広島東照宮 (広島の玄関口広島駅から近い二葉山の麓に鎮座する)

広島市東区にあり、東照大権現(徳川家康)をお祀りする広島東照宮
JR広島駅の北口から徒歩10分程の二葉山の麓に鎮座し、広島の玄関口を代表するのが広島東照宮かもしれません。

江戸時代の慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により建立しました 。
広島城の鬼門(北東)に位置する二葉山の山麓に鎮座しており、城下町広島の総鎮守として信仰されてきました。

社頭左に由緒書きがあり、以下内容です。

「広島東照宮
広島二代藩主浅野光晟(みつあきら)は、生母振姫が徳川家康公の三女であったことから東照宮の造営に熱心で、家康公没後三十三年の慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麗に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。
昭和20年(1945)8月原爆により本殿・拝殿を焼失しましたが、御神体は駐屯していた兵士達により運び出され難を逃れた。
また焼失を免れた唐門、翼廊、本地堂、手水舎などは、370年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」

境内には、御産稲荷社、祖霊社、福禄寿の像、二葉山の山麗から頂にかけて、東照宮境内社の金光稲荷社や奥宮が鎮座する広い神域を持っています。

慶安元年(1648)、三次藩主浅野長春寄進の鳥居。

原爆投下により広島、長崎は人類史上最も悲惨な経験をし、人も都市も焼き尽くされ、それは今も終わる事がない。

今年で78年を迎え、被爆地広島、長崎の平和宣言の趣旨に対し、今だ一つになれず終末時計は進むばかりで後退の兆しはない。
原爆ドームはそれを悟らせる遺構であるように広島東照宮もそのひとつ。

広島東照宮は、1945年8月6日に原子爆弾が投下された際に全壊を免れた被爆建物の一つです 。
境内には被爆者を慰霊する塔や碑が建てられており、平和への願いが込められています。
この鳥居も原爆投下による甚大な被害から免れたもの。

鳥居から見る唐門と左右の翼廊。
伽藍の中で被爆による焼失を免れた唐門、翼廊、手水舎、本地堂、神輿などは広島市の指定重要有形文化財となっています。
被爆当時、境内に多数の避難者や救護者が身を寄せ合ったとされます、広島出身の詩人で小説家だった原 民喜もその一人で、その経験を後の作品の中に残しています。

被爆前のこの参道の両脇には桜並木が続き、広島城下唯一の桜の名所(桜の馬場)として知られたそうで、社頭南の二葉の里第二公園の入口には当時の様子を伝える「復活記念碑」が建てられています。

唐門。

日光東照宮の陽明門に相当する一間一戸向唐門で、唐破風の下に「長尾山」の額が掲げられています。
呆れるほど絢爛豪華な陽明門と比較するのはどうかと思いますが、家康を祀るだけに意匠には手が掛けられ、最近訪れた各地の東照宮の中では威厳のある姿のものです。

唐門表。
欄間に鶴、破風板には花文様の彫飾りが施されています。

唐門裏。
こちらは色彩豊かに彩られた鳳凰?だろうか。

唐門から眺める広島駅。

70年は草木も生えないとも云われた広島は今も発展を続けています。

門の左右の翼廊。

原爆投下の爆風を受け、全体が北東側に傾いた翼廊は、原爆による爆風、火災にも耐え、昭和23年(1948)に保存修理を受け創建当時の姿を留めています。
翼廊は左右10間ずつ建てられた切妻のもので、戦後桟瓦に葺き替えられていたものを平成20年(2008)に本瓦に葺き替えられ、この姿が創建当初の姿だという。

東照宮の伽藍配置。
ほゞ南を向いて正面に翼廊と唐門、その先に拝殿、幣殿、本殿と並び、境内左に手水舎、御供所があり、境内右側には現在修復作業中の本地堂、本殿東側に神輿舎、本殿後方に境内社が主な伽藍配置。

手水舎。
切妻瓦葺で慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により造営。
総漆塗りで蟇股の月と兎など桃山時代の様式を伝え、昭和64年(1989)に解体修理が施された。
手水鉢は慶安元年と刻まれています。

ここまでは葵の紋より巴紋を見ることが多かったけれど、境内に入ると葵の紋が目に付くようになります。

御供所。
手水舎の後方に建つ入母屋瓦葺のこの建物は、神に供える神饌を整える厨房として使われ、全国の東照宮にあって独立した御供所が現存するのは多くはない。
現在の建物は原爆投下50周年記念事業として東照宮350周年記念として平成9年(1997)に解体修理を受けた。

本地道。
境内右側に建つ、慶安元年(1648)に造営された方形の瓦葺で、家康の本持仏薬師如来を祀り神仏習合の名残を伝える建造部。
総漆塗りで極彩色の蟇股などが見事らしいが、昭和59年(1984)に復元補修を受け、訪れた時も復元修理を受けており全容は見られなかった。この修復工事は2024年3月完了を目指しているようです。

拝殿全景。
現在の建物は原爆投下により焼失し、昭和40年(1965)に350年式年大祭を記念し再建されたもの。
入母屋銅板葺で唐破風が施され、焼失前は檜皮葺の社殿だったようです。

金色に輝く葵の紋。

拝殿額は「廣島 東照宮」、徳川宗徳(1897~1989)の揮毫によるもの。

本殿は銅板葺の一間社流造で唐破風付きのもので棟には外削ぎの千木が付く。
現在の本殿は昭和59年(1984)再建のもので、被爆当時は境内に陸軍第二総軍通信隊が駐在しており、消火活動により御神体だけは焼失を免れたと言います。

本殿右側に社が祀られていますが栞などに目を通しても社名は分からず、ここでは不明社とします。
社後方の松は「原爆ゆかりの赤松」

三本の鰹木と外削ぎの置き千木が施された不明社と東照宮本殿。

原爆ゆかりの赤松。

原爆投下後本殿、拝殿、瑞垣は焼失、70年は草木も生えないとされたが、翌春に本殿の焼け跡から数本の赤松が自然発芽し移植したものが本殿域で今も成長を続けている。
本殿は彩色された手の込んだ彫が施され、脇障子にも彫が見えます。

神輿庫。
東照宮が創建された慶安頃(1648~51)の製作とされる神輿を保管。
原爆投下による焼失から免れた神輿の重量は800㌔と言われ、50人で担ぐとされそれを保管する為の建物です。

本殿から幣殿、拝殿方向の眺め。

御産稲荷社
祭神の徳川家康は寅年の天文11年(1542)の寅の日、寅の刻に愛知の岡崎城で誕生したとされ、母於大の方は家康を身ごもると無事に生まれて立派な武将になる事を薬師如来に祈願されたと言う。
そのことから東照宮にお参りすると安産のご利益があると伝わるようになり、「お産さん」とも称されるそうです。

傍らにある亥子石と花手水。
後方の亥子石と彫られた石標の上に丸い石が乗せられており、それを撫でる事で小授、安産、子育、豊作、安栄の御利益が得られるという。

左の覆屋には福禄寿が安置されています。
円満な人格、誰からも信頼され、尊敬される徳を与えて頂け、特徴のある長い頭は慎重に物事を考え行動する事を表しており、福禄寿の福は幸福、禄は高禄、寿は長寿を指し、この三徳を兼ね備えたのが福禄寿。
二葉山山麗七福神巡りというものがあるようで、近隣の寺社を巡るコースもあるようです。

祖霊社。
祭神は大之御中主大神。
例祭3月21日、9月23日。

祖霊社付近から見る本殿。

祖霊社の左に朱の鳥居が立っており、ここを上り車道を越えた先が二葉山に鎮座する東照宮境内社の金光稲荷社と多くの奉納鳥居が立ち並ぶ奥宮に続く険しい参道は、自分には遠く厳しいものでした。

尚、御朱印は16時までとなっています。
金光稲荷社、奥宮は別途掲載します。

午前中は日本の防衛にあたる呉の艦艇や大和ミュージアムを見てきただけに、原爆の爪痕を残す広島東照宮を訪れると、諸国を纏め天下泰平をもたらした家康に変わり、世界を一つとして捉え、残り90秒となった終末時計を遅らせることが出来る現代の家康は誰なんだろうと考えさせられる。

広島東照宮
創建 / 慶安元年(1648)
祭神 / 東照大権現
境内社 / 金光稲荷神社、御産稲荷社、祖霊社など
所在地 / ​広島県広島市東区二葉の里2-1-18
広島駅から徒歩 / ​所要時間10分程
参拝日 / 2023/03/02
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