大山祇神社・白龍稲荷神社。
鳥羽を見下ろす鳥羽城跡、その西山麗に鎮座するのが大山祇神社・白龍稲荷神社。
城山公園から西に下ってくと境内に出ることもできます。

訪れたのは昨年の12月15日、折しもこの時期の境内は落葉したイチョウの葉が境内を黄一色に染め美しい光景を見せていた。
社頭は鳥羽城址の西山麗にあり、冒頭書いたように城山公園からも境内に辿り着ける。
写真は社頭の石の神明鳥居、ここから緩やかな石段が境内に続きます。
境内は右から大漁稲荷大明神、不明社、左の覆殿が大山祇神社の伽藍。
手水舎は境内右にあり、小さな龍もいる。
石段前で神社を守護する狛犬は個性的なフォルムのものです。
寄進年度は見忘れましたが、表面は随分風化が見られ貫禄すら感じさせる佇まいの狛犬です。
比較的最近建替えられているのでしょう、傷みもなく綺麗な外観です。
大山祇神社の前身は178年前「社宮司」に遡るようで神社には当時の扁額が残るそうです。
三重県神社庁による「大山祇神社」の由緒は以下。
「文禄3年(1594)約四百有余年前、九鬼嘉隆が築城の際、石垣が何度も崩れたので、元城山に斎祀されていた大山祇神を現在地に移したら石垣も崩れず鳥羽城(二色城)が出来上がったとの申し伝えがある。
古文書、記録等はおよそ慶長年間(1600年頃)の神社の大火の際に消失されたものといわれている。
明治6年3月に村社に定められ、同39年12月神饌、幣帛、供進指定社となる。」
社頭は鳥羽城址の西山麗にあり、冒頭書いたように城山公園からも境内に辿り着ける。
写真は社頭の石の神明鳥居、ここから緩やかな石段が境内に続きます。

境内は右から大漁稲荷大明神、不明社、左の覆殿が大山祇神社の伽藍。

手水舎は境内右にあり、小さな龍もいる。

石段前で神社を守護する狛犬は個性的なフォルムのものです。

寄進年度は見忘れましたが、表面は随分風化が見られ貫禄すら感じさせる佇まいの狛犬です。

比較的最近建替えられているのでしょう、傷みもなく綺麗な外観です。

大山祇神社の前身は178年前「社宮司」に遡るようで神社には当時の扁額が残るそうです。
三重県神社庁による「大山祇神社」の由緒は以下。
「文禄3年(1594)約四百有余年前、九鬼嘉隆が築城の際、石垣が何度も崩れたので、元城山に斎祀されていた大山祇神を現在地に移したら石垣も崩れず鳥羽城(二色城)が出来上がったとの申し伝えがある。
古文書、記録等はおよそ慶長年間(1600年頃)の神社の大火の際に消失されたものといわれている。
明治6年3月に村社に定められ、同39年12月神饌、幣帛、供進指定社となる。」
更には下のようにも記されていた。
氏子は旧鳥羽町の九町の内、中之郷、錦町、横町、藤の郷の四町の氏神様であり、例祭はこの四町が輪番で、各町4年に一度、当番町として奉仕している。
四町の内、中之郷、横町、藤之郷が「獅子と天狗の舞」を奉納し、錦町は「神輿練りこみ」を神祭とし社前に奉納し、各町内を巡行する。
氏子、町内の祭りとしてだけでなく「鳥羽まつり」として多くの人で賑わっている」
とも書かれており、鳥羽町内から親しまれる神社の様です。

文禄3年(1594)九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に天守から左斜め下辺りに神社を遷座したとされ、しかし築城は石垣が何度も崩れるなど難航したと伝わります。
町民が「獅子と天狗の舞」を奉納した所、無事に城が完成したと伝わり、以来400年以上を経ても奉納の春祭りは受け継がれているそうです。
左の石灯籠の寄進年は明治5年(1872)と刻まれています。
大漁稲荷大明神について調べて見ましたが詳細は分かりませんでした。
こちらも社名札がなく詳細は分からなかった。
町民が「獅子と天狗の舞」を奉納した所、無事に城が完成したと伝わり、以来400年以上を経ても奉納の春祭りは受け継がれているそうです。


左の石灯籠の寄進年は明治5年(1872)と刻まれています。


大漁稲荷大明神について調べて見ましたが詳細は分かりませんでした。

こちらも社名札がなく詳細は分からなかった。

参拝日 / 2022/12/15
所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-4-15