前回掲載した八剱社、その社頭の前を東西に続く生活道路を東へ約1㌔直進し、突き当りの三叉路を左に曲がった先の公園が今回の目的地、大口町秋田の金刀比羅社になります。
田畑の中を東に真っすぐに続く生活道路。
街から訪れた者にすれば、信号のない見通しのいい道路ですが、地元や農家の方にとっては生活道路であり農道。
金刀比羅社には参拝者駐車場はないので、堀尾跡公園に駐車して15分程散策するつもりで訪れるのがいいだろう。
上は鎮座地の明治24年頃とほゞ現在の比較。
田畑が広がっいた一帯、現在は民家や事業所が増えたとはいえ、見通しの効く光景が広がっています。
もう少し暖かくなれば土筆も見られるのではないだろうか。
赤枠が鎮座地で、現在は大口町秋田となりますが、町名表記以前は大口村大字河北字柿野。
明治の地図では秋田長桜集落の南外れに位置し、当時の地図には鳥居の表記は見当たりません。
鎮座地に鳥居が現れるのは大正9年以降、それをもって創建を明治以降とするには無理があるかもしれない。
突き当りを左に曲がった道路右側に鎮座する金刀比羅社の社地全景。
周囲をフェンスに囲われた公園の一角に社殿は築かれています。
公園西側の入口には金刀比羅社社標、その先に南を向いて石の明神鳥居を構えています。
鬱蒼とした杜はなく、桜が植えられた明るい公園の印象。
入口左の桜の老木の脇に二体の地蔵が安置されています。
手前の地蔵は微笑むような表情で錫杖や宝玉など像容ははっきりし、石も綺麗で比較的新しものかもしれません。
後方の地蔵さんは光背は一部欠け落ち、石全体が風化し刻まれた像容も良く分からず、右手の石標に碑文が刻まれていたが写真から識別できたのは「小折新田」のみ、往古のこの辺りは尾張藩の領地だったとされ、当時のものであれば、かなり年代は古そうで外観からもそれは感じられます。
もう少ししっかり見ておけばよかった。
社殿全景、狛犬は見られないが鳥居と石灯籠、切妻瓦葺で妻入りの拝殿、後方に本殿と境内社が祀られています。
左の綺麗に剪定された一本の樹が御神木か。
鳥居から眺める社殿。
鳥居は平成元年(1989)に寄進されたもので、痛みのない社殿もその時期に改修されたのか。
鳥居に掲げられる金刀比羅社の額。
石灯籠は昭和55年(1980)寄進のもの。
参道左の手水石(寄進年未確認)も随分時間の流れを感じさせる。
石の縁の窪みはなにを意味するのか、祈願をこめて小石で打ち叩いた名残なのだろうか。
盃状穴とか呼ばれ、古い神社なとでよく見かけます、明治以降にはこうした風習は絶えて行ったようですが、動機は子供の健やかな成長や多様な禍に直面し、いい方向に向かえるように願いを込めて打ち叩いた人々の積み重ねがこの窪みとなったものという。
神仏にこれをするには恐れ多く、先人達の願いは境内の手水鉢や燈籠の台座に窪みとなって残る。
田畑が広がるこの一帯に海運を守護する金刀比羅社が祀られた背景は良く分からない。
神社の創建時など詳細は定かではなく、愛知県神社庁から調べると「祭神 大物主命、崇徳天皇、祭礼日旧暦10月10日」のみの解説で相変わらずの内容。
御祭神の大物主命の御神徳は海運に留まらず多くの開運を授けて頂ける。
大口村史を調べると流石地元だけにもう少ししっかりと記されていました。
「長桜の南端に老樹生い茂る森がある。
ここに鎮座するのは金刀比羅社。
祭神は大物主の命、崇徳天皇。
由緒
創立年代は詳らかではないが、字笹田の土田彌十郎の勧請されたものと伝わる。
明治の始め頃から村人に継がれ、大字秋田一圓の氏子131戸から篤く崇敬されている。
境内社 白山社 祭神 菊理姫命、加具土命
社殿 神明造板葺
祭文殿 入母屋瓦葺
手洗 長さ4尺、巾1尺5寸」
とここまでは辿り着けました。
神社の由緒から脱線しますが、社地についてこんな話を見付けた。
金刀比羅社境内には明治10年(1877)から10年間ほど「秋田学校」が建っていたそうだ。
その後、長桜・替地・宗雲・伝右・八佐が合併し秋田村が成立します。
しかし、明治22年(1889)には秋田村、豊田村、大屋敷村が合併して太田村となり、太田尋常小学校に集約されしまうため、秋田学校は僅か10数年で姿を消したそうだ。
今は静かな金刀比羅社境内ですが、当時は秋田村の子供達の声で溢れたという。
明治の地図で見ると、当時の社地は現在より更に東に広がっていたようです。
今でも余裕のある境内と公園、学童クラブが建ちそうな広々とした空間が残されている。
社殿東側の境内社側から眺める本殿。
拝殿からは渡廊で一間社流造りの本殿と結ばれています。
見上げる高さに祀られた本殿の棟には3本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
本殿右に板宮造りの境内社、飾られた注連縄の立派な事。
社名札がないので明確ではないが、大口村史からするとこれは白山社。
社殿西側から見る金刀比羅社本殿全景。
村史が記された当時は神明造りのでしたが、継がれていく間に現在の形になって行ったのでしょう。
この神社を勧請された土田彌十郎の姿を追いかけて見たが、定かにはならず、創建時期の推察は出来なかった。
一つ言えるのは地図に鳥居の印が描かれる以前、江戸末期には既に鎮座していたものと思われます。
境内西側から見るこぢんまりとした社殿の全景。
入母屋造の祭文殿も本殿同様に様変わりしていったようです。
拝殿から鳥居の眺め。
かつて子供達の声と姿が絶えなかった社地も今は静けさだけが漂っていた。
その昔は老樹生い茂る森も、今ではフェンスに囲われ、神さまや地蔵さんに見守られながら子供が遊ぶ良い場所に姿を変えています。
街中の住宅やビルに囲まれ窮屈そうに鎮座する神社にはない好きな神社の光景だ。
金刀比羅社
創建 / 不明
祭神 / 大物主命 崇徳天皇
境内社 / 白山社
所在地 / 丹羽郡大口町秋田3-233-1
参拝日 /2024/01/26
八剱社から徒歩で金刀比羅社 / 社頭前の通りを東進17分程
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