大留荒子古墳

春日井市大留町

大留「神明神社」へ向かう道すがら、内津川の西側堤の荒子公園で偶然「大留荒子古墳」を見かけたので足を止めて見ました。

荒子公園の東を流れる内津川、流れはこの先で庄内川と合流します。

f:id:owari-nagoya55:20200906014318j:plain公園は堤の西側に隣接しており、陽が傾き気温も多少下がるこの時間を待っていたかのように、公園には子供達の姿を見かけます。

f:id:owari-nagoya55:20200906014430j:plain公園北側の片隅に冨士山の様に丸い石がうず高く積まれた「大留荒子古墳」
堤を歩いてきて遠目にこの冨士山を見ると場所が公園なだけに遊具と見間違えそうだ。
北側を東西に車道が伸び、道路際に大きな看板もあり、車で通りかかってもこれは目立つはずです。

f:id:owari-nagoya55:20200906014454j:plain南側から眺める葺石で覆われた古墳の全景。
丸い角の取れた葺石は庄内川の河原の石が使われているのでしょう。


f:id:owari-nagoya55:20200906014516j:plain石室入口は施錠されているけれど、夕陽が差し込み石室内が照らし出されていました。

f:id:owari-nagoya55:20200906014538j:plain古墳の南側に春日井市教育委員会による古墳の解説
「標高28㍍、庄内川右岸の段丘縁辺に立地する直径約10㍍の円墳。
ここから200㍍ほど北西に所在、1988年(昭和63)に発掘調査され、翌年の1989年(平成元年)に公園に移築・復元された。
墳丘は葺石が葺かれ、南に開口する横穴式石室を持つ。
石室内から須恵器、金環(イヤリング)、鉄刀、鉄鏃などが出土。
それらから7世紀前半の築造と考えられる」

区画整理に伴い移築・復元された古墳なので、ここに古墳があるから太古からこの地に災いがないと思いがちですがそうではなさそうです。

発掘時は天井石や葺石などは石室内に抜け落ちていたそうで、復元に当たってはそれらを使用し築造当時の姿を今に伝えています。

この一帯は志段味古墳群をはじめとして古墳が点在する地域、そして宅地化の進む地域。
古墳の墳丘上に神社が建っているようなところは保存されやすいのだろうけれど、開発の波にのまれ消えていったものは多いようです。
こうして移築・復元までされるのは珍しい部類なのかもしれません。
この近くに複数の古墳が現存しており、この一帯は古くから人が住み、被葬者が誰かなど不明ですが有力者がいたことは事実。

この辺りの神社を訪ねていると古墳が付いてくる。


「大留荒子古墳」
住所 / ​ 春日井市大留町1丁目
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日割御子神社  熱田神宮摂社

日割御子神

歳とともに目覚めが早くなるけれど、今朝は新聞配達のバイクの音と共に一日が始まった。
この時間なら熱田神宮もそれほど密にはならないだろう、チャリにまたがり熱田神宮摂社の日割御子神社へ。

f:id:owari-nagoya55:20200903092149j:plain 熱田神宮南門
早朝のため駐車場は御覧の通り入れません、車で来なくて正解、チャリを停め境内へ。
鳥居から先の参道は普段見たことがないほど、参拝客は少ない。
熱田神宮は混んでいる印象が強く、日中は敬遠していたけれど、日の出から門が開くまでの間は静寂の空間が広がっている。

f:id:owari-nagoya55:20200903092200j:plain 普段はこの一ノ鳥居から境内へ進むところですが、駐車場の右に参道があるので日割御子神社に参拝するのであればこちらからが近い。

f:id:owari-nagoya55:20200903092209j:plain 駐車場から一ノ鳥居、上知我麻神社方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200903092221j:plain 車止めのある参道から境内へ。
ここ熱田神宮は太古の頃には、象の鼻の様な熱田台地が海に突き出た先端にあたり、台地には熱田神宮古墳、西に白鳥古墳や断夫山古墳、北に高倉古墳群など築造され、象の鼻の先端は古来から特別な場所だったのかもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20200903092230j:plain 参道をしばらく進むと右手に進む脇参道があります、ここを奥に進みます。
境内の東端に当たるため、杜を通し朝陽が最初に差し込む場所かもしれません。
差し込む朝日は神々しいものがあります。

f:id:owari-nagoya55:20200903092240j:plain 奥に向かうと左側に熱田神宮摂社「日割御子神社」が鎮座します。

熱田神宮と別宮、境内外摂社の高座結御子神社、氷上姉子神社、八剣宮、上知我麻神社、下知我麻神社を総称し熱田七社と呼び、日割御子(ヒサキミコ)神社はそこに数えられる。

創建は定かではないけれど延喜式神名帳では愛智郡の熱田神宮に関連する名神大社熱田神社高座結御子神社、孫若御子神社、日割御子神の四社が記されている。
延喜式神名帳は927年(延長5)に纏められたとされるので創建はそれ以前、一説には孝安天皇の時代(紀元前392年から384年頃)とも云われ、熱田神宮本宮より創始は古いとされます。

象の鼻の先端に当たり、海に張り出た洲崎の名残で干崎と呼ばれていたそうで、それが社名になったと云われます。

f:id:owari-nagoya55:20200903092253j:plain 社殿は鎌倉、室町、江戸、昭和と幾度か補修の手が入れられ、江戸時代には「日破宮」とも呼ばれていたとも云われる。それも1945年(昭和20)、先の大戦による空襲で焼失し、現在の社殿は1982年(昭和57)に再建されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20200903092307j:plain 日割御子神社由緒

f:id:owari-nagoya55:20200903092317j:plain 銅葺き屋根で一間流造の社殿、祭神は天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)。
天照大神素戔嗚尊の誓約から生まれた五皇子の長男(弟に天穂日命天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命)。
稲穂の神、農業神として崇められ、方位除け、厄災除け、開運招福、家内安全などご利益を授かる事が出来るという。

たまたま早朝に訪れて見たけれど、朝もやが漂う杜りの中に佇む社殿が朝陽に照らされていく光景を見るとここは特別な空間である事を改めて感じる。

日割御子神
創建 / 不明 
祭神 /   忍穗耳尊
住所 / 名古屋市熱田区神宮1
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車徒歩10分程
関連記事 / 高座結御子神社氷上姉子神社上知我麻神社・八剣宮

子供の頃の自分と出逢った様な『神明神社』

春日井市大留町5 神明神社

f:id:owari-nagoya55:20200901143934j:plain 神領町2の「津島神社」から庄内川の堤を上流に歩いて行きます。
日が傾いてくれば川原を吹き抜ける風は心地いいものがあり、夏から秋への移り変わりを肌で感じます。

f:id:owari-nagoya55:20200901143955j:plain 途中で内津川の堤を進み、荒子公園の大留荒子古墳を左に見て内津川に架かる橋を渡り、ひたすらまっすぐ進めば15分程で大留町の神明神社に到着。

f:id:owari-nagoya55:20200901143922j:plain 上は1891年の当地、右は現在で、歩いたコースを靑で表し見ました。
当時の地図に大留神明神社の鳥居は見当たりません。
左のマーカーが津島神社、中央は大留荒子古墳、右が神明神社

f:id:owari-nagoya55:20200901143945j:plain 神明神社社頭。
右に社号標と白さが際立つ神明鳥居(平成5寄進)。
両脇を民家に挟まれた参道が境内に伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20200901144006j:plain 鳥居の先に狛犬

f:id:owari-nagoya55:20200901144020j:plain 毬と子を持つ狛犬は白地の石が程よく黒ずみ始め、輪郭が浮き立ちいい趣を醸し出している。

f:id:owari-nagoya55:20200901144031j:plain 参道の先に蕃塀があり、その奥に境内が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20200901144044j:plain 参道を抜けると視界は開け境内が広がる。
境内は公園になっているようで、暑さも和らぎ周辺の子供達の姿がある。

f:id:owari-nagoya55:20200901144059j:plain 境内左に石灯籠と手水舎、その奥に石碑が建てられています。

f:id:owari-nagoya55:20200901144119j:plain 手水舎の龍は夏休みのようだ。
燈籠の竿には安政三丙辰(1856)と刻まれています。
ここまで由緒は見かけなかっただけに、創建に繋がるのはこれかな?

f:id:owari-nagoya55:20200901144129j:plain石碑・・・・・拡大写真を撮り忘れ内容が分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20200901144141j:plain 蕃塀
4脚の控え柱を持つもので、鳥居と同年に寄進されたもののようです。
正面にある拝殿の眺めはこの蕃塀が遮っている。

f:id:owari-nagoya55:20200901144153j:plain 蕃塀の左から社殿の全景。
拝殿かと思っていたが、どうやら神楽殿の様です。
切妻瓦葺の四方吹き抜けの神楽殿、中では夏休みの宿題の答え合わせでもしているのだろうか、地元の子供たちが集まって賑やかだ。
なかなか見かけなくなった光景だ、ここは邪魔しちゃいけないな。

楽殿の先の社殿、その両脇にこんもり盛られた一画があります。
右のこんもりは御嶽神社
左の玉垣の脇のこんもりは親王塚古墳。
7世紀後半から末に築造されたと推定される直径15㍍の円墳で、横穴式石室を持ち一説には後醍醐天皇の皇子の遺品が納められていたとも云われる。

f:id:owari-nagoya55:20200901144300j:plain 境内右の御嶽神社
右の三角の石碑が御嶽神社、中央が霊神碑、左に役行者と刻まれた石碑があり、このこんもりは霊峰御嶽そのもの。
下の写真は御嶽神社左の庚申塔

f:id:owari-nagoya55:20200901144312j:plain 拝殿から本殿。
本殿域は石垣で一段高く盛られ、玉垣で囲われています。

f:id:owari-nagoya55:20200901144323j:plain 切妻平入の拝殿。
由緒書きは見あたらないので詳細は不明です。

こうして写真を撮っていると、先ほどの子供たちが寄ってきて「お参りにきたの?僕もお参りしよう」と声をかけられる。
今時、軽々しく子供に声も掛けられないご時世だけに何だか妙にほっとするのはおやじだけか?
いいね、この神社、子供の頃の自分を思い出す。

f:id:owari-nagoya55:20200901144333j:plain 拝殿右に本殿の右に祀られる豊川稲荷に続く参道があります。
境内は綺麗に手入れされ気持ちがいい。

f:id:owari-nagoya55:20200901144346j:plain 豊川稲荷
板宮造りの社、狐の姿は見受けられません。

f:id:owari-nagoya55:20200901144358j:plain 拝殿から流造の本殿へ続く渡廊から本殿域の眺め。
本殿左にも社があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200901144409j:plain

 拝殿左から拝殿と渡廊、手は掛かるけれど木造は温もりがあっていいものです。
煌びやかな飾り金具もなく落ち着いた佇まいです。

f:id:owari-nagoya55:20200901144420j:plain 本殿左は津島神社、社の造りも大きさも豊川稲荷と瓜二つ。
本殿も黄金色の飾り金具はなく一見地味に見えますが、手の込んだ斗栱の組み合わせや木鼻には彫が施されています。
神明神社の祭神は天照大神でいいと思いますが、意外に子供たちが詳しかったりして。
由緒書きを掲げてやりたいものです。

f:id:owari-nagoya55:20200901144439j:plain 神社東から境内の全景。
毎年10月の秋祭りではこちらの境内で棒の手や神楽が奉納されるようです。
そうした地域の伝統も高齢化や担い手不足などで風化に繋がっていくものですが、子供達が集う神社であれば担い手は生まれそうだ。
子供の頃の自分を見たような気がする神明神社です。
2020/8/25


大留 神明神社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神
境内社 / 豊川稲荷津島神社、御嶽社
住所 /  春日井市大留町5
公共機関アクセス / JR中央線神領」駅から​徒歩で東へ20分程
神領町2​津島神社からのアクセス /  東へ徒歩15分
関連記事 / 庄内川法面に鎮座する「津島神社」

新宮坂の「新宮坂神社」

熱田区神宮2
新宮坂神社

この新宮坂神社はこの地の地名からきているようです。
1878年に熱田村の一部が新宮坂町に変り、1981年に現在の地名の神宮町へと変わってきました。
その新宮坂町の由来は熱田神宮の境内摂社「南新宮社」の東側の坂を新宮坂と呼んだことから付けられたとされます。

f:id:owari-nagoya55:20200830184732j:plain左は熱田神宮境内で新宮坂の所以となった「南新宮社」は丁度この左の境内に鎮座しています。
写真中央の三叉路の角に「新宮坂神社」の神明鳥居が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20200830184716j:plain上は左が1945年頃(終戦後)の航空写真、右が現在、どちらも新宮坂神社の鳥居を確認できませんが、神社の前の通りは新宮坂と呼ばれたように、西の熱田神宮境内の南新宮社に続いているのが分かります。

f:id:owari-nagoya55:20200830184743j:plain三叉路から新宮坂神社社頭の眺め。
小さな社地は玉垣で囲われ木製の神明鳥居が建てられています。

f:id:owari-nagoya55:20200830184757j:plain鳥居から先の境内は南北に細長く、鳥居の先に神明造りの社が見られる。

f:id:owari-nagoya55:20200830184812j:plain高く積まれた台座の上、南を向いて祀られる社。
6本の鰹木と内削ぎの千木が配らわれています。

f:id:owari-nagoya55:20200830184824j:plain神社の創建や祭神など詳細は不明。

新宮坂の町名だけ捉えれば創建は1878年以降となるけれど、町名成立以前からの社名だとすると、近くにある今は小さな喜見寺が栄え、境内の一部を町屋にしたとされる1793年(寛政5)あたりまで遡る事になる。燈籠等の寄進年度等からも創建時期につながるものは見かけませんでした。

神明鳥居と神明造の社は熱田神宮に関連するものなのか?、熱田神宮摂末社など調べて見るも関連はなさそう。
詳細は不明ですが、社には榊が供えられ、今も崇められているのが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200830184836j:plain神社北側は「くさなぎどんぐり広場」があり、こちらからだと社後方を眺めることができます。

神社を巡る楽しみに社格や歴史にあまり興味はなく、そこになぜ社を祀る必要があったのかそこに興味が湧きます。
そうした輩向きに由緒書きはそれを知る手掛かりとなるだけでなく、そこで育つ子供たちがその地を知る絶好の語り部となるだけに由緒書きを掲げるのは有意義だと思う。
我が家の息子達が小さかった頃、神社に虫取りに行くと「なんで?」と質問攻めにあった事を思い出す。

f:id:owari-nagoya55:20200830184847j:plain「くさなぎどんぐり広場」と神社
これだけ暑いと子供たちの姿はない。

新宮坂神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区神宮2-1
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車北へ5分程
車アクセス / 熱田神宮南門駐車場から​松姤社⇒不明社⇒​新宮坂神社まで徒歩5分程
関連記事 / 不明社​ 、​「松姤社」 

庄内川の法面に鎮座する「津島神社」

春日井市神領町2 「津島神社
JR中央線神領」駅から10分程南に進むと庄内川に架かる下志段味橋に至ります。

f:id:owari-nagoya55:20200830072414j:plain 橋の手前から高く盛られた堤防道路を上流に向け2~3分程歩きます。
やがて堤防の法面にポツンと鎮座する小さな社が見えてきます。
神領津島神社です。

f:id:owari-nagoya55:20200830072437j:plain 鬱蒼とした堤防の法面ですが、神社と北側の車道に繋がる手入れされた歩道があり、藪漕ぎはしなくても済みます。

f:id:owari-nagoya55:20200830072504j:plain 道路から津島神社全景
堤の先の庄内川を見据える様に南を向いて祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200830072523j:plain 幟柱と岩の上に板宮造の社、その右に燈籠。
手前の白い燈籠らしき石柱、正面に崩し字で何か書かれていますが分からない。

f:id:owari-nagoya55:20200830072544j:plain 春日井の少し前は当時の村々や島々にこうした天王社や津島社が祀られ、疫病除け祈願として天王祭りや祇園祭り、津島祭りが行われてきた身近な神様。
榊も供えられ、綺麗に雑草が刈り取られた境内、今も地元の方々により崇められているのが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200830072602j:plain 嘗てのこの辺りは現在の様に庄内川を渡る橋はありません、庄内川の勝川、松河戸、下津尾、桜佐、野田、大日、大留、入尾、岩瀬・・・・など各所に渡しが存在し人や物資を船にのせ渡った時代もあります。ここ神領にも渡しがあったそうです。 
上の写真は左が1900年頃の当地、橋は架かっていません。
その後、ここに木造の橋が架けられますが流失を経て、現在の下志段味橋の姿になります。

f:id:owari-nagoya55:20200830072623j:plain 堤防から上流の眺め、東名高速の橋梁はすぐ近く。
対岸は目と鼻の先、なんとかして渡りたいと思うのは自然の事、津島神社の辺りが神領の渡しがあった場所なのかもしれない。
そんな思い込みがあるからか、神社の白い燈籠らしき石柱に刻まれた崩し字が「わたし」と書いてあるような気になってくる。読めないもどかしさを痛感する。

津島神社
創建 / 不明
祭神 / 素戔嗚尊
住所 / 春日井市神領町2
公共交通機関アクセス / JR中央線「​神領」駅から10分程南
最寄りの神社 / 三明神社 下津尾の渡し

『紀伊東照宮』

和歌山市和歌浦西2丁目「紀州東照宮
和歌の浦湾を望む雑賀山の頂に鎮座し、徳川家康を神格化した東照大権現紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る神社。

この地方の紀三井寺和歌浦天満宮紀州東照宮の3ヵ所は急な石段で有名、三社合わせて合計389段の石段を一日で回る事を「和歌の浦急峻三社寺巡り」というそうです。
既に紀三井寺は制覇したのでこれで二社目にチャレンジ。

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 当初予定には入っていなかったけれど、時間に余裕があれば参拝としていたけれど、紀三井寺から車で県道151号線を西に10分ほどと近いので、折角来ただけに紀伊東照宮は是非とも見ておきたいとかみさんに無理いって参拝することにしました。
上は参拝者有料駐車場入口に掲げられた紀伊東照宮の看板と葵の紋のレリーフが嫌でも視界に入ってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200827233022j:plain 一の鳥居から広い駐車場に入ります。
駐車場左の建物は東照宮会館、こちらであれば石段を登る事なく御朱印は頂けるようです。

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その右にある社は「権現不動堂」

f:id:owari-nagoya55:20200827233523j:plainさて一ノ鳥居から社殿を目指します、鳥居は三ノ鳥居まであるようです。
後方の小高い山が雑賀山、あそこまで登ります。

f:id:owari-nagoya55:20200827233550j:plain 二ノ鳥居。
一ノ鳥居に比べ額も付き、葵の紋が入ります。

f:id:owari-nagoya55:20200827233615j:plain

 三ノ鳥居。
二ノ鳥居と同様額が付きますが、葵の紋はこちらにはない。
右手に社号標と左手に境内案内板があります。

f:id:owari-nagoya55:20200827233639j:plain 境内案内板。
目の前の参道は途中で一旦左に折れ、そこから真っすぐ続くようです。
途中には福森稲荷社と弁財天社の二社があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200827233706j:plain 三ノ鳥居の額は重厚感のある色合いと字体のもの。
6月とはいえ陽気は真夏です、杜の木陰に包まれた参道を進みます。

f:id:owari-nagoya55:20200827233732j:plainここから先の雰囲気は厳粛な空気が漂います。
木陰の中の参道の両脇に立ち並ぶ年季の入った石灯籠は、徳川家の家臣から寄進されたもので、石畳の参道の奥まで続きます。
意外にも参道は目と鼻の先で左に折れるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200827233800j:plain 参道を一旦左に折れ、右に参道が続きます、そのあたりの参道左に赤い玉垣と鳥居、さらに青い「稲荷大明神」と書かれた幟が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20200827233828j:plain 「福森稲荷社」への参道はこの奥で右に続き、その先に社が祀られています。
左の小さな鳥居が置かれた石標は日之出大神、その右の石標は吉光大神と彫られています。
和歌山県神社庁によればこの三社は境内社となっています。

f:id:owari-nagoya55:20200827233857j:plain 「福森稲荷社」
詳細は不明。

f:id:owari-nagoya55:20200827233923j:plain 再び参道に戻って先を眺めます。
反り橋の先に見上げるような急な石段とその先に随神門が見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20200827233954j:plain 反り橋の右手は堀の様相、その中に水が湧き出て池を作り、中央の小島に弁財天社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200827234017j:plain 弁財天社へは反り橋を渡って右側に狭い下りの石段を下りていきます。
橋の手前とその先に二つの鳥居を構えています。

f:id:owari-nagoya55:20200827234042j:plainこちらには立派な由緒書きが置かれていました。
1621年(元和7)、徳川家康公の十男で紀州藩初代藩主の徳川頼宣公により創建されたと言う。
その目的は東照宮が鎮座するお山のお守りとしてここに祀られたらしい。

f:id:owari-nagoya55:20200827234108j:plain 御神徳はこの地の守り神のみならず、学問向上、商売繁盛、家運向上、海上安全、井水防火、防疫、安産祈願と霊験あらたかだそうです。
祭神は市杵島比売神

f:id:owari-nagoya55:20200827234132j:plain 弁財天社の右に小さな祠。
内部には宝船に乗った七福神が祀られています。
宝船の前に置かれているものは長い蛇に見えてしかたがない…蛇はどうにも好きになれない

f:id:owari-nagoya55:20200827234241j:plain弁財天社から反り橋を見上げる。
山肌に降った雨は自然とこの弁天池に流れ込むようになっている。

f:id:owari-nagoya55:20200827234308j:plain 反り橋の先に壁の様な108段の石段、「侍坂」と呼ばれ、石段の数108段は煩悩の数を表すのだという。
この「侍坂」を避ける迂回路が石段の左にあります。
「緩い石段」と書かれてはいるが、こうした道は遠回り以外の何物でもない、直登あるのみ。

f:id:owari-nagoya55:20200827234332j:plain

 角の取れた石段を一段、二段・・・・・、随神門を見上げて登っていたが、中ほどから足元ばかりが気になる、石段の数も途中で忘れた。
先を登るかみさんの足取りも重くなり、遂には足元を見て登っている。数はともかく結構な斜度がある。
和歌の浦急峻三社寺巡り」甘くはないか。

f:id:owari-nagoya55:20200827234357j:plain 朱塗りも鮮やかな二層の随神門が間近になってきた。この辺りに来ると再び石灯籠が現れる。
石段の両側は切り立った斜面と杜が迫っているため、極彩色に彩色された随神門と左右の廻廊の全容は意外と収まらないけれど、関西の日光とも呼ばれるのも分からないでもない。

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 随神門前から扁額を見あげ…る、首の筋肉が悲鳴を上げる、少し離れて眺めるのがいいのかも。
「侍坂」の急登108段と紀三井寺の結縁坂の231段、登り切ったぞ。
すぐ西隣に残りの和歌浦天満宮があるけれど、今の気分は「もう十分」

f:id:owari-nagoya55:20200827234521j:plain 日本一大きいといわれる随神が鎮座する。

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随神門をくぐると視界は開け、境内が広がります。
正面に檜皮葺の唐門、拝殿は入母屋造の檜皮葺で破風が施されています。
周囲は檜皮葺きの端垣が取り囲んでいます、瑞垣に彩色される特徴のある緑の色、お馴染みの色ですが最近この色が気になりだした、何色というのだろう?

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境内右に手水舎と正面の瓦葺の建物は神輿蔵。
赤い玉垣に囲われた一画は「楓の木」、古い葉は枯れても新芽が出るまで落ちる事はないそうで、縁起を担ぎ合格祈願に訪れる受験生も多いと云います。

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境内から廻廊と随神門、社務所の眺め。
御朱印はやはりこちらで頂きたいもの。

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 入母屋瓦葺の随神門は至る所に彫飾りと彩色が施され、豪華絢爛ですが、意外に地味な方なのかもしれない、何より金色に光り輝く飾り金具が目に飛び込んでこない。

f:id:owari-nagoya55:20200827234926j:plain 唐門から先の拝殿、本殿は拝観料を支払えば間近に見ることができます。

f:id:owari-nagoya55:20200827235008j:plain 唐門左の解説。

f:id:owari-nagoya55:20200827235100j:plain 唐門から拝殿の眺め。
最後の11段の石段を登って拝観することに。

f:id:owari-nagoya55:20200827235126j:plain 極彩色の唐門の天井に描かれた天女、色彩は鮮やかです。

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拝殿、正面に金色に輝く狛犬(獅子かも?)、その先にこれまた金色の葵紋。
社殿は拝殿、石の間、本殿の構成、ここはもう豪華絢爛そのもの。

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眩いばかりに光り輝く金色と細かな彫や彩色が溢れている、さすが徳川。
社殿を左回りに見て廻ります。

f:id:owari-nagoya55:20200827235819j:plain 拝殿西側の石の間の軒下に左甚五郎の「鶴亀」が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200827235847j:plain 唐門に戻ってきました。

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 色鮮やかで傷みの目立たない社殿は、創建から50年の年忌毎の根本修理、10年・15年に彩色修理と計画的に手が入れられて来たそうで、それは今も受け継がれこの姿を留めています。

f:id:owari-nagoya55:20200827235936j:plain 唐門から随神門、その先の眼下に和歌の浦湾を一望できる。
こうしてみると標高は結構ありそうです、‣・・・・という事はあれだけ下る? 当たり前か

f:id:owari-nagoya55:20200828000115j:plain随神門から和歌の浦湾を眺めると「緩い石段」は捨てがたいけれど、この景色を眺めながら再び「侍坂」を下っていこう。
「隣も行く?」、無理です。

2020/6/26
紀伊東照宮
創建 / 1621年(元和7)
祭神 / 徳川家康、徳川頼宜
境内社 / 権現不動堂、福森稲荷社、日之出大神、吉光大神、弁財天社
住所 / 和歌山市和歌浦西2-1-20

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不明社

松姤社から国道一号線沿いの歩道を左へ、更に最初の脇道を左に向かい秋葉山圓通寺方向へ。

f:id:owari-nagoya55:20200825104119j:plain 最初の交差点は左に進むと熱田神宮南門へ続きます。

f:id:owari-nagoya55:20200825104132j:plain 熱田神宮の杜沿いに北方向へ進みます。
周辺の表通りはビルが立ち並んでいますが、少し入ると趣のある民家が点在しています。

f:id:owari-nagoya55:20200825104147j:plain 秋葉山圓通寺が見える三叉路の角にある個人宅の片隅の幟柱が目にとまりました。
良く見ればその奥に小さな社の姿があります。

f:id:owari-nagoya55:20200825104158j:plain 個人宅の壁面に貼られたホーロー看板が味があっていいものです。

f:id:owari-nagoya55:20200825104208j:plain 個人宅南の敷地に東西に長い社地を与えてもらい、幟柱の先に岩で組まれた台座の上に社が祀られています。
こちら側が正面かと決め込んで社名の手掛かりを探して見るも何もない、社をよく見るとこちらは背面側。

f:id:owari-nagoya55:20200825104218j:plain 正面に回り込んで見ました、趣はこちらが裏の様な外観です。
街中に井戸、しかも今も現役の様に見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200825104338j:plain 熱田神宮を背にして東向きに鎮座する板宮造りの社に社名札はなく、その他の手掛かりは分かりません。
それでも神社幕が架けられるようになっているので廃社ではなさそうです。
こうして見ると屋根神さまの様にも見えなくもないけれど、なにも分からない。

f:id:owari-nagoya55:20200825104349j:plain 上の写真の左は終戦から間もない頃の航空写真、右が終戦から6年後の航空写真。
名古屋は大きな空襲を幾度か受けています、戦争による空襲は多くの犠牲者と大きな爪痕を残しました。
熱田神宮のあるこの辺りも「熱田大空襲」として多くの人命を失い、甚大な被害を受けています。

この社が建てられたのはそれほど古くはないでしょう。
復興に向かい現在の姿になっていく過程で、ここの住民(個人?)の思いと創意から祀られたものである事に間違いないでしょう。

今こうして見る社、それを必要とした背景が後世に伝わっていくといいのだろうが。

廃社の社を見かけると、単に社だけではなく、その地域の一つの歴史が幕を閉じた気がしてならない。

不明社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区神宮2丁目3
松姤社からのアクセス / 鳥居から​徒歩で2~3分程
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