建長寺から鶴岡八幡宮末社「今宮」へは、県道21号線沿いに鶴岡八幡宮に続く下り坂を徒歩10分ほど進みます。
鶴岡八幡宮参拝者駐車場の手前で左に進み、突き当りを左に進みます、両脇に点在する住宅に続く路地の突き当りが今宮の社頭になります。
聳え立つ樹々が背後に迫り、鎮座地は鶴岡八幡宮境内の最深部に位置します。
社頭。
左に史跡鶴岡八幡宮境内「新宮」の案内板があり、朱の明神鳥居の先に社殿がひっそりと佇んでいます。
社殿正面全景。
想像していたより新しく綺麗な社殿で、右手に今宮の祭神が記された案内板が立つ。
源頼朝亡き後、北条義時・北条政子と後鳥羽上皇が争った承久の変(1221)、戦に敗れた後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇は流罪となり、延応元年(1239)後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、天変地異や飢饉、疫病が起こり、鎌倉でも北条泰時が病に伏せるなど、承久の変で京都に関わった北条泰時(1242)、北条時房(1240)、三浦義村(1239)など次々と他界。
後の宝治元年(1247)の宝治合戦の争乱、天変地異や飢饉、疫病は続き、度々改元されましたが、これらの禍の根源が亡くなった上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために祀られたが社が今宮とされます。
ここに至る道筋にそれらしい案内板も見当たらず、ここが鶴岡八幡宮の末社とは思えない。
唯一それと分かるのは、この鶴の紋と文化財の看板くらいだろうか。
後の宝治元年(1247)の宝治合戦の争乱、天変地異や飢饉、疫病は続き、度々改元されましたが、これらの禍の根源が亡くなった上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために祀られたが社が今宮とされます。
ここに至る道筋にそれらしい案内板も見当たらず、ここが鶴岡八幡宮の末社とは思えない。
唯一それと分かるのは、この鶴の紋と文化財の看板くらいだろうか。
江戸時代の徳川光圀が当地を訪れた際に記録、編纂された「新編鎌倉志」、ここに今宮の記述があり、「社の後ろは深谷なり、一根にして六本に分かれた大杉あり。魔境にて、天狗ここに住むという」と記されていると云う。
訪れた時には、六本に分かれた大杉は存在しませんでしたが、深い杜は今も保存され、天狗が住みそうな雰囲気は漂っています。
境内に建てられた「今宮」の石碑。
昭和4年(1929)に建てられたもので、碑文の内容を要約すると以下のようなもの。
「四條天皇の時代である延応元年(1239)、鎌倉では様々な諍い事があり。
特にその年の5月22日には大騒動が起きたと云う。