津島社は、八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左側の江南市天王町五反林に鎮座する神社。
天王町駒野から県道157号線を挟んだ天王町五反林の津島神社方向の眺め。
前方に見える一本の大きな樹が目標になります。
県道を越えると前方の樹は更に大きくなり、左手に玉垣が見えてきます。
上は明治の頃とほゞ現在の当地の比較で赤枠が鎮座地になります。
地図上から津島社の鳥居がはっきり示されるのは大正9年になってからです。
上は江戸時代に編纂された尾張志(1844)の付図から、今回巡ってきた周辺の村絵図を切り取ったもの。
一つ上の地図の集落と河川を比較すると中央辺りが鎮座地になると思われ、
尾張国地名考の寄木、小折、御供所等から天王、五反林、津島社のワードで探して見るも、上の村絵図に具体的に示せなかった。
西側から社地全景。
社地中央の一本の大きな楠が五反林 津島社のシンボルである。
社頭正面全景。
右に津島神社社号標(1915)、神明鳥居(1936)の先に石の番塀を構えている。
愛知県神社庁の津島社解説は以下。
祭神 素戔嗚命、氏子域 天王町駒野、天王町五反林、祭礼 10月第3日曜日。
尾張誌、尾張名所図会に目を通すが津島社の記述は見つけられなかった。
上、玉垣沿いに建てられていた「天王の森」の石碑。
明治政府による神仏分離以前は牛頭天王社と呼ばれた津島神社、敢えて「天王の森」の碑を建てたのは神仏分離以前の名を残したかったのだろうか。
下、境内左の手水鉢と奥の石碑は達筆過ぎで読めず。
境内の楠の巨木。
樹齢は不明ですが力強く張り出した根には自然の息吹が伝わってくる。
注連縄は張られていないが津島社の御神木として存在感がある。
根元に建てられた百度石は大正10年(1921)寄進のもの。
番塀、社殿の正面全景。
楠の根の影響からか、蕃塀の右側が持ち上げられているように見える。
社殿右側から眺める全景。
綺麗に手入れされた境内に四方吹き抜けの切妻拝殿、そこから渡廊を経て祭文殿・本殿と連なり、右側に境内社が祀られています。
拝殿前を守護する狛犬は2005年寄進のもの。
拝殿額。
拝殿から本殿方向の眺め。
由緒・祭神に繋がると思われる額が掛けられいたが読み取れず、創建・祭神は神社庁のものを引用するしかなさそうです。
祭文殿左にも境内社の姿がある。
右側の境内社は「金刀比羅社」
金刀比羅社の鬼には〇金、津島社祭文殿の鬼には津島社の名が入る。
左側見た社殿全景、境内社の奥にも堂の姿がある。
左の境内社は「保食神(うけもちのかみ)」、食物を司る神として稲荷神社にも祀られることがある。
後方の堂は「薬師堂」。
明治政府による神仏分離令の難から逃れたものか、神仏習合時の姿を留めている。
神社の由緒が定かではないので、村人から護られたものか、後に祀られたものか定かではありませんが、堂内中央には本尊の薬師如来像が安置されていました。
堂の前には長椅子が置かれ、陽射しを受けながら住民が集まり語らいの場になっているのかもしれない。
薬師堂から津島社本殿を眺める。
高い塀で囲われ、唯一見られたのがこの一枚、恐らく板宮造りの社かと思われます。
拝殿から社頭の眺め。
小型の蕃塀を補う様に楠の太い幹が本殿を外界から遮っている。
東から見た社地全景、一本の巨樹が聳えるこの光景が印象に残る神社です。
今回大口町の神社を歩いて巡ってきましたが、今回は津島神社で締めくくり、堀尾跡公園に戻る事にします。
今回堀尾跡公園を起点にして午前・午後と歩いたルートは以下。
午後 裁断橋から東方向約3.2㌔・午前 裁断橋から西方向約4.3㌔
結構距離はありますが、平坦な道ばかりなので苦になるものではありませんでした。
天王町 津島社
創建 / 不明
祭神 / 素戔嗚命
境内社 / 金刀比羅社、保食神
所在地 / 江南市天王町五反林72
北山 八剱神社から津島社 / 八剱神社から10分少々東へ進み、県道157号線を越えた左。
参拝日 / 2024/01/26
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