丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂』

裁断橋…と聞くと、名古屋在住の者からすると熱田区伝馬町の裁断橋を思い浮かべる。
ここ丹羽郡大口町堀尾跡にも裁断橋は現存します。
そもそも尾張名所図会に描かれた裁断橋は前途した伝馬町のこと、そこから25㌔程北の丹羽郡大口町になぜ裁断橋があるのだろう。
そこには戦国時代の若き武将堀尾金助とその母に由来する母と子の悲しい実話からはじまる。
その舞台が熱田区伝馬町であり、遠く離れた大口町に裁断橋が復元された理由には、この地に堀尾一族の屋敷があったことによる。

名古屋から下道で小一時間程の丹羽郡大口町堀尾跡公園駐車場。
所要で大口町を訪れた帰り、ここの駐車場を起点にして近隣を徘徊することにした。
桜の名所五条川右岸にある公園で普段は訪れる人も少なく、そこそこ広い駐車場は閑散としているが、桜の時期ともなるとそうはいかない。
正面に見えている寄棟の建物が尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元された姥堂

姥堂へ向かう前に公園に入ってすぐ左の歩道に架けられた小さな木橋に向かいます。
平成4年に熱田の裁断橋が撤去され、その際保存会により保管されていた親柱、高欄を使用して修築された橋で、明治37年(1904)に改築された裁断橋の親柱4本と、その後使用されていた高欄の一部を再利用している。
右手の親柱には明治の元号が刻まれています。

こちらには裁断橋の文字も残る。

木橋の先に雅宴舞會と刻まれた石標が立つ、ここは屋外ステージとして使用する目的で作られたもののようです。
後方は右が姥堂で、その先は五条川に架けられた裁断橋に続く、左に見えている森は、この地を納めた掘尾氏が守護神として崇めるため創建した八剱社の杜で、境内の東外れに掘尾氏邸があったとされる。

掘尾氏邸跡には二体の銅像が立てられています。
裁断橋架け替えの主人公となる二人、左の若武者が堀尾金助で左がその母。
架け替えに至る悲しい物語は後程。

姥堂全景、平成6年から7年にかけて、公園と共に尾張名所図会の裁断橋の挿絵をもとに復元されたもの。

桁行3間、梁間2間の寄棟瓦葺の木造建築で、開け放たれた堂の先に復元された裁断橋が架けられている。

軒下に架けられた額、熱田の姥堂の額の書体とは随分印象が違います。

堂内から望む裁断橋と八剱社の杜。
橋の上には先日降った雪で子供らが作ったのか大きな雪玉が残っていた。

裁断橋の袂から見る姥堂

姥堂の正面に架かる橋が復元された裁断橋。
裁断橋に纏わる物語は以下のようなもの。

天正18年(1590)2月18日、堀尾金助は父の方奉が病気のため、叔父の泰次に伴われてこの地、御供所を出発し、従兄にあたる堀尾吉晴に従い小田原征伐に加わりました、金助はこの時十八才で初陣しました。
金助の母は日頃信仰している熱田様に祈願をかねて、熱田神宮付近にあった裁断橋まで金助を見送りましたが、その願いむなしくその年の6月、金助は凱旋することなく病死してしまいました。
この由を看病し臨終まで立ち会った西照寺の僧淳誓が、金助の遺品と共に戦陣中の金助の動静や病気の模様を母に伝えましたが、この戦で泰次も病死し、父の方奉も病死してしまい、金助の母は天涯孤独の身となったのです。

金助の死に嘆き悲しんだ母は、金助の死を無駄にすまいとの志から、武運つたなく功名もなく若い身で死んだ不学と愛情の情を、せめて世間の多くの人々の心にとどめたいと念じ、金助との最後の別れの場となった裁断橋が古くなっていたので、修築すれば人々の助けになり金助の供養にもなると、その改修のために私財をなげうつことを決心しました。天正19年(1591)のことでした。

母は元和8年(1622)にも二回目の改修工事に取り組みましたが、その完成を見ることなく元和7年(1621)永眠しました。
その後、幾度も架け替えが行われた末、川の埋め立てにともなって橋は取り壊されました。
昭和28年(1953)には三分の一の大きさで復元されましたが、平成4年(1992)にはそれも撤去されました。
そして平成8年(1996)、金助の母が二回目に建立した裁断橋を百年以上の時を経て、尾張名所図会をもとにして、母子の出生地・大口町に忠実に再現されたもの。

尾張名所図会に記されている裁断橋と右手が姥堂
挿絵と実際の配置は多少違うように見えますが、寄棟瓦葺の姥堂や橋の姿は良く再現されている。

裁断橋が記録が現れるのは永正6年(1509)「熱田講式」とされる。
架橋の沿革は以下。
天正18年(1590)金助出陣、同年戦没
天正19年(1591)金助の母、裁断橋を架け替え
元和7年(1621)金助の三十三回忌にあたり、母二度目の架け替えに着手するが、同年御供所にて没
元和8年(1622)金助の母の養子安藤類石衛門が遺志を継いで完成。擬宝珠に母の銘を刻む
寛文9年(1669)裁断橋架け替え。その後、不明の期間をはさんで数度にわたり架け替えが行われる
大正15年(1926)裁断橋が架かっていた精進川埋め立て。擬宝珠を残して橋は取り壊される
昭和28年(1953)裁断橋を三分の一の大きさで復元
昭和48年(1973)擬宝珠、名古屋市文化財に指定
平成4年(1992)裁断橋を撤去
平成8年(1996)大口町堀尾跡公園に、二度目に架け替えた裁断橋が復元される 

尾張名所図会は江戸後期に編纂されたもので、上の沿革から見ると挿絵は二回目の架け替え後の姿と思われます。

名古屋市の裁断橋解説は以下内容
「大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていました。
また、精進川を三途の川と見立て、橋の袂には死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂がありました。
橋の名の由来には、閻魔大王が死者を裁断する場という説もあります。
1926年に川が埋め立てられ橋は撤去されましたが、1953年に近くの姥堂境内に縮小して復元されました。元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市文化財に指定され、名古屋市博物館に所蔵されています。
そして、この擬宝珠の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が、亡き子をしのんで書いたとされる和文の銘が刻まれています。」

擬宝珠に刻まれた我が子への母の想いは以下。
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也」
この銘は、成尋阿闍梨母、じゃがたら文と並んで、日本女性三名文のひとつとして名高い。

息子の供養のため、二度にわたり裁断橋の架け替えを行った金助の母。
いろいろ調べて見たが「金助の母」と表記されるのみで、その名は分からなかった。

熱田の精進川にかかる裁断橋は、橋はおろか川自体が埋め立てられ、嘗てを感じさせるものはあまり残っていません。
金助の屋敷がある大口町がそれを惜しみ、屋敷の北側を公園として整備し、桜の名所として知られる五条川に裁断橋を復元したのがこの木造橋。

夕方ともなれば燈籠に灯りもともされ、裁断橋と姥堂はしっとりとした表情に変わります。
もう少しすれば堤の桜がこの光景に彩りを添えてくれるたろう。

あの世とこの世の境とも云われる裁断橋、ここには閻魔様も奪衣婆もいないが、嘗ての裁断橋や堀尾一族の若き武将とその母の物語を体感するには良い場所である。
また、八剣社境内の堀尾吉晴邸跡から東へ徒歩2分程先には堀尾吉晴と堀尾金助、その母の供養塔のある桂林寺があります。

桜の時期に堀尾跡公園を訪れた事はないのでなんとも言えないが、公園前の駐車場は混みあうのかもしれない。
渋滞や人混みが苦手な自分には、しっとりとしたこの時期の裁断橋が丁度いい。

裁断橋
建造 / 平成8年(1996)
所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-61
訪問日 / 2024/01/26
車アクセス / ​名古屋から一般道で約50分
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