丹羽郡​大口町『堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社』

前回掲載した大口町の裁断橋から八剱社社地沿いに南側に向かう。

写真は八剱社南側の社頭の眺め。
写真左が八剱社の参道で、右側が今回掲載する堀尾吉晴邸跡と若宮八幡社に続く参道になります。

上は八剱社社頭脇の堀尾氏邸宅跡の解説。
内容は以下
大口町指定文化財 堀尾氏邸宅跡
八剱社境内は、のちの松江城堀尾吉晴を生んだ堀尾家累代の邸宅跡と伝えられている。
堀尾氏は、鎌倉時代の終わり頃、この地に移り住んだと思われ、『寛文村々覚書』にも堀尾家の居館があったことが記されている。
また裁断橋物語の堀尾金助も一族の一人である」
とある。

堀尾家の先祖を辿っていくと、第40代天武天皇を祖とする高階氏であり、応永年間(1394~1427)から尾張国御供所村(現在の堀尾跡)に居住したといわれ、国宝として知られる松江城を築城した堀尾忠氏の父が当地出身の武将堀尾吉晴になる。
堀尾吉晴は1543年に生まれ、16歳で戦で敵の首を討ち取るなど、その勇敢さで知られましたが、1611年に没しています。


八剱社一帯は現在も田畑が広がり、戦国時代は堀尾吉晴はじめ、堀尾氏一族の邸宅跡があったとされますが、後に家系は途絶え現在は境内の一角に石碑類が建つのみ。
遺構として鳥居南側にある堀が、当時の居館の名残とされ、境内西側に五条川と並行するように区画溝や建物跡、柱穴跡など居館があったと想定する遺構が見つかっているそうで、規模は八剱社東側から境内を含め裁断橋下流の橋あたりまでと広大だったようです。

その遺構と思われる小さな掘りに架けられた神橋と参道。
正面の神明鳥居は若宮八幡社のもので参道左側は八剱社に繋がっています。
鳥居の手前右側が堀尾吉晴邸跡として、裁断橋の昔話の主人公堀尾金助とその母の銅像が立てられています。
邸趾には「愛知県の堀尾吉晴邸趾」の石標と「金助とその母」の石碑の他にひとつの社が祀られています。

左が堀尾金助とその母。
鬼の茂助・仏の茂助と称され、数々の武功をあげた父吉晴の背中を見て育ち、小田原攻めに18歳で出陣し、武功をあげる事無く戦場で病死(諸説あり)し、凱旋することなく没した金助と息子の武運を願い裁断橋で見送った母の姿がここにある。

堀尾吉晴邸趾。
左が「金助とその母」の石碑、一間社流造の社、史蹟の石標。

石標と堀尾社。
比較的新しいこの社、現地で調べて見たが良く分からなかった。

ただひとつ裁断橋の南側の公園に「堀尾吉晴邸趾・金助とその母・堀尾社」の看板があり、そこから察するにこの社は堀尾社ということになるが、創建時期や祭神については定かではない。

邸跡の「金助とその母」の石碑。
内容は裁断橋で記載したように、18歳にして小田原攻めに出陣する金助とそれを見送った母の物語が刻まれています。

邸跡東に掲げられている堀尾吉晴郅趾碑陰記。
尾州丹羽郡大口村御供所は、堀尾氏代々の領土であり、その邸趾は今も尚残っています。
 系図を辿ると、堀尾の元祖は天武天皇の皇子親王から出ています。
親王は6世の孫、右中井峯緒に高階真人の姓を賜りました。
 峯緒17世の孫、修理大夫邦経が始めてこの村を領し、以来尾張の名族となりました。
邦経11世の孫、泰晴は織田信長に仕え、泰晴の子吉晴は豊臣秀吉に仕えました。
 いわゆる堀尾茂助はこの人であります。
山城・賤ケ嶽・長久手・小田原の諸戦役にはそれぞれ大きな功労があり、浜松に封ぜられ12万石を領した。
 秀吉が五大老・三中老・五奉行を置いたとき、吉晴は中老を命ぜられました。
幾ばくもなくして秀吉が亡くなりましたが、吉晴は五大老・三中老・五奉行の間にあって紛争の難問題を解決しました。
 隠居してから府中におりましたので、子の忠氏が後を継ぎ、関ケ原の役後、功に依り出雲、隠岐の二州23万5千石の大守となりました。
忠氏は早く死に子の忠晴が幼かったので、吉晴が代って之を治めました。
 慶長16年6月17日病のために69歳で世を去り、忠晴があとを継ぎました。
吉晴の人となりは情け深く、おとなしかったので、吉晴は人々から慕われました。
 しかし、一旦戦場にのぞむと、怒った虎のように万人が恐れましたが、平常は戦の手柄を問うものがいても謙遜し自慢しなかったから、戦国時代にあっても友人間に人望が高かった。
忠晴に子がなかったので、家は断絶し堀尾氏の正しい系統は途絶えてしまいました。
 大正天皇即位の年、愛知県が名勝古蹟を調査する計画をたて、その系統の大略を後世に伝えました。
昭和41丙午年10月」

金助から見ると吉晴の背中は大きなものに見えたことだろう。

邸趾から先の若宮八幡社
石の神明造の鳥居の参道の先には木造の蕃塀がある。

参道右の手水舎があり、蕃塀の右に「若宮八幡社」の社標がある。

こちらの長い髭を持つ龍はお休みのようだ。

番塀は二間の間には連子窓が施されたもの、右の建物は獅子屋形倉庫とある。

若宮八幡社全景。
二段に盛られた社地に、一対の狛犬とその先に唐破風屋根の社が祀られている。

社前の小柄の狛犬(寄進年未確認)
狛犬の左右には庚申塔や山神、水神が祀られています。

若宮八幡社本殿。
村中安全と刻まれた玉垣昭和4年に寄進されたもの。
一間社流造の軒唐破風、脇障子が付くもので、さほど大きな物ではないが木鼻はじめ丁寧な彫が施されています。
創建等詳細は不明、祭神は恐らく武神として知られる応神天皇

若宮八幡社の右は八剱社の神楽殿
八剱社については後日掲載する事として一旦境外に出てすぐ東隣の桂林寺へ。

社頭から東に1~2分の場所に鎮座する大香山桂林寺、曹洞宗のお寺で本尊は聖観世音菩薩。
開基など調べていませんが、元禄11年(1624)の銘が入る梵鐘があり、この辺りでは大きな伽藍を持っています。

今回は境内に訪れていませんが、山門の先に見える二層の本堂の左に堀尾吉晴、金助、その母の供養塔があると云う。
今回は先の予定もあり別の機会に桂林寺を掲載します。

堀尾吉晴邸跡(御供所城跡)・若宮八幡社
堀尾社
創建・祭神 / 不明
若宮八幡社
創建 / 不明
祭神 / 不明(応神天皇)
所在地 / 愛知県丹羽郡​大口町堀尾跡2-28
大香山 桂林寺
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 聖観世音菩薩
開基 / 不明(1624年(元禄11年)の銘が入る梵鐘あり)

所在地 / 愛知県丹羽郡​大口町堀尾跡2-16
車アクセス / ​名古屋から一般道で約50分
参拝日 / 2024/01/26
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