『浄楽院 光西寺』(川越市小仙波町)

川越市小仙波町鎮座 浄楽院 光西寺。
JR川越駅東口から北東方向へ徒歩20分程に位置し、東口から西武バスで最寄りの喜多院入口まで移動する事も出来ます。

光西寺の前を北に伸びる道筋は、830年に淳和天皇の勅願により円仁が建立した中院や、仙波東照宮、南院遺跡、喜多院など狭い範囲に鎮座します。

仙波東照宮喜多院が目的でここを通りかかりましたが、山門の彫飾りに目がとまり立ち止まって見ました。

光西寺山門。
正式名は緇田山浄楽院光西寺、浄土真宗本願寺派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
山門は木造切妻の四脚門で木鼻や脇障子など手の込んだ意匠が施されています。

山門扉と山号額。
左は寺紋の五七の桐、右に浄土真宗本願寺派の宗紋の下り藤が彫り込まれています。

細部にわたる繊細な彫りと流麗な美しさを持つ脇障子の装飾。
江戸木彫刻を代表する彫刻家、北澤一京氏が手掛けたものという。

山門左の略歴。
「光西寺は、永禄九年(1566)に石州浜(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。
浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)、十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。
ことは幕府の密偵 間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑重臣の岡田頼母、松井図書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。
家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。
棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政務の責任者とした。
慶応二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。
その翌々年は明治元年明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。
藩についてきた寺ということで士族寺とかお供寺とかよばれている。」

大正2年に記された入間郡誌では光西寺について以下のように記されていました。
「南町にあり。
養壽院門前にあり。
元養壽院所屬千壽院の寺地なりしが、松平周防守川越へ入城するに當て、寺も随伴して、此地に来れる也。
然れば寺の川越町に建てられたるは五十年を出でずと云ふべし。」とあった。

養壽院(川越市元町2-11-1)は、ここから北西に20分程の「時の鐘」の西に位置し、そこに仮寺を設けていたが、仮寺のまま江戸時代から激動の明治維新を迎え、大正時代になってようやくこの地に落ち着いたようです。

藩と共に浜田藩士の菩提寺は何度もお供し、川越に落ち着いた光西寺、お供寺とは言い得て妙だ。

歴史のある光西寺ですが、安住の地に落ち着いたのが大正期のため、伽藍自体は比較的新しいもので、
この山門も同時期のものだろう、目立った傷みはなく木鼻の獅子の白い歯も綺麗なものです。

重い屋根を支える蟇股の力士像、まだ〃表情には余裕がある。

本堂。
後方の墓苑内には松平周防守家廟所があるというが、ここで次の中院に向かう。
 

緇田山 浄楽院 光西寺
宗派 / 浄土真宗西本願寺派
創建 / 永禄九年(1566)、(天保7年(1836)福島県棚倉に移転、慶応二年(1866)川越に移転)
開基 / 恵誓法師
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5丁目4−7
JR川越駅から光西寺 / 北東へ​徒歩20分程
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