『稲荷神社』名古屋市港区辰巳町

熱田区千年2丁目の八幡社から東海通に出て、西の​東海通交差点方向に1.2㌔約20分
港区辰巳町の稲荷神社へ
今日の神社巡りも、昼に大宝二丁目でかみさんと合流予定なので、これが最後の訪問地になりそうです

稲荷神社は東海通の南側の辰巳町30に位置し、小学校や大きなスーパーなどがある住宅地に社頭があります

稲荷神社社頭から境内の眺め
社頭右に「稲荷神社」社標があり、左右に案内板が立てられています

社頭左の祭儀予定、読めそうで読めない

右側の稲荷社解説
 祭神は、倉稲魂神猿田彦命、大宮女命
享和元年(1801)、津金文左衛門胤臣が熱田前新田を干拓し、各地から農民を募り耕作に従事させた
 新田を荒子川以西を西ノ割、中川以東を東ノ割、二つの川の間を中ノ割に区分、各割毎に氏神を祀った
東ノ割の氏神が当社
 秋の例祭(10月第三日曜日)には、現在も辰巳・中ノ組・西ノ組の三台の神楽が町を練り歩く

もともとは現在の東海通り交差点南東角付近に鎮座していました
 平成17年に道路拡張に伴いこの地に移転新築したようです
因みに西ノ割の氏神は善進神明社(港区善進町4)、中ノ割の氏神龍神社(港区本宮町3-2)
 地図を見るとなるほどと頷ける

津金文左衛門は、享保12年(1727)に現在の名古屋市東区平田町に生まれ、寛政3年(1791)熱田奉行兼船奉行となり、新たな土地を開拓することで、当時の藩の財源と農民の生活の糧を得ることができる新田開発に乗り出し、広大な熱田前新田を開拓しました

上は弘化4年(1847)に描かれた熱田前新田の絵図
右側の中川通御留川から右が東ノ割、北側に神明は描かれていますが稲荷としては記されていません
さてさて、新田に割り振られたイからタまでのどこに稲荷神社が位置するものか

鳥居から拝殿の眺め
入母屋妻入りの木造で木の色合いが綺麗な拝殿
手前に常夜灯と陰に隠れていますが一対の狛犬がいます
左の建物は社務所になります

境内右隅に周囲の寄進物と比べ年代が古そうな御宮培?の石標
今こうして改めて見ると、左側面に寄進年が刻まれていたようです
こちらに遷座する以前のものをこちらに持ってきたのかも

境内右の手水舎

二つの手水鉢が置かれ、澄んだ清水を湛えていた
右の手水鉢は盃状穴が見られ、こちらも遷座以前から使われていたものを持ってきたと思われます
盃状穴信仰の起源は古く縄文時代からとも云われ、再生や魔除けを祈願し寄進物に何度も〃石を叩きつけ
結果こうした凹みが出来上がります
時代を越えた多くの人々の願いというか、思いが凹みに込められています
こうした信仰は江戸時代から昭和に入ってからも続いたようです
今のご時世これをやっていると器物損壊になるんだろうなぁ

社殿全景
拝殿後方の渡殿の先は、ひと際高く石垣が積まれた本殿域があり、そこには常夜灯と狛犬の姿があります

こちらは拝殿前の狛犬
やや頭でっかちで肉付きの良い姿、寄進年は見ていません

本殿域
渡殿の両脇に三対の常夜灯と本殿を守護する狛犬が安置されています

随分色白の狛犬、少し陽に当たった方が健康的かも
こちらも寄進年は見ていません

本殿域は狛狐と本殿両脇に二社祀られている

ここまで稲荷感がなかったが、漸く稲荷の実感が湧いてくる

流造の稲荷神社本殿と両脇の社、残念ながら社名札はなかった
祭神は稲荷三座倉稲魂神猿田彦命、大宮女命

流造の本殿
脇障子などには細かな彫が施されています

波限神社の参拝が10:00、4社目の稲荷社参拝を終えた時間が11:40
大宝二丁目で12:00にかみさんと待ち合わせたが残り20分、東海通の西側にも廻りたかったがまたの機会にしよう
東海通りから地下鉄に乗り急ぎ向かう、中華ランチに間に合うか

稲荷神社
創建 / 享和元年(1801)
祭神 / 倉稲魂神猿田彦命、大宮女命
境内社 / 不明社2社
参拝日 / 2024/02/17
所在地 / 名古屋市港区辰巳町30-11
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千年2八幡社から稲荷社 / 東海通りを​東海通交差点方向に1.2㌔約20分

中国四川料理 錦城本店 日比野
お昼のランチメニュー「ハーフミニセット」

真っ黒な肉味噌と真っ赤なラー油がマッチする担々麺に麻婆豆腐、エビチリとサラダ
これとは別におひつで提供される御飯に杏仁豆腐のデザートが付いて1300円とリーズナブル
全体的に濃い目の味付けなので、御飯やビールがすすむこと
ミニセットとは言え、歳を考えると食べ過ぎ、満足のランチでした
所在地 / 名古屋市熱田区一番1-5-12 嶋田ビル1F

さてとお腹も満たされたのでボランティア説明会に行くとするか

『八幡神社』名古屋市熱田区千年2

千年1丁目の八幡神社から旧東海道を南に進み新幹線の高架を過ぎ暫くすると千年2丁目の八幡神社の社頭に至ります
所要時間は徒歩10分程

千年2丁目に鎮座する八幡神社の社地全景
道路沿いにほゞ東向きに社頭を構えます

社頭全景
正面に石造明神鳥居と右側に象形文字で書いたかのように八幡神社の社標がある
社標の文字は鳩をモチーフにして書かれ、少し離れて見ると違和感なく読めてしまう

鳥居の左に八幡神社祭礼の案内板

社頭左の開拓記念碑
碑文は確認しなかったが、この辺りは潮の満ち引きで干潟が現れ、その間に堤を築きながら人と自然が陣取り合戦の様に農地を広げてきた場所です
それに伴い堤は沖に伸び、河口も遠のいていった

鳥居から境内の眺め、正面に石造番塀を構えています

鳥居の額は八幡神社で八は鳩を意識した書体

境内右の全景
正面に忠魂碑があり、常夜灯、本殿末社造営碑、八幡神社由緒が纏められています

千年八幡神社由緒
御祭神 誉田天皇(応神天皇)
境内神社 
多度社 御祭神 天津日子根比命、天目一筒命
秋葉社 御祭神 迦具土
由緒
当神社は もと尾張徳川公の下屋敷の南庭に鎮座 歴代藩主の崇敬が厚かったが天保8年8月11日熱田築地前新開の総鎮守 また熱田全新田の丑寅(北東)の鎮とし 現在地より南方約20間(約36㍍)の処に社殿を建立し 徳川家よりの多くの宝物と共に遷される

安政元年11月 安政地震起こり社殿等倒壊するが有志により復興
安政2年8月 暴風雨の為全面入潮被害多し
万延元年4月 社殿改築遷座を行う
同 5月 烈風暴雨襲い南堤の崩壊により一面に海水氾濫し宝物什器類赴く流失
明治5年7月 村社に列せらる
明治6年9月 再度大暴風雨に襲われた為遂に現在地に遷座
明治18年5月 本殿末社の御造営を行い遷座の式を行う
明治24年10月 濃尾地震により多大の被害あり
明治29年 本殿改築
明治34年 拝殿修復
大正12年 本殿御造営し遷宮式を行う
昭和10年9月 神饌幣帛料供進神社に指定される
同 10月 本殿・渡殿其の他附属建物に至るまで面目を一新し正遷座の厳儀を執行
昭和20年6月 戦災により壊滅
昭和34年9月 伊勢湾台風により損壊
昭和35年10月 本殿御造営
昭和54年5月 本殿末社殿御造替祝詞殿拝殿を再建し正遷座の式を挙行

名古屋市史の八幡神社の記述は当社由緒と同じ内容でした、また愛知県神社庁からも見ましたが内容は神社由緒の足元にも及びもしないいつもの内容

上は八幡社(千年1丁目)で使用した舩方新田と熱田築地前新開絵図
右上に山崎川が描かれており、現在の地図と照らし合わせると、位置的には中央の氏神は千年2の八幡社を示しているのかもしれません
因みに熱田築地前新開の絵図には社は描かれていなかった

現在の道路と照らして合わないのも明治6年に遷っているからだろう
ここから先は由緒を尊重して先に進めよう

さて、由緒にある下屋敷とは、現在の名古屋市東区葵1丁目に残る下屋敷跡を指しており
延宝7年(1679)尾張藩2代藩主徳川光友が築いた屋敷とされ、6万4千坪の広大な敷地に回遊式庭園を持つていたとされます
簡単に6万4千坪と云われても庶民には全く現実味の無い広さ
昔の車のカタログには性能をアピールするため0から400㍍の走行時間を測定したゼロヨンなる表示がされていた
取り締まりの心配のなく、自分の庭でゼロヨンを試すことができた広さだろう
その私邸にあった神社を新田の鎮守として現在の鎮座地から少し南の鬼門に遷座させたという
現在の千年水処理センターあたりと思われます

境内右の百度

境内左に手水舎

手水鉢には天保元号が刻まれています、その下は…12年(1842)と読めるような…

境内左に作良(さくら)堤の石標と境内社

先の絵図にある熱田築地前新開、文久元年(1861)に作良新田に改称され、新田を護っていた堤がこのあたりにあったと云う事でしょう
作良新田は後に舩方新田と合併し千年となりますが、名の由来が当時は一帯に鶴が生息していたそうで、鶴は千年、亀は万年から引用し千年になったそうです

この板宮造りの社、社名札がなく詳細は分かりません
奥の石灯籠を見ていないので、竿に答えが刻まれているかも知れません

八幡神社社殿全景
コンクリート造の入母屋妻入り拝殿で奥に渡殿と繋がっています
大棟の鬼や軒丸瓦、破風飾りには橘の紋が入ります

拝殿前を守護する狛犬、親の背にやんちゃな子供の姿があります
寄進年は見忘れました

拝殿額には「千年八幡神社」で熱田神宮宮司による揮毫
根拠はないけれど千年と付くだけに、先に掲載した千年1の八幡神社はこちらから分祀されたものかもしれません

ここにも橘紋
樽酒かぁ、説明会終えたらかみさん誘って一杯ひっかけて帰るかぁ

拝殿から本殿域の眺め
柱の陰に隠れていますが、本殿域手前に一対の狛犬と本殿両脇に社が祀られています

隠れていた狛犬は年代不明ですが、体の黒ずみや意匠などから、拝殿正面の面々よりキャリアがありそうです

本殿と境内社
大きな社が八幡神社で、左右の社が多度社、秋葉社と思われます
何れも一間社流造で、八幡神社本殿は脇障子をはじめ桁隠し、木鼻などら彫が施され、大棟には金色の橘の紋が施されています
幾度も越水や災害を受けながら、氏子達に支えられ今も鬼門を護る千年2丁目の八幡社
スッキリして明るい神社でした

八幡神社
創建 / 天保8年(1837)
祭神 / 誉田天皇(応神天皇)
境内社 / 多度社、秋葉社、不明社

参拝日 / 2024/02/17
所在地 / 名古屋市熱田区千年2-31-9
千年1八幡神社から千年2八幡社徒歩ルート / ​旧東海道を南下徒歩約10分
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 ・『八幡神社』名古屋市熱田区千年1
 ・『波限神社』名古屋市熱田区

『八幡神社』名古屋市熱田区千年1

波限神社から​​東の国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱
 熱田区千年1丁目に鎮座する八幡神社の社頭が左に見えてくる

左に鳥居の姿がある、道は緩やかに上り、その先で堀川堤で突き当りとなり、堤の上に立ち並ぶ住宅の先は堀川が流れている
 白鳥橋から下流の堀川右岸は1676年に作られた南北に長い船方新田が広がっていました
名が示す様に、海運業を営む船頭や船の補修を生業とするものが多く居住したと云われます

 1876年船方新田は作倉新田と合併し千年村字船方になり、その後も合併を繰り返し現在の千年1丁目や千年2丁目に編入されていったようです

波限神社から八幡神社へ来る途中で船方の名が付く交差点や公園を見かけますが、船方新田の元々の位置は堀川右岸沿いの三角屋根が連なる工場の辺りに相当するようです

最初に書きますが、幾つかの地史に目を通しましたが、神社の記述は見付けられず、境内にも由緒に繋がる碑はなく、由来や創建など分からないので地図から見ていくことにしました
 上は明治24年頃の千年1の八幡神社鎮座地とほゞ現在の地図を見ています

当時は現在の大瀬子橋はなく、大瀬子渡しで対岸に渡っていました、ここに橋が架けられるのは明治42年(1909)のことです
 左の地図で、大瀬子渡しに続く赤い道筋は旧東海道で、そこから少し東に入った辺りが神社の鎮座です
明治24年の地図には八幡神社の鎮座地に鳥居の印は見られず、昭和43年(1968)に忽然と鳥居が現れます
 これを持って昭和の創建とはなりません

その理由の一つに、境内寄進物の幾つかに大正の元号が見られることから、規模はともかく大正時代、又はそれ以前から鎮座している事になります
 創建は地史の編纂が進む江戸後期以降、或いは明治に入ってからなのかもしれません

上は年代は不明ですが、船方新田之図になります
 堀川と精進川(新堀川)が交わり熱田湊や船方新田が描かれています
新田北側に「御除地十一丁歩氏神」と中央に「御除地五畝卜氏神」の文字が見えます
 この二社がどこを指すものか、想像を膨らませてみる
北側の氏神は堀川に面しており、先に掲載した波限神社の遷座前の鎮座地、中央が当神社ではないだろうか
 ただ、写真では切れていますがすぐ下に山崎川が描かれており千年2丁目の八幡神社の可能性もあります
それでは境内へ

社頭西側から見る境内

 南南西を向いて社頭を構え、石の明神鳥居とすぐ先に拝殿が建てられています

社頭正面の眺め
 社頭に社標は見られず、壁際に二対の石燈籠がある

鳥居の額は八幡神社、拝殿の鬼には八幡社の名が入っています

境内右側に置かれた手水鉢(寄進年未確認)

境内から社殿全景の眺め
 入母屋妻入りの二段垂木で梁間・桁行三間の四方吹き抜け拝殿で破風飾りに橘の紋が入る
拝殿と本殿の間に一対の狛犬の姿がある

拝殿前から本殿の眺め、左の建物は八幡神社社務所

拝殿から眺める本殿
 石垣で高く積まれた本殿域に本殿の他に両脇に二社祀られているようです

本殿域と狛犬
 この辺りは古くから⽊曽の山奥で切り出された木曽材を⽊曽川を使い、桑名を経て堀川上流に廻漕し名古屋城築城部材として供給した事から、築城後もこの地方で産出された木材の一大集散地となり堀川沿いにはそうした企業が多かった
狛犬の寄進者もそうした団体名のものが見られます

地図上では昭和に入って忽然と記されていた八幡社ですが、この狛犬大正13年に寄進されたもの

本殿域全景
 中央の一間社流造の八幡社、祭神は恐らく応神天皇、左右の社は社名札がなく詳細は不明

境内寄進物の元号は燈籠の竿には大正12年(1923)、狛犬の台座が大正13年(1924)
この神社の創建には堀川周辺で海運業や渡しなど営む方々が大きく寄与しているようです

拝殿から社頭の眺め
 正面の鳥居は大正12年(1923)に寄進されたもの
なにも分からない千年1丁目の八幡社でしたが、10分程南に鎮座する千年2丁目の八幡社でなにか分かるかもしれません

八幡神社
創建 / 不明
祭神 / 応神天皇
境内社 / 不明社2社
例祭日 / 不明
所在地 / 名古屋市熱田区千年1-9-37
参拝日 / 2024/02/17
徒歩アクセス
 ・波限神社から八幡神社 / ​​国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱​​

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 ・『波限神社』名古屋市熱田区

『波限神社』名古屋市熱田区

2/17、この日は名古屋ウィメンズマラソンのボランティア説明会に朝から参加するかみさんと共に名古屋学院大学 名古屋キャンパスを訪れました
自分は午後の説明会だけなので午前中はフリータイム
と云う事で白鳥公園の南を横切る国道1号線から南の熱田区南部の神社を巡って来ました
普段名城線を主に利用するので、名港線乗り換えもあり、あまり縁のない空白地帯

名古屋キャンパスでかみさんを見送り、そこから南下する事約20分
熱田区2-45に鎮座する波限(なぎり)神社の社頭に到着
南向きに社頭を構え、鳥居の左に社標(1975)が立てられています

鎮座地は正保3年(1646)から慶安2年(1649)にかけて、尾張藩により堀川から庄内川にかけて広範囲の新田開発が行われた地域で、それにより得られた耕地を東から西にかけて33に番割された地域
ここはその一番割にあたり、現在でも番割当時の名残が町名として一部に残っています
現在は農地は姿を消し住宅や工場、ショッピングセンターが多い環境なので、波限(なぎり)神社の社叢は存在感があります

社頭から境内の眺め
左から波限神社社標、熱田史跡「まむし神様」の碑、石造神明鳥居、波限神社由緒碑があります
鳥居はこの社頭の他に境内西側にも石造神明鳥居が建てられています

かつて、まむしが多くいたことに由来する

波限神社由緒略記
「祭神:彦波限建鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎ たけうかやふきあへずのみこと) (神武天皇の父様)
例祭 10月18日
由緒
 この神社は慶長15年(1610)に加藤清正公が名古屋城を築く際、運搬船が度々遭難することを憂いて、堀川河口にあった小島に一宇を建て、日向国鵜戸神宮の御霊代を祀りました
社名は彦波限にちなんで波限神社と名付けられ、海運の守護を祈願し、深く信仰されました
 村民からの敬愛は深く、全村が神社の祐福を願い、平和で幸せな生活を営めるのは、まさに神社の守護の賜ものである
海上安全、交通安全、安産、縁結びの神として、遠方からの参拝者も多い
 小島は現在の千年船方にあり、神社は白鳥橋の旧渡船場から南方300メートルの堀川河畔にありました
昭和14年10月に愛知時計の発展拡張に伴い、現在の地に移転
しかし、昭和20年(1945)3月19日の空襲により、本殿や拝殿などの建造物はすべて焼失
 その後、時間を経て昭和49年(1974)12月にようやく復旧再建され、御本宮の鵜戸神宮(宮崎県日南市)に参宮し、御分霊を受け、昭和50年2月1日に遷座祭が行われた」

名古屋市史の社寺編
 「波限神社は南区千年字船方にあり、境内126坪あり、明治初年の勧請なり、明治35年頃改造遷宮す、今村社に列す
 祭神は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊なり、神殿、槍鳥居 大正元年建設などあり
境内神社は秋葉社 祭神は軻具土神の一所在り
 例祭は8月15日也」と記されていました

熱田区史跡散策コース概説
 「名古屋城を築城の際、加藤清正が資材海運の安全を祈って建立した
本殿は戦災で焼失 し、昭和49年に再建された」とあります
 他に愛知県神社庁に目を通すが得るものはなかった

名古屋市史と神社由緒では創建や遷座の時期が食い違っており頭の整理がつかない
 神社由緒と史跡散策コース概説では清正の下りなど符合しますが、由緒から引用しているのかもしれません
本記事では神社由緒概説を尊重し記述します

 今時、機械を多用した歩道の整備ですら、なんやかんや長い期間やっています
堀川の掘削は1610年から始まり翌年には完成したとされます
 なにもない所から短期間で掘削したものとは思えず、掘削にあたり従来の護岸の整備に石は必要だったと思われます
境内には石垣に加工しようとして楔を打ち込むため開けた屋穴の痕跡が残る岩が複数置かれています

過去の地図から鳥居の姿は確認できず、終戦(1945)直後から5年間に当地を写した航空写真から鎮座地を見て見ました
 当時は既に現在地に移転を終え、熱田空襲で被災し焼け野原になっていた頃
社叢の樹々はなく、現在の社叢はその後植えられたものと思われます
 多くの犠牲者を出した愛知時計のあった辺りでは目立つ建物は見られず、由緒による旧鎮座地は堀川右岸、愛知時計の東端になり、現在の千年プロムナード(黄色の辺り)と思われます

昭和49年12月復旧再建された社殿の多くはコンクリート造りのものが多く、写真の手水舎もそのひとつ
 そこに置かれる手水の寄進年は見忘れましたが、再建以前のものではないだろうか
後方の鳥居が社地西側の鳥居(1975)のもの

拝殿全景
 外観はシャープな印象で、梁間2間、桁行3間の四方吹き抜けのコンクリート
社殿の左に境内社の豊受稲荷大明神、右に熱田社と秋葉社の相殿が祀られています
 波限神社では神社につきものの狛犬の姿は見られなかった
境内は枯れ葉が散乱することもなく清掃が行き届いていました

拝殿内から本殿方向の眺め
 ひょっとして柱はもとは赤だったのかなぁ、壁面の色合いとは少し違うように感じます

祭神の彦波限建鸕鷀草葺不合尊の御神徳は海上安全、交通安全、安産、縁結びとのこと
 まずはこの先の安全を祈願させて頂きます
・・・2月も半ば過ぎてましたが小さな鏡餅が供えられていました

本殿右の境内社は熱田社と秋葉社相殿

板宮造りの社には二枚の社名札が掛けられていますが、文字は脱色し読み取り難かった
 名古屋市史(大正4~5)では「軻具土神の一所」とありますが二社に相違ありません
創建時期由緒概要に記されておらず、市史が編纂された当時が一社だけだったとすると、熱田社や豊受稲荷はその後に遷座したものとなります

波限神社本殿は木造の棟持柱が現れた神明造、棟には外削ぎの千木と4本の鰹木が付くもの

拝殿右から境内社と社殿の眺め

複数の赤い幟がはためく先に豊受稲荷

豊受稲荷全景
 稲荷と云えば狐ですがその姿はなく、社の前に小さな陶製の置物が置かれていました

豊受稲荷の社は一間社流造で軒唐破風が付くもので棟には外削ぎの置き千木と3本の鰹木が施され、
小さな社ながら木鼻や虹梁、蟇股など細かな彫飾りが施されています
シャープな神明造と曲線の流造、どちらも固有の美しさがあります

拝殿から社頭の眺め
そう云えば社頭の「まむし神様」由来は調べていなかったけれど、湿地が多かっただろう土地柄なのでマムシに纏わる言い伝えがあるのだのう、しかし蛇は大嫌いなので、考え出すと境内の大きな楠の枝から落ちてくるんじゃなかろうかなんで妄想が始まる
これ以上深入りしないようにしよう

波限神社
創建 / 慶長15年(1610)
祭神 / 彦波限建鸕鷀草葺不合尊
境内社 / 秋葉神社、熱田社、豊受稲荷大明神
例祭日 / 10月18日
所在地 / 名古屋市熱田区2-45-8
参拝日 / 2024/02/17
公共交通機関アクセス
 ・地下鉄名城線熱田神宮伝馬町駅​から西に1.6㌔・25分前後
 ・地下鉄名港線 ​六番町駅​から東南に1.2㌔・20分前後

春の気分も真冬に逆戻り

28日名古屋の桜の開花も宣言され
気分はいよいよ、どこか遠出にでかけてみようかな
そんな季節になってきました

寒さから休眠していた一ノ宮巡りもいよいよ活動再開
冬の間かみさんが練りに練った2024年最初の計画は往復2000㌔を越える大胆な計画
その前に車検を控えた出動回数の少ない自分の車
ご機嫌を窺うために下道を走って岐阜県土岐市の三国茶屋を訪れることにしました
朝から日常点検、タイヤの空気圧、油脂類のチェックを済ませ目的地に向いました
車はいたって順調
最初こそガソリンの水の影響でアイドリングが乱れていたがそれも落ち着き安定する
雲興寺の前を走る県道33号線の上り、下りも2トンを超える車の加速、制動に問題はなし
これなら2000㌔不安はなさそう

順調に三国茶屋に到着
名古屋から近いながら、標高が少し高いこの付近にくると一枚羽織たくなる
相変わらず落ち着いた店内、テーブルにはいろりに火が入れられていました

いつものように自然薯のとろろ汁定食と山菜の天ぷら
フキノトウの苦みが春の訪れを感じさせてくれました
みくに茶屋

所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3038-1
定休日 / 第1.3木曜・毎週金曜
営業時間 / 10時~16時(当日分の自然薯がなくなり次第終了)

 

みくに茶屋から県道13号線の山道を10分程下り、多治見にある多治見市モザイクタイルミュージアムへ向かう
この外観はTVなどでもお馴染みのもの
内部に入ったことがないので入館料310円を支払い拝観

内部は4階建て
ここ多治見市笠原町は全国一の生産量を誇るモザイクタイル発祥の地
館内はモザイクタイルのモニュメントや昔懐かしいタイルを用いた流し台や風呂などが展示されています
他にもモザイクタイルの歴史やタイルの販売もされています
写真は最上階のフロアにあるモニュメント
かみさんはこれを見たかったようで、SNSには映えた写真も載っているらしい
しかし実物を前にイメージとは違ったのか撮り倦ねていた

展示エリアにはモザイクタイルの製品展示やタイル産業の歴史が語られています
春休みを迎え、体験コーナーはタイルを用いた思い思いの作品作りに没頭する子供達で賑わっていました

多治見市モザイクタイルミュージアム
所在地 / 岐阜県多治見市笠原町2082-5
HP / https://www.mosaictile-museum.jp/
三国茶屋からここまでのルート

さてここまで来たのだから近くの神社に寄る予定でいましたが、午後から雨の予報
空もそれを予感させる雲行き
雨が降り出す前に帰りがてら最寄りの道の駅で山菜を買い求めようとミュージアムを後にする

春気分もここまで
移動の最中、快調に法定速度で直線道路を走っていたら何の予兆もなく以下の状況に陥ってしまった

フロント運転席側のタイヤが見るも無残にバースト
ホイル剥き出しとなりタイヤ交換できる駐車余地まで自走不能に陥ってしまった
行き交う車両もあり、危なくて交換作業はできないで、最寄りの交換スペースまでレッカーを依頼
「高速を使って試運転したら?」とも云われていたが、これがあるから敢えて下道を選択したが嫌な予感が的中
家を出る前に空気圧調整やタイヤの外観チェックをして問題なかったのだが…
速度超過の無謀運転をしたわけでもなく、落下物を踏んだ訳でもないのだが
高速でバーストしていればホイルもタイヤハウスも無傷で済まなかっただろう
最初見た時はそれまでの春の気分から一気に寒気がした

今時の車、特に軽などはスペアタイヤが積載されていません
仮に交換できる場所があってもなんともできません

スペアタイヤがあり、点検してもこんな結果でした
普段乗らない車でお手掛けの時は運転前点検をした方がいいでしょう

2000㌔走り出す前に新しく買い換えないと……財布の中を木枯らしが吹きすさぶ

『神明社土之宮合殿・助光城跡』中川区助光

先回掲載した前田西町の薬師堂から、西方向にある助光住宅バス停に向かう
その途中、土之宮神明社の前を通りかかり、金山行きのバスの時間を気にしていたかみさんですが、一本遅らせてもらい立ち寄らせてもらう

前田西町の薬師堂から西に2分程進むとそこは中川区助光1丁目
助光の町名は鎌倉時代から続くもので、尾張国地名考によれば地名は人の名によるものと云う
往古のこのあたりには助光氏の所有田がありその名が残ったようです

戦国時代から安土桃山時代には、現在土之宮神明社が鎮座するこの場所に、織田信長を支えた赤母衣衆の一人だった福留左近将監の居城 助光城があった場所
境内一帯が助光城の跡で、城の痕跡は見られませんが、境内の秋葉社左に「福留将監古城跡」と記された三角の石碑がそれを伝えています

境内は南北に長く、南向きに社頭を構えています
社頭右手に土之宮神明社の社標と由緒があり、一対の常夜灯とその先に神明鳥を構えています
鳥居は大正12年(1923)、社標は昭和2年(1927)に寄進されたもの

神明社土之宮合殿 由緒概要、内容は以下
「御本社 神明社土之宮合殿(通称 土之宮神明社)
境内社 秋葉神社
鎮座地 名古屋市中川区助光1丁目106番地

神明社土之宮合殿
御祭神 
 天照皇大神 
  概要 皇室の祖神、伊勢神宮主祭神で日本の神様の代表
  御神徳 国土安泰、家内安全、開運招福、農工業等全産業振興
 埴安比咩神 (埴安姫神)
  概要 火の神、男神の埴安比古神と共に祭器を司る土の神様
  御神徳 農地豊潤、肥料開発、農耕進展等五穀豊穣、陶磁器産業・鉱工業の繁栄

秋葉神社
御祭神
 迦具土神 (軻遇突地尊) 
  概要 伊邪那美命が最後に生んだ火の神、秋葉山本宮の祭神、鎮火・防火の神様
  御神徳 工業・鉱業・窯業の発展、就労安全、金運招福 

由来
創立年代 正確には不明
 尾張志の神社の項に
「神明の社助光村にあり、土宮神明と云う、文明11年9月の棟札あり」と古くより助光の氏神として尊崇あつく明治5年村社に列格する
 古書の助光城の項に
「当村土宮神明社の 右棟札に奉建立御柱一宇 大檀群助光郷 福富宮内左衛門尉光親 文明11卯閏9月8日と見えたり当所居住の人也」と記載在り
 尾張徇行記には「神明社境内年貢地三畝十八歩」とある
文明11年(1479)の干支は亥であり、卯と亥を誤って伝承したと推定される
 いずれにせよ、今から500年以上前の創立である
祭典・行事 
 春季大祭 5月第一土曜日、祈年祭 
 秋季大祭 10月第二土曜日 例祭・収穫祭」

地史をもとに分かりやすく記載されています

上は寛政期(1789~1801)に描かれた海東郡村邑全図の助光村
ほぼ中央に土之宮神明社らしき鳥居と社地を取り囲む様に水路が巡らされているのが描かれています
これを助光城の名残と捉えてもいいのかも知れない

参道から境内の眺め
左に手水舎、常夜灯とその先に狛犬、社殿と連なり
左奥に境内社秋葉社の姿がある

拝殿はコンクリート造りで四方吹き抜けのもの

社殿全景
拝殿・幣殿・覆殿と連なり本殿域は透塀で囲われています
拝殿の鬼には五三桐と破風飾りにが木瓜らしき紋が入れられています

拝殿前の狛犬は大正10年(1921)寄進のもの

拝殿内額の「土之宮神明社」は元名古屋市長を務めた杉戸清氏の揮毫

幣殿両脇の狛犬(寄進年未確認)

覆殿・幣殿ともにコンクリート造りで、神明造りの覆殿の棟には外削千木に5本の鰹木が飾られています

境内左の秋葉神社
左の三角形の石碑が「福留将監古城跡 是より西南壱丁余」、台座には「助光二村」と刻まれた碑があります
因みに一丁は約100㍍なので南西壱丁というと、現在の助光住宅バス停辺りまで城もしくは居館が広がっていた事になりますが、城については築城・廃城時期など不明な所が多く定かではないようです

板宮造りの秋葉社本殿
手前の常夜灯の竿には秋葉社の社名と昭和4年の寄進年が刻まれていた
助光集落の火伏の神として今日まで受け継がれてきた
創建時期等の詳細は不明

拝殿から社頭の眺め
正面の鳥居は大正12年(1923)寄進のものでした
偶然通りかかった神社ですが、助光城など色々と知る機会を与えてくれた古くからの神社です

さて寄り道してばかりの「ヒラメキさんぽ」でしたが、ここまで来れば助光住宅バス停も目と鼻の先だ

神明社土之宮合殿・助光城跡

創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神、埴安比咩神
境内社 / 秋葉社
参拝日 / 2024/02/14

所在地 / 名古屋市中川区助光1-160

薬師堂から土之宮神明社 / ​​西に向かい突き当りを左折、一筋目を右に進んで左側、徒歩2分程
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先回掲載した前田利家出生の地とされる速念寺から、帰途に着くため、西方向の助光住宅バス停に向かう

速念寺から南に向かい二筋目を右に向かった左に前田西 薬師堂・秋葉神社が鎮座していました
徒歩2分程、距離にして200㍍もないでしょう

前方に見えてくる入母屋瓦葺の小堂が前田西に鎮座する薬師堂・秋葉神社になります

薬師堂全景
堂前に献灯台を備え、一間の向拝が付くもので、入口の格子戸以外は板壁の堂
軒下の三方に濡縁があり、手前の献灯台には蝋燭が灯された形跡もある
季節のせいもあるだろうが境内は雑草もなく、日々手入れされているように見受けられます
周囲の街並みは建替も進み、今どきの住宅が多い街並みです
ひと昔前の古い町並みにこうした堂が佇む光景は身近にあったものです

薬師堂正面
視線を引く装飾は少なく、頭貫先端の木鼻は獅子や獏の原形になるシンプルな意匠のもの

光背の蟇股には輪宝紋が施されている
周辺には先の速念寺(天台宗から浄土真宗に改宗)の他、圓盛寺(真宗)、称円寺(真宗大谷派)の寺院が狭い範囲に鎮座しており、それらの寺と所縁がありそうです

薄暗い堂内を覗き込んで見ました(不審者そのものか)、正面に金色の厨子らしき姿が見られました
恐らく本尊の薬師如来像が安置されているのだろう
左には火焔光背を持つ不動明王像が祀られているようです
ダメもとでレンズを向けで見ましたが、結果はやはり載せれるものではなかった

大棟の鬼には「薬」の文字が入る
この薬師堂の建立時期がいつ頃なのか新旧地図・村絵図などから探しましたが、建立時期につながるものに出逢うことはできなかった

薬師堂の左に鎮座する秋葉神社
比較的綺麗な石で作られた境内には年輪を重ねた楠とイチョウの樹が植えられている
何れも上は押さえられ、枝もバッサリと剪定されているが太い主幹の勢いは衰える事はない
いつから祀られていたものか、寛政期(1789~1801)に作られた愛知郡村邑全図の前田・助光・伏屋村絵図からは特定できず、地史に目を通していないので創建は定かではありません
確かなのは手前の幟立てが昭和56年(1981)寄進のものでした

秋葉神社本殿
板宮造りで、本殿域の玉垣も昭和56年(1981)に寄進されたものでした
参拝当日気付かなかったが、本殿域の右奥に古い灯篭があったようで、こうして見ると寄進年は昭和よりもう少し古いのかもしれません

前田西 薬師堂・秋葉神社
薬師堂
創建 / 不明
本尊 / 薬師如来
秋葉神社

創建 / 不明
本尊 / 火之迦具土神
参拝日 / 2024/02/14

所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-1301 
速念寺から薬師堂・秋葉神社 / ​南に向かい二筋目を右に進んで左側、徒歩2分程
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