日

参拝を済ませ本宮(上宮)に向かう事にします。

舞殿から見る大石段とその先の鮮やかな朱塗りの楼門。
仕事とはいえ毎日この大石段を上る巫女さんの足取りは幾分重く見える
鶴岡八幡宮にあって唯一ともいえる長い石段、その前を一対の狛犬が守護しています。

左が「親」銀杏側の吽形、右が阿形の狛犬

寄進年は見ていませんが、全体は白化し、鬣や毛並みはデフォルメされた素朴な姿は、頼朝によってこの地に鎌倉幕府が開かれ、鶴岡八幡宮(若宮)を還座、繁栄から滅亡までの約300年の盛衰を伝えるかのような悲哀に満ちた佇まいをしている。

楼門。
三間一戸の八脚の門で、左右の間に随神が安置されています。
石段も中ほどまでくるとこの随神の視線を感じる。

楼門に掲げられた扁額はお馴染みのもの。
八幡神の使いとされる二羽の鳩で八の字を描き、源氏の幟旗の八幡大菩薩の八もこれが使われています。

蟇股の虎、この他にも鳩を描いたものも見られます。

大正12年(1923)の関東大震災では舞殿同様に倒壊し、昭和7年(1932)に再建されています。
この随神が倒壊後修復されたものか新造されたものか詳細までは分からなかった。

楼門と廻廊。
建立当初鶴岡八幡宮は幾度も火災や自然災害に見舞われ、火災だけでも建久2年(1191)、弘安3年(1280)、永仁4年(1296)、正和4年(1315)、文政4年(1821)、現在の門は文政4年(1821)の火災で焼失後、文政11年(1828)に徳川11代将軍家斉により再建されました。
現在の門は関東大震災で倒壊後に再建された、入母屋銅瓦葺で門の両袖は廻廊と繋がっています。

楼門横の解説は以下。
本殿(上宮)・廻廊・楼門
御祭神 応神天皇比売神神功皇后
例祭日 9月15日
本殿建物は幣殿・拝殿を連ねた流権現造で、 廻廊が東西に 延びて本殿を囲む形になっている。
廻廊は内部が区画され往時はさまざまな神事、法会の場として機能していた。
門中央に掲げられた八幡宮の扁額 「八」の文字は八幡大神の神使とされる鳩を象っていて、寛永6年(1629) 曼殊院 門跡良恕法親王の揮毫によるものである。
本殿内外の上部壁面には鳥獣草木が描かれ、精巧な彫刻も施されているが、細部にわたり見事な彩色が施されている。
現在の社殿は文政4年(1821) 本殿火災後、同11年(1828)、徳川十一代将軍家斉による幕府あげての事業として再建され、江戸時代末期の幕府作事方による代表建築の一つと評されている。
平成8年(1996)には国の重要文化財に指定された。

武内社
御祭神 武内宿禰
例祭日 4月21日
武内宿禰応神天皇重臣として側近くに仕えた為、全国 の八幡宮に於いては末社の神として本殿の傍らに祀られる ことが多い。極めて長命であったとされることから、特に延命長寿のご利益があると云われている。
平成8年(1996) には国の重要文化財に指定された。

楼門の右側の廻廊。
楼門と左右の廻廊の間には脇戸が設けられています。

脇戸から見る拝殿。

脇戸から見る本殿と武内社。
楼門内の写真撮影は禁止されていました。

楼門左側の廻廊。
この廻廊が本殿域を取り囲んでいます。
この左側に大分県に鎮座する八幡宮の総本社宇佐神宮の遙拝所がありましたが、丸山稲荷社の赤い鳥居に魅かれすっかり忘れていました。

丸山稲荷社。
鳥居右に解説があり内容は以下。
丸山稲荷社
御祭神 倉稲魂命
例祭日 4月9日 初午祭、2月初午の日、火焚祭11月8日。
建久2年(1191)の本殿の鎮座以前からこの地に祀られていた地主社である。
社殿は夷社本殿が江戸時代に柳営社となり、更に明治時代に入って稲荷社として現在の位置に移築されたものである。
形式は一間流見世棚造で、室町期の神社建築の貴重な遺例として高く評価されており、境内に現存する最古の建造物でもある。
昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されている。
毎年11月8日に執り行われる火焚祭では、当宮に古くから伝わる鎌倉神楽が奉納され、大勢の崇敬者で賑う。

商売繁昌を祈願し多くの奉納鳥居が連なり、中には有名人の名も見られた。
本殿は鳥居から左に上がった先に鎮座します。

丸山稲荷社斜景。
見世棚造と流造の違いを分かっていない、となれば辞書に頼るしかない。
それによれば「きわめて小規模の社殿で、土台の上に組まれ、正面に階段のないもの」とあった。
けっして小規模とは思えない社殿は、これまで流造と書いてきたなかに、この見世棚造が含まれているのかもしれない。

丸山稲荷社の正面全景。
確かに土台の上に社殿は組まれ、正面に階段はない。
二対の狛狐が守護していますが何れも年代は未確認。
某有名タレントも崇敬する丸山稲荷社を参拝し、鶴岡八幡宮の締めくくりとしました。

大石段から由比ヶ浜に続く若宮王路の眺め。
一時はここが鶴岡八幡宮の中心で、火災による社殿焼失を受け、新たに大石段を造り、その場を切り開いて作られたのが現在の本宮とされます。
災いから学び、同じ場所に建てないところが、自分が思う疑り深い頼朝らしさのような気がする。

相模国一宮 鶴岡八幡宮 (舞殿・祖霊社・本宮・丸山稲荷)
創建 / 康平6年(1063)
本宮祭神 / 応神天皇神功皇后比売神
武内社祭神 / 武内宿禰
丸山稲荷 / 地主社
祖霊社 / 氏子崇敬者の祖霊、護国の英霊