大分県大分市『豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮』

西寒多神社から車で北西に別府方向へ25分程。
 大分市の西、二葉山(八幡柞原山)の山間に豊後國一之宮「柞原八幡宮」が鎮座します。

現在地は大きな〇で柞原八幡宮の一之鳥居はここから県道696号線を大分港に下り、海岸線沿いに延びる国道10号線の手前(小さい〇)に一之大鳥居を構え、往古は広大な社地を有していたようです。

県道696号線沿いの社頭全景。
 鬱蒼とした社叢に包まれ、入口右側には手水舎、その後方に天を突く様な大杉が聳えています。
注連縄鳥居の先から長い参道が上に続き杜に消えていきます。

長い参道の途中には日暮し門とも形容される、随所に見事な彫刻が施されている南大門が建ち、
その手前には国指定天然記念物の大楠が聳えています。

手水舎。

柞原八幡宮境内配置。
 参道は途中で二手に分かれ、右手は楼門、左手を進めば西門に繋がります。
おやじ達は矢印のルートを進むことに、理由は、楼門に至る石段が急な事もあり、上りよりは下った方が楽だろう、つまらない理由かもしれない。
 尚、参拝当日は修復工事中で社殿の大半は覆いに包まれていました。

社頭入口の由緒略記から一部抜粋。
 「豊後國一之宮 柞原八幡宮(国指定重要文化財)
御祭神 応神天皇仲哀天皇神功皇后
主な祭典 例大祭(3月15日)、夏越祭(7月14~20日)

平安時代の天長4年(827)に宇佐神宮より分霊を勧請、承和3年(836)社殿を造営。
 嘉承(1108)、敷地の四至が定められ税を免除。
仁平3年、鳥羽法皇により神領を定められた。
 元暦元年(1184)、源範頼が平家追討を祈願、頼朝や領主からの崇敬が厚かった。
嘉永3年(1850)、八幡造りの本殿を再建。」

靑もみじの下、石段を上り始める。

石段が続く参道は所々に石畳が現れる。
 紅葉や新緑の時期には見応えがありそうです。
先に朱の鳥居が見えて来た、社殿も近いか?

参道沿いに立つ燈籠の寄進年は天保だけに留まらない。

菊の紋が施された朱の明神鳥居。

社殿かと思い込んでいた建物は南大門。
 この辺りで参道のほゞ中程、社殿はまだ見えても来ない。

南大門の左に聳える大楠、柞原八幡宮の国指定天然記念物で、空に向かって堂々と聳えるその姿に自然への畏敬の念を抱く。
 樹齢三千年とも云われ、幹回りは約19㍍、樹高は約30㍍の自生の樹で、幹には空洞も出来ている。
柞原八幡宮の広大な社叢にはこうした巨樹が聳え、昔の自然林の姿を留めています。

南大門。
 別名日暮し門と呼ばれ、元和9年(1623)に再建され、こうしてみる門は明治3年(1870)の建立のもの。
参道に対し門が大きく側面の姿は見られなかったが、銅板葺の入母屋屋根で前後に大きな唐破風向拝が付けられている。どっしりとして趣のある門です。

向拝の額は「由原八幡宮」と書かれていた、今の柞原の表記は明治に入ってからとされ、明治に再建された当時の呼称の額が掲げられている。
 以前は由原宮、八幡由原宮、賀来社などと呼ばれていたという。

一見派手さはないけれど、木組みや天井、壁面に施された聖人や龍、花、鳥などの彫りには、当時の匠の拘りが見えてくる。

門の内側にも手の込んだ彫が、一之宮の入口を飾るだけに職人の拘りが込められているのだろう。

裏側から見る南大門。
 放射状に並ぶ垂木や斗供が美しい、日暮し門の名は強ち間違ってはいない。

二葉山稲荷神社。
 南大門を過ぎた参道左に赤い鳥居を構え、参道の奥の杜の中に社が祀られている。

今から500年ほど前に伏見稲荷神社から分霊を勧請したもので、創建当時から霊験あらたかで、開運の守護神として崇敬されていると云います。
 以前は本殿域の西宝殿に祀られていたものをこちらに遷座したものと云う。

門をくぐると参道は燈籠の前から二手に分かれ、右は楼門へ、左は神門へと続いています。
 急な上りの石段を気にしなければ右に進むと、参道脇には古い灯篭が立ち並んでいます。
長い参道が続いていますが左を選択します。

参道左側の宝物館。
 これが見えてくれば社殿は目の前。
長い歴史を誇るだけに各時代の有力者の寄進物が数多く残り、それら国指定、県指定の文化財の他に神仏混淆の名残を留める仏像などが収蔵されている。

宝物館の前の石段を上ると左側が社務所、右側が西門が現れる。

西門全景。
 門から先に見える建物は申殿。
朱に彩られたこの門、ただ色彩が目立つだけではなく、その内側も見上げてみるといいでしょう。
 四方の梁の間には細部まで彫られた透彫りや蟇股の彫刻など細かな仕事が施され、いずれも彩色されていた名残が残る。
神殿域は東西に長く、この西門と東門、南側に楼門を持ち、それらは廻廊や塀に繋がり社殿を囲んでいます。

楼門。
 楼門には左右に廻廊が繋がり、楼門、拝殿、申殿が屋根続き繋がっています。
参拝者は靴を脱いで廻廊に上がり、拝殿前まで進み正座して参拝する事になります。
 その先の本殿域は参拝当日修復作業の真っ最中、残念ながら本殿方向の絵はありません。
特徴のある本殿と左右の東西宝殿や八王子社などが祀られているようですが、ネットに遮られ姿が見られなかったのはとても残念。
 いつか遮るものの無い姿を見たいものだ。
因みに本殿の建立は嘉永3年(1850)と云われ、本殿は創建以降33年毎に建替され続け、嘉永3年(1850)以降は建替はされなくなり、明治、昭和と一部補修が行われて来たもので、二棟が前後に連結された八幡造り。
 八王子社は明和7(1770)の建築とされる一間社流造。
東宝殿、西宝殿は何れも宝暦6年(1756)とされ、桁行三間で中央に向拝を持つもののようです。

申殿と右の拝殿。

 では下足を脱ぎ拝殿から参拝。

東廻廊から拝殿、西廻廊の眺め。

廻廊には寄進年すら読み取れない奉納額が掛けられている、何れも脱色が著しく全体像が分からない。

拝殿から申殿、本殿方向。
 柞原八幡宮の始まりは天長4年(827)、延暦寺の金亀和尚が宇佐神宮の参篭に神告を蒙り、柞原山に勧請したのが創設起源とされる。
拝殿先には巨大な天狗の面が掛けられていた。

 神社と天狗の謂れはよく分からなかったが、神社を包む深い社叢には天狗が住み着いていたとしても不思議ではないか。
天狗の鋭い視線を受けながら参拝させて頂く。

 今時は眼に見えぬものに恐れ、自らを戒めても、拳を振り上げた不動明王や鋭い視線を送る天狗の面如きでは自らを戒める気持ちにはならないかも知れない。
なまはげに恐れ慄く純粋な気持ちは失せ「誰が入っているの?」今どきの子供はいいそうだ。
 怖い物の対象が昔と今では随分変っているように思う。

東廻廊から見る東門。
 ここもまた修復作業中、西門同様手の込んだ意匠が施されているのだろう。

社殿南側の楼門と廻廊。
 そこから南は急な斜面に石段で繋がり、目の前の楼門は仰ぎ見る様に聳え、木漏れ陽に照らされた緑の樹々と朱の色合いが印象に残る。

 社殿の全景は杜と斜面が迫り、捉え難い神社だった。

楼門前から下の眺め、足元の石段は短いながら斜度があり、石畳や石段は苔むし油断できない。
 大分まで来て転げ落ち「おお痛い」では洒落にもならない。

豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮
創建 / 天長4年(827)
祭神 / 応神天皇仲哀天皇神功皇后
境内社 / 二葉山稲荷神社他
参拝日 / 2022/10/26
所在地 / 大分県大分市上八幡三組
西寒多神社から柞原八幡宮 / ​約25分前後
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