多武峰 『談山神社』

奈良県桜井市多武峰談山(たんざん)神社。
 近鉄桜井駅から、県道37号線で車で20分程南の山間に鎮座する古社。
毎年4月・11月に行われる蹴鞠祭りや、談(かたらい)山の紅葉に包まれる様に鎮座する社殿の美しさで知られる神社。
 確かに紅葉の山々を背景に朝もやに浮かぶ談山神社はしっとりとした趣があり、若い頃その姿を収めたくて何度も訪れた場所です。
紅葉の名所として知られる神社ですが、春の桜の時期も格別なものがあります。
 山々が瑞々しい緑に染まり、そこに白い山桜が咲く頃の神社も華やかな美しさに溢れています。
昔の季節感で恐らくこの時期だろうと狙って訪れたのは4月4日の事だった。

寺川沿いに続く県道37号線を八井内交差点で右折し県道155号線に進み談山神社に向かいます。
 その前にこの交差点で写真の屋形橋に立ち寄ってみました。
談山神社の神域への玄関口と云ってもいい屋根付きの屋形橋は、昭和54年に新たに架け替えられたもの。
 寛政3年(1791)の刻銘を持つもので、かの国学者本居宣長が明和9年(1772)3月に多武峰街道を歩きこの橋を渡り「うるはしき橋あるを渡り」(菅笠日記)と記している。

屋形橋を後に、県道155号線を少し進むと右手に「別格官幣社談山神社」の社号標とその先に東大門が見えてきます。

 談山神社のまさに入口で多武峰街道もここを通っていきます。
左右に袖を持った瓦葺の高麗門で、脇塀の垂木の墨書きから享和3年(1803)の建立とされ、県の指定文化財になっています。
 石垣と山肌の間に建てられた東大門は、山城の門の佇まいすら感じる。
当日は通行止の看板があり、これより先に行きませんでしたが、門前に駐車余地があるので東大門に立ち寄る事が出来ました。
 県道155号線を車で2~3分走り、県道脇の多武峰第一駐車場に向かい車を停めます。
以前は南山荘の上あたりに、山々を背景に社殿全景が収められるスポットがありましたが、年月を経て樹々も成長し昔のように見通せなくなっていました。
 多武峰観光ホテルに入れば全景は撮れますが、桜の時期もピークは過ぎており今回は諦めました。

この参道も桜や紅葉の時期には賑わいますが、普段は写真のように静かな佇まいを魅せ、京都ではありえない光景か。

 下は第一駐車場の周辺マップ。
赤丸が車を停めた高台の第一駐車場の位置、社頭までは山麗を降りていく事になります。

社頭全景。

下は社頭の由緒書き、随分長いが内容は以下。
 「談山神社 大化改新発祥の地 大和国多武峯鎮座 
御祭神 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公
 藤原鎌足公は推古天皇22年(614)、中臣御食子(なかとみのみけこ)卿の長子として、大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。
中臣氏の祖は天児屋根命にて代々神事を司る家柄であり、公はその22代孫に当たられる。
 公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(なかおおえのおうじ)後の天智天皇と共に、当神社本殿裏山の狭山に於て国家革新の大業を計り、ついに西暦645年「大化改新」を成しとげる。
 さらに、近江大津京遷都の国家事業に尽くし、我国の隆昌と安泰の為に偉大な功績を残された。
天智天皇八年(669)、藤原の姓を賜り人臣最高の大織冠と大臣の位を授けられ、同年10月16日薨ぜられた。
 白鳳7年(678)、公の長子定慧はこの多武峯の山頂に父の墓を造り、十三重塔を建て父の御霊を弔った。
後に大宝元年(701)、方三丈の神殿を建立、御神像を奉安したのが当神社の創始である。
 当神社は古来国家鎮護の神、子孫繁栄の神、また全国藤氏一族総氏神として朝野の尊崇を受け現代に至っている。
別格官幣社 大祭 11月17日」

社頭左の手水舎と鳥居。
 ここから拝殿にかけて長い石段が続く。


 石段中ほどから右に伸びる参道は東殿に続きます。

 舞台造り(懸造り)の拝殿。
入母屋檜皮葺で軒唐破風が施された朱塗りの建物。
 山の斜面を基壇状に整地し建てられており、桁行は十三間、梁間二間と大きなもので、永正17年(1520)造営とされ、元和5年(1619)に再建された云われています。
向かいの山から眺めると優雅な姿を見ることが出来…ました。

左に視線を移すと十三重塔が聳えている。
 下は神廟拝所が見える。

本殿を挟み東西二棟あり、楼門前に建つのが写真の西宝庫。
 元和5年(1619)の造営とされ、入母屋檜皮葺の校倉造。

手水舎、手水鉢。
 上り藤が刻まれた台座の上に羽を広げた鶴が置かれ、そのくちばしから清水が注がれている。
明治13年(1880)に五摂家九条道孝公の寄進で、台座に刻まれた上り藤は談山神社の社紋。
 龍一人に清水を注がせるのはオーバワーク、兎や亀、鶴が注いでも良いんじゃないか?

楼門。
 拝殿建立と同時期の永正17年(1520)の造営で、吊灯籠が連なる拝殿廻廊を進む。
ここから眺める境内と山々の眺望は絶景。

広い拝殿内は格子天井で、床は一面畳が敷かれており本殿前で正座して拝むことが出来る。

本殿全景。
 現在の建物は嘉永3年(1850)に造替られたもので、檜皮葺の三間社隅木入春日造、藤原鎌足公をお祀りする。
極彩色の豪華な彩色は適度に色は落ち着き嫌みのない華やかさ。

本殿斜景と蟇股に施された彫りは中央に龍、左右に鳳凰

訪れた時は拝殿内に嘉吉祭で供えられる百味の御食が展示されていた。
 上は百味の御食のひとつで和稲(にぎしね)と呼ばれ、氏子の手により作られるもので、表面は米粒を貼り、この紋様を描いていく。
こうした米を使った物や銀杏、大豆など様々な食材を用いこうした形に仕上げていく、とても根気と時間のいる作業。
 下は脱穀する前の稲の穂を用いて造られるもので、こうした百味の御食は奈良県無形文化財に指定されている。
描かれる紋様のデザインは、氏子それぞれ代々受け継がれて来た紋様だと聞いたことがある。

拝殿の展示物「多武峰縁起絵巻 蘇我入鹿誅戮図」
 江戸初期のもので室町時代に描かれた根本縁起を、御用絵師で住吉派の祖、如慶とその息子具慶により模写されたもので、鎌足の誕生から他界するまでが描かれているという。
鎌足の死後1000年にあたる寛文8年(1668)に後水尾天王の発願で製作されたものという。
 ここには皇極天皇4年(645)の乙巳の変の場面が描かれており、刀を振りかざしているのが中大兄皇子、左で弓と刀を持っているのが藤原鎌足
 その二人の間に宙を舞う蘇我入鹿の首と姿が描かれています。衝立の左に描かれているのが皇極天皇で後の大化の改新に繋がっていく。
明日香村岡にある飛鳥京跡が乙巳の変の舞台となった。

増賀上人坐像。
 増賀上人(917~1003)、天台宗の僧で様々な逸話が伝わる事で知られている。
それらの逸話も彼が名聞にこだわる俗世をいかに拒否したかの現れであり、その生き方は後の遁世者にとって理想像として捉えられ、その中には松尾芭蕉などにも影響を与えたという。
 多武峰縁起絵巻によれば、増賀上人は談山神社の中興の祖で、10歳にして比叡山に登り慈恵太師の弟子となる。天暦2年(948)32歳の時、夢に維摩居士(ゆいまこじ)が現れ、多武峰の景色が示された。
応和3年(963)、増賀は多武峰藤原高光の勧めで多武峰を訪れた、この地が夢に示された地であると悟り、この地に隠棲し庵を結びこの地で入滅した。
 増賀上人の墓は参道を25分程上った右手の山の斜面にあり、小山の様に岩が積まれた所が墓とされています。

東宝庫。

東宝庫から右に進んだ突き当りに鎮座する春日神社。
 江戸時代後期の建築とされ、銅葺屋根の流造で破風が施された社殿で、檜皮葺だった社殿のいたみが激しく近年新たに建て替えられたようです。
後方に見えているのは東殿。

東殿全景。
 恋神社とも呼ばれるようで、現在の入母屋檜皮葺の社殿は、元和5年(1619)造替の談山神社本殿を寛文8年(1668)に移築したもの。
祭神は鎌足の妻、鏡女王をはじめ定慧和尚・藤原の不比等をお祀りし若宮とも呼ばれている。
 古来より、縁結びの信仰あった談山神社の境内には、いくつかの祈願場所が残っています。
東殿もそのうちのひとつ、参拝作法があるようで、まず本殿正面で参拝、時計回りに本殿背後で参拝し最後に再び正面で参拝するのが作法のようです。

上は社殿右にある厄割石。
 厄落とし、開運、諸願成就に御利益があるらしい。
瓦割り改新玉という陶製の丸い玉を買い求めることから始まります。
 1個目の玉に厄を移すため、3回息を吹きかけ、身体に患部があればその部位にあて、その玉を厄割り石の真上からそっと落とし割れれば厄が祓える。
2個目の玉に願をかけてから3回息を吹きかけ、厄割り石の真上から落とし割れれば願は叶うというもの。
要は割れればハッピーのようです。

 下は結びの磐座。
社殿右にあり、始まりは1300年以上の昔に遡ります。
 談山神社の前身である妙楽寺の講堂を建てるとき、光る石が発見され、神の宿る磐座として祀られてきたものです。むすびの岩座は縁結びはもとより、人間関係の結び神として崇敬されています。

写真右上は東殿の裏側にある拝所で床下には小さな社が祀られています。
 こちらで参拝し再び正面に回り込んでもう一度参拝すれば縁は結ばれたようなものです。

東殿から左に進むと見えてくる方形の朱塗りの堂が如意輪観音堂。
 その左に朱の鳥居が見えますが、こちらが末社の三天稲荷神社の参道口。

鳥居から整備された参道(山道)を5分程登った先に社殿が鎮座します。
 見通せない山道は不安になりますが、ここに記載されている徒歩5分は写真データと照らしても信頼できます。

明るい杉林の参道を右に進むと三天稲荷神社の拝所に到着。

拝所から社殿の眺め。
 朱色の妻入りで、向拝が付いた社が三社、春日造りとも少し違い呼称がよく分からない。
入口の解説によれば宇賀魂命菅原道真市杵島姫命をお祀りし、古来より商売繁盛、学業成就に霊験あらたかな社として崇敬されている。
 ここの参拝を終えると境内東側はほゞ参拝した事になるので、ここから拝殿方向の十三重塔に向かい、境内西側を参拝して行きます。

拝殿下側から中央石段に向かいます、境内にはまだ桜も残っていました。
 ほんとに境内から眺める拝殿の全景はさっぱり見えない。

神廟拝所(旧講堂)
 定慧和尚が白鳳8年(679)に父・鎌足の供養のため創建した妙楽寺の講堂。
現存のものは寛文8年(1668)に再建された桁行五間・梁間四間の入母屋檜皮葺のもの。


 塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色を持ち、堂内の壁面に描かれている羅漢と天女の像は見応えがあります。
談山神社は嘗ての神仏習合色が色濃く残り、神仏分離による境内分断などの影響をあまり受けていないようです。

 神廟拝所の内部は公開されており、ストロボを焚いたり、三脚を立てるなどせず良識の範疇で撮影は許されており、懐の深さに感謝したくなる。
写真は秋冬花鳥図。
 原本は大英博物館が所蔵するもので、江戸時代17世紀の狩野派により描かれた襖絵、当然レプリカです。
解説は以下。
「金銀の砂子や小切箔が装飾的にまかれた幅広の襖四面に、生命力あふれる 花鳥が濃密に描き込まれる。
 左側に紅葉した楓や芙蓉のもとに遊ぶ雁、 右側の面からは雪を抱いた檜や白椿、水辺に憩う鴨の姿が描かれ、季節が秋から冬へと移ろう様子が見て取れる。
元来は春夏を描いた襖が存在し、四季花鳥図を成していたのだろう。
 本作は「大化改新」談合の地として著名な談山神社(旧 多武峰妙楽寺)にかつてあった学頭屋敷に伝来したと言われ、華やかな本作が当時の繁栄ぶりを偲ばせる。
画風から作者を狩野永徳の次男・孝信(1571~1618)とする向きもあるが確定しておらず、今後のさらなる研究がまたれる。
 いずれにせよ江戸時代初期の大画面花鳥画として極めて重要な作品であることに疑いはない」

堂内北側の壁画と中央の木像鎌足公御神像、像の右に将軍地蔵、左に不比等公像が安置されている。
 他に運慶作とされる寄木の狛犬などが安置されています。

壁面に描かれた羅漢と天女の姿、江戸時代の狩野永納筆とされ、柔らかな線で描かれ、彩色もはっきり識別できるが、一部に剥離も見られ修復の日が待ち遠しい。


 訪れた時には色とりどりの土鈴が展示されていた。

 堂内から眺める総社拝殿、春と秋にはこの前の境内で古式ゆかしい毬装束を身にまとった鞠人による蹴鞠が催されます。

末社総社拝殿全景。
 寛文8年(1668)の造営で、談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物で、内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残り「山静」の落款も見られる。


 総社拝殿入口。
開け放たれた朱の扉には注連縄が張られ、陽射しの強い外から薄暗い堂内を眺めると、白い紙垂が浮き立って見える、その奥に大きな人影らしき姿が見える。


 近寄って人影を確かめる、それは木彫りの福禄寿、いつ見ても長い頭だこと。
像の大きさは約3㍍程、福禄寿の像としては全国有数の大きさを誇り、多武峰に自生していた欅の神木から彫られたそうです。
 桁行七間、梁間二間の横長の総社拝殿、福禄寿後方の扉が開けられると目の前に総社本殿が見えるはず。

末社総社本殿。
 総社本殿斜景、拝殿前からでは桁行三間の本殿正面の全景が入らない。
入母屋銅葺屋根の妻入りで、大きな向拝が付くこの本殿は、寛文8年(1668)に造替した談山神社本殿を、寛保2年(1742)に移築したもの。
 延長4年(926)の勧請で天神地祇・八百万神を祀り、日本最古の総社といわれている。
向拝柱や梁には、かつて色鮮やかに彩色されていた名残が見られ、木鼻には獅子、蟇股の中央の龍の姿は分かるものの、左右の蟇股に何が描かれているのかよく分かりません。
 補修の時期に来ている気がします、賽銭奮発しておこう。

閼伽井屋、総社拝殿右の石垣脇に建つ。
 「屋根はこけら葺で元和5年(1619)の造営。
この中の井戸は「摩尼法井」と呼ばれ、 往古、定慧和尚が法華経を講じたとき、龍王の出現があったと伝えられている」


 総社拝殿から権殿と十三重塔方向の眺め。

 権殿。
檜皮葺の妻入で桁行五間、梁間五間で妻側に一間の向拝が付く建物。
 「天禄元年(970)摂政右大臣藤原伊尹の立願によって創建され、実弟の如覚―多武峰少将藤原高光―が阿弥陀像を安置した元の常行堂
ここで室町の頃盛行した芸能「延年舞」は有名である。
 現存のものは室町後期の再建。
権殿は、建立以来、500年の時を経て、大修理を終え、この平成の世に再生しました。
 当殿内では、室町時代より延年 舞やお能が演じられ、「伝統と革新」の芸能をきそいあってきました。 古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・ 演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩などにたずさわる人たちの守り神として、また、芸能上達をいのる「祈りの場」として、「集いの聖地」としてご崇敬下さい」

 ここから左には複数の末社が祀られています。

境内西外れの末社
 ・下段左写真。
中央
 比叡神社本殿で寛永4年(1627)に造営された一間社流造で、千鳥破風と軒唐破風が付く。
祭神は大山祇神、もとは飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築され明治維新までは山王宮と呼ばれた。

 宇賀之魂神をお祀りする稲荷神社。

 山神神社、祭神は大山津見。 
・下段右写真(右に見える登山道を登れば談山、御破裂山に至ります)

 神明神社、祭神は天照皇大御神

 杉山神社、祭神は久々能智神。

登山道右の沢沿いに古代磐座と龗神社が鎮座します。
 沢は小さな瀧となり、この瀧と岩くらは古神道の姿を今に伝える霊地です。
古代信仰では、神聖な岩に、天上から神を迎え、祭祀を行いました。
 この瀧は、大和川の源流の一つであり、神聖な神の水が、神山より千古の時代を経て、湧き続けています。
岩上の社は、飛鳥時代に大陸から龍神信仰が伝わり、日本古来の水神と集合し、龍神社と呼ばれるようになりました。

十三重塔。
 紅葉に染まる山を背景にした塔の姿は趣があります、個人的には春の談山神社が好きです。
こうして間近に見る塔の姿は紅葉の時期とは違う美しさがあります。

藤原鎌足公長子・定慧和尚が、父の供養のために白鳳7年(678)に創建した塔婆で、現存のものは享禄5年 (1532)の再建である。
 木造十三重塔としては現存世界唯一の貴重な建造物である。」
木の皮を剥いで屋根を葺き、木と語らいながら建物を作り装飾する、そうして形になったものは景色と調和し、見る人に感銘も与えてくれる日本が誇るべき技術のひとつ。

祓戸社。
 総社本殿から石段を下り神幸橋方向に向かう途中の左側に鎮座します。
池の小島に鎮座する姿は弁天社の雰囲気を感じます。
 祓戸社の祭神は祓戸大神をお祀りしています。

広大な神域にはまだ〃見るべきところが点在しており、それらを回るには一日では足りない。
 日本の歴史を変えるきっかけの舞台ともなった談山神社、奥の深い土地柄です。
今回、何十年振りに談山神社を訪れ、談山を背景に山桜に包まれた社殿全景を収めたかったのですが、結局  その場所も見つけられず残念ですが、春夏秋冬足繁く通ってみたい気になってきました。

談山神社
創建 / 大宝元年(701)
祭神 / 藤原鎌足
所在地 / ​奈良県桜井市多武峰319
参拝日 / 2023/04/04
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