『石清水八幡神社』豊田市足助町宮平

神宮山十王寺から国道420号線の足助八幡宮前信号を足助大橋方向へ
橋の手前に巴川左岸沿いに続く道があるので足助警察署方向に進みます
名古屋方向からだと足助大橋を渡ってすぐ右折です
今回掲載する「石清水八幡神社」は国道240号線南側の足助町宮平地区に鎮座します
因みにグーグルマップの石清水八幡神社の位置・所在地情報は間違っています

石清水八幡神社社頭全景
参拝者駐車場はなく、警察署も近いので路駐は避けるが得策
社地右側に宮町駐車場の立駐があるのでここに駐車して歩くのが賢明でしょう
神社は三叉路交差点付近に西向きに社頭を構えています
社地は杉の杜に包まれているのでこの時期は厄介か

脱線します
還暦を過ぎて人並みに花粉症になったみたい
相手の正体は分からないがどうかするとおかしくなる
長く続いたマスク生活で柄にもなくデリートな体質になったんだろうか

宮町駐車場と側道の間の三角形の社地に玉垣で囲った境内を持つ石清水八幡神社
鳥居や狛犬といったものはなく、一基の石灯籠と本殿、左側に石の祠が祀られ、社標は少し離れた西側に建てられています

苔生した境内全景
本殿は一間社流造で社名札もしっかりと架けられています

神社の創建・由緒・祭神について神社庁、地史どちらも情報は得られなかった
足助八幡宮も近い事もあり、境外社なんだろうかと妄想を膨らせたくなる
八幡神社と付くのだから祭神は恐らく……応神天皇
石清水八幡神社となると県内に石清水八幡神社は少なく、京都府八幡市に鎮座する石清水八幡神社宮から勧請されたものなんだろう

境内右の石灯籠
玉垣、燈籠・社標などの寄進物は昭和のもので創建時期は意外と新しいのかも

本殿左奥の杉の根元に祀られている石の祠

文字が刻まれていますが読み取れず

巴川側道の社標の背面には昭和10年(1935)と刻まれている
足助トンネルができる以前、渋滞する国道を避けるため巴川沿いのこの道を利用したものです
かつてはこの側道沿いに大きな入浴施設(足助温泉だったナ)があり、スキーやキャンプの帰りに時間調整も出来ました
今はそんな時一休みしていく施設がないのが少し残念です

石清水八幡神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / 不明
例祭 / 不明
所在地 / 豊田市足助町宮平56-1
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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紅葉の時期に足助町を通りかかると道路は渋滞
グリーロード入口の力石ICまでの道程の長いこと
ついつい足助町内を避けてしまいがちです、宿場町城下町でもある足助には、宿場の名残を留めた町並みや古くからの寺社など見所は多い

また紅葉やカタクリ、清流巴川が町内を流れ自然豊かな町でもあり、そうした中を歩く東海自然歩道も整備されています
今回掲載する十王寺は、先に掲載した足助八幡宮の両部鳥居の向かいに鎮座しています

神宮山十王寺は愛知県豊田市足助町に鎮座する真宗大谷派の寺院
寺標の側面に「寛永8年石平道人正三和尚開基」とある
本堂は木造切妻瓦葺の平入で一間の向拝を持ったこぢんまりとした佇まい

国道沿いに境内入口はありますが、周囲が有料駐車場ばかりのなか、参拝駐車して良いものか定かではありません
因みに自分はずっと下流の無料駐車場から散策がてら歩いて訪れました

境内左の十王寺解説は以下のようなものでした

十王寺は寛永年間(1624~1645)、鈴木正三和尚により創建された
正三和尚は、天正7年(1579)足助郷則定城主忠兵衛重次の長男として生まれ、徳川家の旗本として大坂夏の陣に戦功をあげた武将
42歳の時、家督を弟に譲り自らは出家
風飡無宿の禅僧となり宗教自由人として庶民に仏教の裾野を広げるため、仮名草子本(二人比丘尼、因菓物語)を書き、近世文学の基となったことでも評価の高い人物である
 
本堂に安置される木造阿弥陀如来立像(室町時代前半から中頃の制作)は別名「またたき如来」と呼ばれ、土地には伝説も伝わる
また、足助八幡宮境内にあった神宮寺の本尊、木造薬師如来座像は高さ90㌢と小さいが鎌倉期の優れた作品とされ、他に江戸時代初期のものとされる木造十王像を所蔵し何れも文化財の指定を受けている

因みに「またたき如来」の伝説とは以下のようなものらしい
「その昔、不届き者により如来像が盗難にあった
ある晩信者の夢枕に如来像が現れ、「京都にいるから迎えに来てくれ、来てくれたらまたたいて合図する」とのお告げがあったそうです
信者が京都に迎えに行ったところ、如来像がまたたいて合図され無事に足助にもどった」
と云うもの

当日は本堂の扉が閉じられ、人の気配もなく「またたき如来」の姿は見られなかった
運が良ければ拝むことができるのかも

境内左には解説板、右には古い石塔や石仏が並び小さな社が祀られています
遠目から霊神碑が立ち並ぶ御嶽神社かなと思っていました、しかし山丸三の紋も見当たらず
どうやら御嶽神社ではなさそうです
どの石塔も年月が経っているようで、確認できたもので「三界万霊」と刻まれた塔に寛文2年(1662)の元号が見られました
先の解説から創建が寛永年間(1624~1645)とあるので、創建後ほどなく造られた「三界万霊塔」です

煩悩にまみれ、戦に明け暮れた戦国の武将から、風飡無宿の僧となった鈴木正三和尚
彼は欲界・色界・無色界の有情無情の精霊を供養するために、三界万霊塔を建てたものかもしれません

神宮山 十王寺
宗派 / 真宗大谷派
本尊 / 木造阿弥陀如来立像
創建 / 寛永8年
開基 / 石平道人正三和尚
所在地 / 豊田市足助町宮平41
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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『足助八幡宮』豊田市足助町宮ノ後

前回掲載した足助神社に続く今回は、西隣に鎮座する「足助八幡宮」を取り上げます

写真は国道420号線から東方向の足助八幡宮と足助神社の杜の眺め

足助八幡宮社頭全景
国道沿いに社頭を構え、木造両部鳥居のすぐ先に蕃塀と社殿がある
社頭右に「足助八幡宮」の社標と鳥居の前に個性的なフォルムの狛犬が見えます

その狛犬
台座に梅丸講と刻まれた狛犬
寄進年代は見ていませんが、素朴で愛嬌のある顔つきで、頭の上には丸みのある宝珠に近い角を持っています

鳥居の額は「八幡宮」三つ巴が社紋と見えます

鳥居をくぐった左のこの建物は神仏習合時の名残「八幡宮の鐘楼」
解説は以下
「この足助八幡宮は、明治初年まで境内に神宮寺があった
この鐘楼は神宮寺のあった名残りである
明治維新神仏分離の際、鐘は三重県柿野町来迎寺に売られ、現在は県文化財に指定されている
豊田市教育委員会」とある

神仏分離により多くの社寺がこうした道を辿りました
しかし、今も鳥居のある寺や多宝塔のある神社など、神仏習合の形態を残すものが存在します
その分かれ道が何だったのか、時々考えることがあります

足助八幡宮社殿全景
手前が拝殿、奥が社務所社務所で隠れていますがその奥には境内社があります
境内社はこの他に拝殿右側にも祀られています

控柱を備えた石の番塀
平成14年(2002)愛子様誕生記念として寄進されたもの

番塀横の境内社
4本の鰹木と外削ぎの置き千木がのる一間社流造の社
社名札がなく社名は不明

左手の杉の巨木
足助八幡宮のスギ
樹齢500年とも云われ、樹高45.5㍍の巨木で市指定文化財(天然記念物)に指定されている
境内にはこの他にもイチョウの巨木などが聳え、神社の歴史の長さを物語っている

境内に入った左に手水舎と神馬像、境内社が祀られている

御足宮
「当宮に伝わる縁起には足腰の病や様々な霊験が記されている
足助は信州への中継地として栄えた宿場町
行き来する人々は、この先の険しい街道を前に旅の安全を祈願、また安全にここまでこれたことにたことに感謝を捧げた
足・交通・健康など御神徳顕著な神社として崇敬されている」
草鞋の上に足神の石標が立てられている

手水鉢の龍と蛙

足助八幡宮概説
天武天皇の白鳳2年(673)創建と伝える古い神社
神宮寺のあった名残りの鐘楼もあり多くの文化財を保存している
八幡神社本殿>
文正元年(1466)十一月の再建で、桧皮葺三間社流造である
妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異で珍しいで珍しいとされる
この地方では規模も大きく、稀に見る神社である
<扁額 鉄砲的打図板額>
慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の沢田四郎右衛門尉が奉納したものである
八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が、大和絵の手法で描かれている
鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか現存しないものである」
…ここでは祭神や境内社についての具体的な解説は省略されています

拝殿正面全景

切妻平入で平側の三間の向拝に唐破風が付く、拝殿と左の社務所、右の建物は渡廊で繋がっています

唐破風の下に梵天と竹竿の先端に藁で作られた斧のようなものが飾られている
呼称は分からないがこれも梵天なんだろうか
拝殿脇に祭神、創建の概要が記された案内板がありその内容は以下
「足助八幡宮
御創建 天武天皇白鳳2年(673)
御祭神 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱
本殿 文正元年(1466)再建・重文」 とあった

拝殿前の石灯籠から社務所方向の眺め、燈籠の寄進年は読み取れなかった

拝殿軒下に金的を射抜いた多数の猛者の名が記された額が掛けられている

拝殿右の境内社
手間から津島社、御鍬社、稲荷社

津島社から足助神社拝殿左方向を進むと足助八幡宮本殿側面を良く見渡せる場所があります
そこに下の解説が立てられています

足助八幡宮本殿
「足助八幡宮の創建は、天武天皇の白鳳2年(673)と伝わる
現在の本殿は文正元年(1466)11月に再建されたもの
屋根が桧皮葺で、三間社流造(正面両端の柱間が三間で、切妻屋根の前面が背面より長く延びる神社の建築様式)の本殿で、室町時代の特色をよく示している
愛知県内にあるこの時代の神社建築としては、規模の大きなもの」
とある
檜皮葺や茅葺の苔むした屋根は趣があって個人的に好きですが、こうして見るとそろそろ葺き替えの時期が迫っているような

手水舎の脇にあった概説の「妻飾・象鼻・手挟など室町時代の特色をよく示し、向拝の蝦虹梁の手法はすこぶる奇異」と記されていたが、ここからその特徴を見る事は出来ません

拝殿全景

社務所から右の境内社全景

左の入母屋妻入りで一間向拝が付くこの鞘殿は金毘羅社
中の社は見通せなかった

その右に祀られる三社
左から流造の塩窯社、中央の6本の鰹木、内削ぎの千木が付く神明造の社が秋葉社
その右の流造の社は天満宮、いずれも創建時期は不明

境内南側に県指定文化財「足助の棒の手」の記念碑
足助の棒の手は近岡町、富岡町の二つの地区が江戸時代、明治時代に継承された五反田地区の三つがあるようで、流派は其々違うようですが、いずれも10月の足助祭りで足助八幡宮に奉納されるようです
この祭りでは山車や火縄銃の空砲撃ちなど見られるようです

足助八幡宮
創建 / 白鳳2年(673)
祭神 / 品陀和気命、帯中日子命、息長帯比売命、外五柱
境内社 / 不明社、御足宮、津島社、御鍬社、稲荷社、金毘羅社、塩窯社、秋葉社天満宮
例祭 / 10月第2日曜
氏子地域 / 足助町
所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​約50分
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足助神社は香嵐渓で知られる足助町の巴川左岸沿いに鎮座します
この区間は以前国道153号線と国道420号線の重複区間で、足助バイパス完成後は香嵐渓の入口とも云える足助大橋を渡ると国道420号線となります

以前は混雑する区間でしたが、バイパスの完成によりスムーズに町内を通り抜けられるようになった
写真は巴橋から西方向の眺めで、国道右に続く玉垣と社叢は足助神社、足助八幡宮の鎮座地になります
一つの社地に足助神社、足助八幡宮が横並びに鎮座し、国道沿いにそれぞれの社頭を構えていますが、境内に入れば二社を隔てるものはありません

右手は豊田市役所足助支所の有料車駐車場

駐車場前の足助周辺観光マップ
周辺には紅葉以外にも香積寺や足助宿の趣が残る町並みはじめ、飯盛城や足助城など複数の城跡が残る歴史の町

紅葉やカタクリの群生が見られる飯盛山には、鎌倉末期の武将足助次郎重範の本城もあった
(写真は2024/3/7のもので見頃となったのは3/24でした)

国道から足助神社社頭の眺め
右に足助神社社標があり正面の神明鳥居の先が足助神社社殿

境内に入ってすぐ右側に雁塚と呼ばれる一つの石と石塚の由来が解説されています
「牛吉さんが、置き忘れた弓で矢を放ったところ、的を外れて田圃にいた雁の雄を殺してしまった
その翌日から田圃には雌の雁が訪れ、雄がいない悲しさから鳴き続けたという
夜には殺された雁が枕元に現れるようになり、雁の呪いから逃れるため僧となり、庵を結んで雁の菩提を弔う日々を送った
雁を射殺してから23年を経た9月23日、辞世の句「先だちし雁や浄土の道しるべ」残し急死したという
奇しくもその日は牛吉さんが雁を射殺した日だったという」
雁は一度つがいになると一生添い遂げ、一方が死んでも新たに相手を迎える事はないという

足助神社境内全景
石造神明鳥居と一対の狛犬、常夜灯があり、右側に手水舎があります

足助神社の創建は新しく明治35年(1902)で祭神は足助次郎重範を祀る神社

カタクリの群落や紅葉で知られる飯盛山には、足助七城のひとつ飯盛山城があった
鎌倉時代、足助重秀が築城した城で尾張三河信濃を結ぶ交通の要衝に建てられた足助氏の本城で、七代足助重範の死後は足助氏の勢力は衰退し全国に散っていったという
後に尾張三河を目指した甲斐の信玄もこの道筋も選択肢に入っていただろう
事実、この道を進んだ根羽村の少し先には信玄坂や信玄塚などが残る

足助神社建立の発端は明治24年(1891)に明治天皇から正四位を贈られたことにあるようです
明治26年(1893)に熱田神宮が神明造に建て替えられた際に摂社の一つを譲り受けた
明治35年(1902)に東加茂郡の郡社として神社が創建された
昭和8年(1933)に従三位を追贈され、顕彰運動も活発化し、縣社、別格官幣社に昇格させる計画もあったという
昭和18年(1943)には新たな社殿の造営も行なわれたが、敗戦に伴い造営は中断し運動も立ち消え、元の場所に遷座したという

鳥居の手前左で足助八幡宮と繋がっています

拝殿を守護する狛犬

猫足の台座には昭和9年(1934)の寄進年が刻まれていました

境内は年輪を重ねた大杉や大楠が聳え、背後には巴川が流れています

手水舎と懸命に働く龍の姿

足助神社
「元弘の変(元弘元年-1331)に後醍醐天皇に味方して、笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将となった足助次郎重範公を祀っている
重範は飯盛山城を本城とした足助氏の惣領で、弓の名手として名高く、笠置で強弓を以って奮戦する様子が「太平記」に名文で書かれている
落城の際、捕われて、翌年京都六条河原で斬首されたが、明治天皇より贈位もあり、足助神社として祀られるようになった 豊田市教育委員会

社殿全景
切妻妻入り拝殿に翼殿が付いたもので翼殿から透塀が本殿を囲むもの

棟の鬼の紋は遠目に桐や葵の様に見えるが三河蔦と思われます
意匠を控え、白壁と木の色合いだけの落ち着きのあるシックな佇まい

足助神社拝殿額

拝殿から本殿域の眺め
拝殿の先は屋根の付きの土間が本殿に続く、土間と云うより幣殿と呼んでもいいだろう
本殿は神明造とされるが、棟持ち柱が見られないので後に建て替えられていそうです

拝殿左側から忠臣足助氏の碑と本殿の眺め

本殿は一間社流造のようで、外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載せられています
大棟には三河蔦の紋が入れられています

足助重範が鎮まる本殿全景
拝殿同様装飾を控えた落ち着いた外観の本殿

拝殿から社頭の眺め
鳥居は大正4年(1915)寄進のもの

足助神社
創建 / 明治35年(1902)
祭神 / 足助重範
境内社 / 
例祭 / 4月第2日曜
氏子地域 / 

所在地 / 豊田市足助町宮ノ後12
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​​約50分
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『揚輝荘北園・豊彦稲荷社』名古屋市千種区

週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、4/7日曜日の予報は外れ、暑いくらいの好天となった ならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました


千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔 日本らしい春の光景が広がっていました ここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに


揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘 大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました 南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れます この北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました


園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました 正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室


伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています


松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭


鳥居から本殿の眺め


財力を示すかのような個人所有の神社


鞘殿全景


豊彦稲荷社由緒 「祭神 宇迦御魂神 御神体 白狐 祭日 初午祭(4月上旬) 由緒 京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されました それを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀 その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました 大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました 現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています 御神徳 五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など 現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」 伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです


後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所) 信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうか また、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 


稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています


鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め


豊彦稲荷社 創建 / 寛延2年(1749) 祭神 / 白狐


白雲橋と三賞亭(有形文化財) 稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋 両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている 大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという


入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです 橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません

天井に描かれている女性の横顔 携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます

白雲橋と豊彦稲荷社 庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません 揚輝荘北園 訪問日 / 2024/04/07 所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21 公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から​北へ10分以内


それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか

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・​泉龍山 桃厳寺

​城山八幡宮

見頃を迎える五条川の桜

4月4日
週末の天気を見据え少し早めに岩倉桜まつり(3月29日~4月7日)が行われている五条川を訪れてきました

岩倉駅から徒歩5分程の豊国橋から長瀬橋の間桜を見て廻る
コロナ以前は五条川沿いに屋台が軒を連ね、漫ろ歩きもままならない状況でしたが
5年振りとなる今年は、お祭り広場や東町休憩所・八剱憩いの広場等に屋台が集められた事から、五条川沿いは歩きやすくなっていました

豊国橋から五条川上流の眺め
満開時は枝垂れた桜が五条川の上をピンク一色に染めますが、まだ七分咲きくらいでしょうか
今は堤沿いの菜の花が鮮やかな時期を迎えています
当日はのんぼり洗いも行われていました

陽当たりの良い所で7分咲きくらいでしょうか

まだ〃満開には少し早い様です

大寒のころや岩倉桜まつり期間中、豊国橋袂の川面では鯉のぼりや神社幟などの糊落としを行う「のんぼり洗い」の光景も見られます
桜まつり期間中はライトアップも実施されています
この土日、雨さえ降らなければ花見しがてら食べ歩くにはいいですね
桜のピークは恐らく桜まつりが終わった後ではないでしょうか
土日は車両の交通規制もあり、公共交通機関で訪れるのがお勧めです

また岩倉から二駅先の「布袋」駅で降車し、東に向かった堀尾趾公園の五条川の桜と裁断橋も風情があってお勧めです

五条川桜まつり
期間 / 3月29日~4月7日
イベント内容 / 岩倉市令和6年​岩倉桜まつり
名鉄名古屋駅から名鉄犬山線乗車岩倉駅下車 / 豊国橋へは北東へ​徒歩5分
訪問日 / 2024/04/04
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『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 

3月7日香嵐渓カタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました
今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載します

まず上の地図をご覧いただきます
左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります
国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道脇街道として尾張三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした
当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました
物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります
西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されています
それらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません

左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれています
この路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない

その終着駅がここ西中金駅
香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました
現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています
紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです

国道から見た駅舎全景
現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです

改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です
内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました

登録有形文化財
名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム
西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅
足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫
駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定
昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった
平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている

駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップ
かつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです
駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありました

プラットホーム
線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはない
ここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけます

プラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め
線路の上を西に進み参道に向かいます

国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め
社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します
古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか

今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています
線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています

右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの
寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする

鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています
後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う
境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう

境内全景
右から手水舎、社殿、忠魂碑

木造四つ脚切妻屋根の手水舎

手水鉢の龍
三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている

拝殿正面全景
一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの

拝殿左から社殿全景
拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある

拝殿前の狛犬(近年未確認)

拝殿妻壁の額は「岩倉神社」
人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます
岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった
大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった

因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明
ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません

拝殿から中門の眺め
中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです

本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め

祭文殿から本殿の眺め

本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています
右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社豊川稲荷
一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます

最上段の岩倉神社本殿
一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています
鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです

本殿左の忠魂碑

社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台
間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います
現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われています
この舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます
材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかり
この長い桁を1本の無垢材が支えている

その中央に「農村舞台」の額
この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています

豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」
「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立
間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です
舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です
昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた
以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった
平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」

文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです

舞台内部
長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている

昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスター
このあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました
南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台
毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです

境内から社頭の国道の眺め
結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れます

まもなく終点西中金駅になります
 
名鉄三河線旧西中金駅駅舎
所在地 / 豊田市中金町前田

岩倉神社
創建 / 不明
祭神 / 伊弉諾尊伊弉册尊
境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷秋葉社、蚕霊社
例祭 / 10月第2日曜日

氏子地域 / 豊田市中金町

所在地 / 豊田市中金町平古782

岩倉神社農村舞台
建立 / 文化5年(1808)
所在地 / 岩倉神社境内
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​約50分
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