建長寺。
神奈川県鎌倉市山ノ内に鎮座する臨済宗建長寺派の大本山の寺院で、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つの寺院を鎌倉五山と称し、建長寺はその鎌倉五山の一位に列格される寺院。
前回掲載した円覚寺は鎌倉五山第二位に列格する。
円覚寺から建長寺へは県道21号線沿いに鶴岡八幡宮方向へ徒歩15分ほど。
上は県道21号線沿いに大きな建長寺寺号標と「天下門」が現れます。
建長寺にはこの天下門の他に総門、三門の門を構えています。
この天下門は総門前の駐車場入口を兼ねており、写真を撮るにしても車の往来が多く注意が必要。
この天下門は現在はこの門だけですが、往古は東西に二つの門を構えていたそうですが、関東大震災で被災倒壊、昭和になってこの西門だけが再建されたようです。
東門の痕跡は見られませんが、西門を通り過ぎた先にぽっかりと総門に続く間口が見られます。
下は建長寺境内マップ。
伽藍は円覚寺と同様の配置で総門、三門、仏殿、法殿、方丈と一直線に続きます。
周囲には塔頭寺院が点在し最深部の半僧坊に至ります。
境内は天園ハイキングコースの一部でハイキングで通行する際にも拝観料が必要。
江戸時代の天明3年(1783)に京都般舟三味院に建立されたもので、昭和15年(1940)に移築されたもの。
総門に掲げられた「巨福山」の山号額は中国の僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第10世)の揮毫。
建長寺は正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と称し、鎌倉時代の建長5年(1253)の創建とされる。
開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)で本尊は地蔵菩薩。
上層内部は非公開ですが宝冠釈迦如来像を始め、十六羅漢像、五百羅漢像などが安置されているという。
三門とは三解脱門の略で、空・無相・撫作を表し、この三門をくぐることで、あらゆる執着から解き放たれる事を意味する。
現在の門は安永4年(1775)に万拙硯誼和尚らにより再建された三間二重門で、この作りとしては東日本最大の規模を誇ると云われます。
現在の屋根は銅葺屋根ですが当初は杮葺きだったようです。
創建当初、三門と後方にある仏殿の間には、参道を挟んで座禅堂や食堂があったようです。
現在この空間にはビャクシンの古木7本が植えられており、建長寺開山で南宋から渡来した蘭渓道隆の手植えと伝えられる。
仏殿。
寄棟造の二層構造に見えますが、内部は一層で、一層の屋根は裳階で中央に唐破風が設けられています。
正保4年(1647)に芝の増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋をこちらに移築したもの。
仏殿内。
徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋を移築し仏殿としただけに、色褪せていますが当時は内部、外部共に煌びやかなものだったのが窺われます。
中央の地蔵菩薩坐像は中国・南宋彫刻の影響を受けた作風で、創建当時(1253)のものか、永仁元年(1293)の鎌倉大地震火災後の制作か定かではないようです。
また、地蔵菩薩坐像の左右の仏壇は、創建当初独立した建物だったとされる土地堂に相当するもので、ここには五体の伽藍神が安置されています。
五体が全て揃って残っているのは珍しいと云われ国の重要文化財に指定されています。
蘭渓道隆の手植えと伝えられるビャクシンの古木、樹齢750年以上ともされる。
後方の三門と比較しても遜色のない樹高とうねる様な樹皮は見事なものがある。
法堂。
現在の建物は、文化11年(1814)に再建されたもので、入母屋二重屋根で銅板葺の関東最大の法堂。
昔は建長寺全体が修行道場で、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まり、住持の説法を聞き修行の眼目としました。
往時には388人の僧侶がいた記録も残り、ここに参集したそうですが、現在の修行道場は西来庵に機能を移され雲水達はそこで修業しており、現在の法堂は法要・講演・展覧会などに使われているようです。
掲げられている「海東法窟」の額は、かつて東外門に架けられていたもの。
法堂の見所ともいえる釈迦苦行像と雲竜図の解説。
法堂内部は本尊の千手観音と建長寺創建750年を記念し天井に描かれた雲竜図が見応えがある。
方丈と唐門。
法堂後方に位置する方丈、桃山風の向唐破風の四脚門で、黒漆と煌びやかな金色の飾り金具が強烈な存在感を示している。
寛永5年(1628)東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋の門として建てられたもの。
政保4年(1647)に仏殿、西来庵の中門と共に建長寺に移築され、方丈の正門として使用されている。
平成23年(2010)に解体修理が施されたこともあり一層輝きを増している。
方丈と庭園側から見る唐門。
方丈とは本来住持が居住する建物で、現在は法要・座禅・研修の場として使用されます。
創建当初の建物は寛永18年(1641)に再建されたが、関東大震災で倒壊し、現在の建物は総門同様に京都般舟三味院から昭和15年(1940)に移築されたもので、享保17年(1732)に皇室の位牌を安置する目的で建立されたものという。
方丈内の額には「龍王殿」とある。
縁側伝いに建物を一回りでき、後方の方丈庭園も眺めることが出来る。
天源院。
方丈の左側を奥に進んだ場所にある建長寺の境内塔頭寺院の一つ。
趣のある参道に導かれ進んできたものの、残念ながら一般の拝観は許されていないようです。
正当院。
天源院の更に奥にあり、こちらも建長寺の境内塔頭寺院の一つ。
ここから最深部の半僧坊に向かいます。
半僧坊の社頭には、狛犬が守る長い石畳の参道が一直線に続き、遥か先には一ノ鳥から三ノ鳥居が視界に入ります。
三ノ鳥居の先に社殿があるように思いがちですが、それは大きな間違いです。
実は、半僧坊はこの先の山の頂に向けて続く長い石段を上り詰めた先にあるのです。
途中の参道脇の山肌には、いくつもの穴が開けられ、墓石や供養塔が建てられています。鎌倉は基本的に平地が少ないため、こうした場所に墓所を作ることが多かったようです。
三ノ鳥居をくぐっても、その先には社殿はありません。
代わりに、左右に折れ曲がりながら標高を上げていく石段が続いています。
上を仰ぎ見ると、半僧坊にたどり着くまでにはまだまだ先は長く、途中には複数の天狗の姿が見られます。
社殿の直下には古びた狛犬が守っており、その先には手水舎があります。
手水舎の右手には、社殿に続く最後の石段が伸びています。
正面には小さな門が見えます。
最後の石段を上り切れば、やっと半僧坊の社殿にたどり着きます。
ここまで上り切った参拝者を労うかのように、穏やかな表情をした狛犬が出迎えてくれます。
半僧坊の創建は明治23年と意外に新しく。
当時の建長寺住職・霄貫道がお告げにより静岡県の方広寺より奥山半僧坊大権現を勧請し、建長寺の鎮守として、最も景色の良いこの場所に社殿を築いたのが始まりとされます。
半僧坊の右手から更に上に鎮座する勝上巘地蔵堂。
島木だけのシンプルな鳥居の先のこの石段だけは登ってみました。
方型の小さな堂の内部には勝上巘地蔵が祀られ、名の由来は勝上巘から来ているようです。
全身金色で右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、円光背を持つもので、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第十一番札所になっています。
参道は左手に続き天園ハイキングコースとして更に上へ伸びていますがこれ以上は無理です。
ここからの眺めで満足し下山する事にします。
社殿下の門から先に進むと、右手の岩肌に大団扇が刻まれています、こうした大団扇は参道沿いで他にも見ることが出来ます。
天気が良ければ、ここから富士山を眺めることができるようで、その日はあいにく霞がかかっており、遠くまで見通せませんでした。
左の山を越えれば次の目的地「鶴岡八幡宮」も近い、頑張って下って行こう。
建長寺三門の左に鳥居を構える正一位巨福稲荷社。
鳥居から社殿までの距離は石段を上り始めると見える距離なので安心してください。
社頭は特徴のある塩ビパイプ製の鳥居を構えています。
詳細は定かではなく、webでは、建長寺の守護を目的として祀られ、左の石灯籠や以前の鳥居は天明7年(1787)寄進とされますがよく分からなかった。
三門の右に薬医門があります。
額に嵩山とある建長寺道場で一般の拝観は許されていないようです。
山門右の茅葺屋根の鐘楼。
北条時頼の発願により広く施主を募り、建長7年(1255)1255に鋳造された梵鐘は重量が2.7㌧あり、国宝に指定されるもので今も現役。
この右手にもう一枚解説があり、夏目漱石は「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」と読んだそうで、その句を基にして松岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」につながったという。
広大な伽藍を持つ建長寺。
塔頭寺院も多く一回で掲載しきれていないものもありますが、この鐘楼を見て建長寺を後にすることにします。