​​神奈川県高座郡寒川町 『相模國一之宮 寒川神社』

相模國一之宮寒川神社

訪れたのは2023/01/18、新たな年を迎えて間もない頃の事。
疫病との付き合い方も分かり、まもなく海外から多くの観光客が訪れ、賑わう前に訪れておく場所のひとつとして、一泊二日で神奈川の一之宮巡りに訪れました。
ここ相模國一之宮寒川神社でそれも終わりを迎える。

そんな時期なので冬枯れた景色ばかりで彩りには乏しいかもしれない。

鎌倉から寒川神社へは江ノ電とJRを乗り継いで寒川駅で降車しました。
寒川神社の最寄り駅は宮山駅になるかと思いますが、一駅前で降りて線路沿いを10分程歩いた踏切の先に立つ一ノ鳥居と社標から訪れる事にした。
なんだぁ、意外に駅から近いじゃないかと内心喜ぶも、一ノ鳥居から松並木に挟まれた参道から遥か先を眺めても社頭らしき姿が見えない。
寒川神社一ノ鳥居は相模川の左岸沿いに流れる目久尻川の左岸に位置し、昭和4年(1929)に寄進されたもの。

鳥居から10分程進んだだろうか、ようやくニノ大鳥居が現れる。
その先になんとなく社頭らしき姿も見て取れる。
実に長い参道、この鳥居を過ぎたあたりから社頭方向に向かう車が渋滞を始めた。
この鳥居は、明治5年(1872)に老朽化し撤去され昭和41年(1966)に再建されたコンクリート製で、高さは16㍍もあり関東最大の鳥居とされます。

寒川町そのものが初めて訪れましたが、寒川の名物はどうやらこの水仙なのかも知れない。

ニノ鳥居から5分程で漸く神橋の先に三ノ鳥居が現れる。
渋滞は社頭まで続き、その大半は寒川神社へ参拝に向かう車が大半のようで、社頭前の寒川神社前交差点は写真のように流れが滞っていた。
当日は平日、特に祭礼日でもないが凄い列だ、さすがに相模之国一之宮という事か。

神池に架かる神橋と噴水の先に銅像があり相模薪能石橋の銘があった。

境内の由緒。
内容は以下。
「祭神 寒川比古命寒川比女命の二柱の神を奉称して、寒川大明神という。
例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流鏑馬神事)  
当神社は日本総国風土記によれば、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録が残る。
神亀4年(727)社殿建立と伝わり、1600年以上の歴史を有す。
以後、延暦16年(797)桓武天皇を始め、歴代奉幣の記録が残る。
承和13年(846)に神階従五位下を始めとする神階授与がなされています。
醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳相模国十三社の内、名神大社と定められ関東地方の信仰の中心をなす。
中世、源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営、社領の寄進等あり、武田信玄からは武運長久を祈願し兜が奉納されるなど崇敬が篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領の寄進など古来より武家からの崇敬の念は篤いものがあった。
明治四年国費から幣帛料が奉納される国幣中社に列せられた。
その後、大正時代の関東大震災、昭和の大東亜戦争終戦後、昭和21年神道指令により、神社の国家管理を廃され神社本庁の包括神社となる。
戦後日本全体の復興とともに八方除信仰を中心として全国の崇敬者から崇敬、参拝されている。
平成9年本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われる。
神聖なる神嶽山を背に約1万5千坪を有し、平成21年に本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」とて開苑。」

参道右側に古い鳥居の笠木と柱が置かれ、そこに鳥居の解説があった。
それによれば寛政8年(1796)に寄進された一ノ鳥居で、安政2年(1855)の江戸大地震大正12年(1923)の関東大震災と二度倒壊した明神鳥居だという事で、現在の一ノ鳥居に比べひと回りも二回りも小さなもの。

人で溢れる参道を先に進み楼門の左に写真の大きな手水舎がある。

寒川神社楼門全景とその前を守護する狛犬

筋骨隆々としたその姿は角を持ち、顔つきも勇ましいものがある。


楼門左の神馬舎。
内部には神馬と手綱を引く木彫りの猿の像が安置されています。

楼門右の授与所。
初詣もあるのだろう、祈願を希望する多くの参拝者の列が伸びていた。

寒川神社楼門。
平成5年(1993)に竣功した入母屋銅葺屋根の見るからに新しい門。
この神社では毎年楼門に「迎春干支ねぶた」を掲げ、参拝者を迎えるのが慣例だされます。
今年は国家安泰、五穀豊穣の神「瓊瓊杵尊」(左)と、安産の神「木花咲耶姫」(右)、中央に木花咲耶姫の子「火遠理命」のねぶたが架けられ、夜には明りが入り、このねぶたを楽しみに訪れる参拝客も多いと云う。
日没から22時まで毎日灯され2月23日まで飾られるようで、どうやらこの楼門は陽が落ちてからが見応えがありそうです。

楼門から社殿の眺め。
寒川神社の正確な創祀年代は定かではなく、記録として残るものは以下の様です。
雄略天皇(456~479)の御代に奉幣。
神亀4年(727)社殿建立の記録。
このことから少なくとも約1600年の歴史を誇る神社のようです。
延長5年(927)に編纂された「延喜式」の相模國十三社(寒川神社、川勾神社、比々多神社、前鳥神社、寒田神社、高部屋神社、大山阿夫利神社、小野神社、有鹿神社、石楯尾神社、宇都母知神社、大庭神社、深見神社)のうち、唯一の名神大社とされています。
祭神は寒川比古命寒川比女命のニ柱で寒川大明神と奉称され、寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方を開拓、衣食住などの根源を開発指導、関東地方文化の生みの親として敬仰される。

現在の社殿は、大正時代から昭和にかけて竣工されたものが多く、神橋なども同時期に整備されたようです。

この拝殿は東西に翼殿を連ねたもので平成9年(1997)に竣功されたようです。
なので趣のある古い建造物は皆無と云っても良く、整備された荘厳な社殿です。
拝殿とその奥に見えているのが本殿の大棟だろう、本殿や幣殿は神嶽山の社叢が包み込み全体は見通せなかった。

拝殿唐破風と拝殿内のねぶた。
一説には200人同時に祈祷できる広さがあるという。
それくらいでなければあの長蛇の列はさばききれないだろう。
あれで普段の平日なんだという。

寒川神社は、相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として約1600年の歴史を持つ神社です。古くは朝廷をはじめ、源頼朝武田信玄、徳川家代々、さらには民間と幅広く崇敬された。
神社HPによると
「拝殿の右側に配置された渾天儀のレプリカは、本来天体の位置・星等を観測する器具です。特に星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をもにぎると昔から考えられてきました。そのため、天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。
寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事にならい四隅に龍が配置されています。」
とあります。
現在は八方除の神徳を戴くため全国各地から崇敬者が集まります。
社頭の駐車場の空きを待つ長い車列、境内に入れば今度は授与所の前で長い列、さすが相模國一之宮。

拝殿から楼門方向の眺め。
本殿裏手に末社の御祖神社が鎮座するようですが、入口が見当たらず参拝は諦める。

南門とその前を守護する狛犬
楼門前の狛犬に比べ幾分穏やかな表情。
もともとの神門を移築したもので、旧本殿をしのぶ建物との事。
訪れた時はこの南門をくぐった右側に御朱印受付が設けられ、かみさんによるとこの時期の通常御朱印はなく、写真の特別御朱印のみだとか。
 
最後に本殿、神嶽山が見れないものかと社地外周をひと回りして見る。
神嶽山後方に生垣が一部切り取られた裏参拝所があり、そこから禁足地の様子が見てとれるようになっていた。​

宮山神社。
境内を出て、社頭左の道路沿いに鎮座する寒川神社末社で、古くからこの宮山各地区に鎮座していた七社の小祠をここに合祀したもの。

明治41年(1908)に琴平社に八剣社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社を合祀、大正3年(1914)に稲荷社、昭和44年(1969)に三峰社を合祀し宮山神社になった。

一間社流造の宮山神社全景。

由緒によれば、安産と母子の健康を願い崇敬され、白豆腐を御供し祈願すると母乳に恵まれるという事。
その他にも家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣を司る神として地元から崇敬されているようです。
関東大震災で被災、国の支援で昭和5年に修復されたとの事。

境内左の平和塔。

相模國一之宮寒川神社

創建 / 不明(雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録)
JR相模線「寒川」駅から寒川神社徒歩 / ​​​約20分​​​
参拝日 / 2023/01/18