11月30日、奈良市春日野の春日大社境内で江戸時代から続く、春日荷茶屋の月替わりの万葉粥を食べるため早朝に名古屋を発つ。
大和八木で乗り換え西大寺駅から奈良駅へ向かう。
通勤時間と重なり奈良までは生憎立ったままだった。
約3時間ほどで近鉄奈良駅に到着。
春日大社に向かい参拝を済ませ、かみさん待望の万葉粥(きのこ)を目指し春日荷茶屋へ。
冒頭書いたように春日荷茶屋の万葉粥は月替わりのため、11月のきのこ粥はこの日が最後。
やさしい味わいで温かい粥を頂き今回最大の目的を果たした。
この後は奈良市内の寺社を巡り散策してきました、今回は御霊神社を掲載します。
猿沢の池から南に10分程、春日大社では海外からの旅行客や修学旅行生で溢れていたが、ならまちに入るとそれまでの人波は嘘のように消え、風情ある街並みを感じることができる。
ならまちを進み薬師堂町の史跡元興寺の南に接して御霊神社が鎮座する。
古い町割の町並みに溶け込む様に社頭を構えている。
社頭全景。
このあたり一帯は元興寺の元寺領で、嘗ては南大門もあったという。
朱の鳥居の先の表門の門前に狛犬の姿がある、外観は見慣れた狛犬の姿とは少し違うようだ。
「狛犬の足止め祈願」と呼ばれ、江戸時代から伝わる願掛けの方法で、家出人や悪所通いの足が止まりますようにとの願いや、ならまちでは子どもたちが神隠しにあわないように狛犬の足に紐を結んで願掛けをしたものだといいまいす。
その昔、都で疫病流行の際には、中街道に井上皇后、上街道に早良親王、下街道に他戸親王の神輿を据え、疫魔の侵入を防ぐという信仰があり、現在も70ヶ町5000軒を超える氏子層を持ち、健康長寿、家運繁盛、平和の神として広く崇敬され、例祭では神輿が2年かけて70ヶ町全てを巡る行事が今も受け継がれている。
上は寛政3年(1791)に纏められた大和名所図会から当時の元興寺と御霊神社を描いた挿絵、この年代では南大門の姿は見られないが、現在の元興寺には見られない五重の塔や鳥居のない御霊神社の姿が描かれており、「御霊前町にあり。洛陽御霊八所に同じ。勧請の年季詳らかにならず。例祭9月13日。」と短く語られていた。
延暦19年(800)、創建されたばかりの大和国宇智郡(五條市霊安寺町)に嘗てあった霊安寺の御霊神社から井上皇后の御霊を勧請し当社が創建されましたが、宝徳3年(1451)におこった土一揆により元興寺は焼き討ちされ神社も消失し、当時の鎮座地から北の現在の地に遷宮されたという。
表門をくぐった境内の眺め。
提灯櫓の先の拝殿は入母屋妻入りのもので、しっとりとした佇まいを漂わせている。
境内は拝殿・本殿を中心に右に社務所、左に境内社、本殿右にも境内社が祀られています。
手入れの行き届いた境内は、海外から訪れる観光客もなく、古都らしい静かで落ち着いた趣がある。
境内左の境内社。
左は瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神、市杵島比売神を祀る祓戸社。
右が倉稲魂大神、猿田彦命、大己貴命、天鈿女命、保食命を祀る出世稲荷社で昭和27年(1952)に京都の出世稲荷神社から勧請されたものという。
出世稲荷社には「えんむすびの神」の提灯が架けられ、そうした御利益もあるようです。
曇天の空の下で鮮やかな朱色と白の春日造りの社が印象に残る。
境内社や社殿は近年改修を受けているようですが修復履歴は分からなかった。
本殿域西側の眺め。
春日造りの本殿には井上皇后、他戸親王の二柱が祀られ、本殿左右には東神殿、西神殿がある。
西側から本殿、西神殿の眺め。
西神殿には伊豫親王、橘逸勢、文屋宮田麿の三柱が祀られています。
東側から本殿、東神殿の眺め。
東神殿には早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の三柱が祀られています。
八所御霊大神と呼ばれるのは、祀られる八柱からそのように呼ばれるようです。
拝殿左の由緒。
「御霊(りょう)神社
御祭神 井上皇后、他戸親王、事代主命、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿。
由緒
当神社は延暦十九年(800)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社。
御祭神の井上内親王は人皇第四十九代光仁天皇の皇后で聖武天皇の皇女にて称徳天皇の異母姉であります。
宝亀元年(770)白壁王が即位され光仁天皇と同時に井上内親王は皇后となり、翌年には御子他戸親王も皇太子となりました。
しかし宝亀三年(772)天皇を呪詛した疑いをかけられ皇后位は剥奪、他戸親王も皇太子を廃され、大和国宇智郡(五條市)に幽閉、され宝亀六年(775)四月二十七日、母子ともに薨去されました。
薨去後、都や桓武天皇東宮に天変地異や疫病が流行したことから、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊された。
平安時代の人々は、無実の罪を着せられ非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。
しかしその怨霊を丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。
奈良時代の混乱と政権争いの中で、光仁天皇の第一皇子で渡来氏族の高野新笠を母とする山部親王(後の桓武天皇)を擁立する藤原百川の策謀によるものと伝えられています。
薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行した為、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊されました。
奈良時代、平安時代の人々は無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。
しかしその怨霊は丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。
本殿に井上皇后、他戸親王の神霊三座、東側社殿に早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の神霊三座、西側社殿に伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿の神霊三座をお祀りし、あわせて八所御霊大神と申し上げます。
奈良町の中心に位置し、県下唯一の広範囲である氏子地域七十余町を守護する氏神さまです」
拝殿から右奥に進んだ本殿脇に祀られる二社。
右が水蛭子社。
海上安全、豊漁守護、商売繁盛の御神徳が得られる蛭子命が祀られています。
学問の神として知られる菅原道真が祀られています。
道真もその才能を妬まれ無実の罪を着せられ大宰府へ左遷され、大宰府で非業の死を遂げた道真の怨霊が陥れた者に復讐する伝承は良く知られ、後に神格化され彼の才能を授かれる馴染みのある神社です。
しっとりとした古都奈良。
ならまちの町並みに鎮座する御霊神社は、古都らしい佇まいと静けさが残る神社です。
御霊神社
創建 / 延暦19年(800)
本殿祭神 / 井上皇后、他戸親王、事代主神
西神殿 / 伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿
東神殿 / 早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人
境内社 / 祓戸社、出世稲荷社、水蛭子社、若宮社
所在地 / 奈良県奈良市薬師堂町24
名古屋から近鉄利用 / 約2.5H
近鉄奈良駅より御霊神社 / 徒歩15分
参拝日 / 2023/11/30