龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り庄内堤右岸に鎮座する「ヒラメキさんぽ」最終チェックポイント前田速念寺を目指します
橋を渡り下りきった先で右に進むと龍瓢寺の鐘楼門に続きます
鐘楼門から境内方向の眺め
右に梅鉢紋の入った「前田速念寺」の寺標
前田利家所縁の地を巡るルートに組み込まれているだけに、利家の生誕地(諸説あり)とされ、前田家と所縁のある寺
かつてこの地には前田城があった場所として城址碑も建てられています
寺標の左側面には「前田利家郷御遺跡」とも刻まれています
庄内川右岸のこの辺りは中川区前田西町になり、古くは尾張国海東郡前田村で寺号にも前田の名が入るように前田家の領地だったのが伝わってきます
前田速念寺はかつて前田城が築城され、前田氏発祥の地
城の築城時期や築城主など詳らかになっていないようですが、城は庄内川右岸のこの地に築城された平城だったされます
現在の地図から速念寺を中心に前田城があった範囲を見ると、北は下之島公園、南は県道、西は長須賀小学校付近の範囲に広がっていたと思われます
蟹江合戦(天正12年)以降廃城となり、その後の城址に建立されたのが前田速念寺とされます
建立時期は定かではなく、一説では平安時代に遡るとも云われ、当初は天台宗の寺だったようです
その後、前田利家の叔父 前田利則が出家して意休法師と号し、寺を中興し初代住職となったと云われます
この際に天台宗から現在の真宗に改宗したようです
寛政期(1789~1801)に作られたとされる愛知郡村邑全図から前田・助光・伏屋村を見るも、天正12年(1584)に廃城となった城はともかく、意休法師が中興した寺が絵図では見つけられなかった
ここ前田城は利家(1539~1599)出生の地とされ、利家7歳のときに荒子城に移ったとされています
先に立ち寄った冨士大権現天満天神宮が鎮座する荒子城では、ここで生まれ育ったとあり
どちらにも根拠がありそうです
鐘楼門左の前田速念寺の由来
「速念寺は加賀百万石の太守前田利家公寄進になる阿弥陀如来を本尊としている
ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、 前田氏発祥の地である
利家公も前田で生まれ、 幼少にして前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したとするのが寺伝である
前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、梅鉢の紋を用いる
利家の長女幸を妻とした
利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった
また明治に建立された利家公の記念碑や、中部石川県人会の シンボル碑がある
正面から見る姿もなかなかですが、斜めから見上げる姿も烏帽子兜の趣がある
構造は主にコンクリートが多用された造りで、木の温もりが伝わる落ち着いた佇まいではないかもしれません
しかし、この前衛的な建物は前田家発祥の地、利家を輩出した前田の地を象徴するものだと感じる
当日は夕方だったため、本堂内扉は施錠されていましたが、運が良ければ内部も見られそうです
菅原道真を祖と仰ぐ前田家、赤い外扉の中央には紋梅鉢紋が入る
本堂左の半鐘
この位置からして現在使われているのか分かりません
加賀百万石の礎を築いた利家、この左側には石川県人会の石碑が建てられており、発祥の地に対する思いが伝わってきます
利家が加賀に移り、最後の前田城主の前田與十郎が没し、前田城廃城にともない利家を頼ってこの地から多くの者が加賀に移り住んだとされ、金沢にはそうした者が集まってできたであろう尾張町の地名が残ります
本堂から鐘楼門の眺め、瓦には至る所に梅の紋が入れられています
「ヒラメキさんぽ」のチェックポイントは速念寺をもって終了、各所で得られたヒントから得られた回答は「ウメバチモン」になりました
ゴールの速念寺からの帰路は、県道29号線に出て、西に少し歩いた先にある市バス「助光住宅停」から地下鉄高畑駅に戻ります
前田 速念寺
宗派 / 真宗大谷派
山号 / 岡部山
創建 / 不明
本尊 / 阿弥陀如来 本尊聖徳太子御作
境内社 / ・・・
参拝日 / 2024/02/14
所在地 / 名古屋市中川区前田西町1-904
龍潭寺から前田速念寺 / 龍瓢寺から県道29号線を西進、新前田橋を渡り右折、長須賀小学校方向の速念寺まで徒歩15分前後
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