十輪院 (奈良県奈良市十輪院町)

奈良市薬師堂町の御霊神社社頭から、東へ5分も進むと左側に築地塀が続く趣のある山門に至ります。

雨寳山(ウホウザン)十輪院の山門(南門)。
十輪院は薬師堂町の御霊社にも現れた元興寺旧境内の南東隅の十輪院町に鎮座します。
門前を通りかかり、門の先に見えた本堂の落ち着いた佇まいに足を止める。

写真の山門は鎌倉時代前期に建てられたものとされ、普通この位置から軒を見れば、玉縁式瓦葺きの屋根を支える垂木があるが、垂木の替りに厚板が軒を支えているためスッキリした印象を受けます。
本堂も同様の造りになっています。
これ見よがしに人目を引き付ける意匠のない、簡素な四脚門で、現在の門は道路沿いの築地塀から境内側に引いて建っていますが、以前は築地塀から突き出るように建てられていたそうです。

山門右の十輪院解説プレート。
「南都 十輪院
優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜
十輪院元興寺旧境内の南東隅に位置します。
奈良時代の僧で書道の大家、朝野魚養の開基と云われます。
本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建物です。
本堂の中には本尊の地蔵菩薩を中心にした石仏龕(重文・同時代)を祀ります。
そこには釈迦如来弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、珍しい構成を見せています。
境内には魚養塚、十三重石塔興福寺曼荼羅石など多数の石仏が点在しています。」

十輪院元正天皇(715~724)の勅願寺で、元興寺の一子院とされ、当時の右大臣吉備真備の長男だった朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられる真言宗醍醐派の寺院で本尊は地蔵菩薩
沿革の詳細は詳らかではないようですが、鎌倉時代に無住法師が編纂した仏教説話集「沙石集」(1283)では本尊の石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。
室町時代の末期まで寺領三百石、境内1万坪の広さを誇るも兵乱等により、多くの寺宝が失われたと云う。
江戸時代初期に徳川家の庇護を受け、寺領五拾石を賜り、伽藍も整備されたと云う。
その後の明治政府による廃仏毀釈でも大きく影響を受けました。

現在の伽藍で初期の様子を伝えるものは本尊の石仏龕(がん)、本堂、南門、十三重石塔不動明王童子立像、校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。
現在の寺観は昭和28年(1953)に本堂解体修理以降のもの。

山門から眺める本堂(国宝)。
鎌倉時代前期の建造物とされ、近世には灌頂堂とも呼ばれる。
内部にある石仏龕(厨子)を拝むための礼堂として建立されたもので、正面の間口は広縁で蔀戸が施された住宅のような佇まいをしています。
軒まわりは山門同様に垂木のない厚板で軒を支えています。
玉縁式瓦葺きの寄棟造りで、棟は低く、そこから緩やかに軒に続く傾斜は安定感があり綺麗だ。

山門をくぐり境内左の護摩堂。

重要文化財に指定されている平安時代の智証大師の作とされる不動明王・二童子立像が祀られています。
実際に像容を拝んではいませんが、​HP​によれば「髪を巻髪にし、左肩に弁髪を垂らし、左目を細め、左の上牙と右の下牙を見せて唇を噛む忿怒相を示しています。
右手に剣、左手に羂索を執り、二童子を従えて岩座上に立っています。
向かって右方の矜羯羅(こんがら)童子は合掌し不動明王を見上げ、左方の制多迦(せいたか)童子はやや腰を曲げ振り向きながら不動明王を見上げています。
平安時代後期には、恐ろしさの中に優美さを求め、ふっくらとして、装飾性豊かな不動明王が現れますが、この像もその系譜を引いています。
古くより、「一願不動尊」として信仰を集めています」
とある。

山門右から境内の眺め。
手水の先の庭園は奥に広がりを持ち、鎌倉時代のものとされる興福寺曼荼羅石、不動明王像、十三重塔などがあり、森鴎外水原秋桜子など十輪院の四季の移ろいを詠んでいるようです。
予定外のため、ゆっくりできなかったので次回ゆっくりと訪れたい。

人波から外れた静かな奈良町を歩いていると、長い歴史を持つ寺院がさり気無く鎮座しており、奈良らしい趣が感じられます。

雨寳山十輪院
山号 / 雨寶山
宗旨・宗派 / 古義真言宗真言宗醍醐派
開基 /  伝・朝野魚養、元正天皇(勅願)
本尊 / 地蔵菩薩(重要文化財)
創建 / 伝・弘安6年(1283)
所在地 / 奈良県奈良市十輪院町27
御霊神社から十輪院 / ​東へ徒歩5分
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