朝日神社 (名古屋市中区錦3)

9月に入り久し振りに市内中心部の神社を巡って来ました。
名古屋市中区錦3「朝日神社」
広小路通りの北に社頭を構える神社で社頭左に交番がある。

広小路の起こり
慶長20年(1615)家康により築城された名古屋城、その築城と併せ、城の南方の城下の経済発展のため基盤割を行い、400年以上を経た現在も残っています。
万治3年(1660年)の大火により、この碁盤割りの建屋をことごとく焼失し、武家屋敷にも類焼した、当時の道幅は3間(1間=約1.8㍍)と云われ、大火から学び防火帯として15間に拡幅されました、これが今の広小路通りである。
慶長15年(1610)那古野城内に鎮座していた那古野神社、東照宮は、名古屋城築城に併せて現在の地に遷座されることとなり、それに伴い氏子区域も伝馬町、宮町まで下がり、代わりに東は久屋町、武平町、南は南呉服町南伊勢町、南大津町、南鍛冶屋町、南久屋町、南武平町、大阪町、七曲町が加えられて、栄町を中心に22ケ町の産土神となった。

朝日神社は伊勢神宮神領地(御園)であった、清洲城下の朝日郷に鎮座していたとされ、名古屋城築城に伴い、慶長16年(1611)の夏、家康の請願により、正室、朝日姫の氏神である朝日神社を城下町碁盤割りの守護神として、本丸の南の現在地に移築遷座されたもので、城下町碁盤割り唯一の神社として、清洲越しの士民の崇敬をあつめた神社。

上は尾張名所図会から広小路の賑わいを描いた挿絵。
江戸時代の広小路は、町家が連なる一帯に今と変わらぬ広い通りが作られ、今以上に多くの人波が描かれています。
通りの南側には紫川と呼ばれる川が流れており、広小路から南はこの芝川に架かる橋で結ばれていた様子が描かれています。挿絵の上が入江町(南方向)で川沿いに護岸が築かれ堀川に注いでいた。

広小路通りの夜の賑わいは、毎日がお祭のように露店が居並び灯火が明るく照らし、大変な人出があり、境内も拍手の音が絶えなかったという。
それまで神社仏閣の境内で行なわれてきた、小屋掛けの芝居や見せ物等の興行、露店も拡幅された広小路通りで行なうことを奨励したこともあり、広小路通りは人の集まる一大繁華街となり、朝日神社の門前町として賑わった。

朝日神社社頭。
広小路の歩道沿いに常夜灯、右に朝日神社社号標が立ち、明治35年(1902)寄進の神明鳥居を構えます。
鳥居の左には蕃塀が横並びに建てられています。
普段見かける蕃塀のほとんどは、鳥居と拝殿を結んだ一直線上に建てられ、こうした横並びの姿はあまり記憶のないもの。
境内は周囲のビルと楠の巨木が落とす影に包まれ、一歩境内に入るだけでも体感温度は随分と変わります。

上は尾張名所図会から当時の朝日神社を描いた挿絵。
当時の社殿配置と現在では大きな違いはないようですが、現在の朝日神社の周囲は当時とは大きく変貌し、広小路に面した一方のみ開けていますが、三方は四角いコンクリートの建物が壁の様に囲っています。

社頭の朝日神社解説。
「慶長16年(1611)名古屋城築城にともない、清州城下から基盤割城下町の守護神として此の地に移築され、神明社・広小路神明宮などと呼ばれていた。
明治9年(1876)、現在の社名なる。
祭神は天照大神天児屋根命
社殿などの主要建物は、昭和20年(1945)3月の名古屋大空襲により焼失したが、天保12年(1841)建造と伝わる透垣(目隠しのための透かし塀)だけが被災を免れ、今日に伝わる。
子供の無病息災を祈る赤丸神事が毎年7月下旬に行われ、厄除けの御札が配られる」

真夏の広小路はビルの日陰がなければ陽光とアスファルトの放射熱、それに加え車が放つ熱も加わり暑くて歩くのを避けたい気分になるが、この一画だけは大きな樹々が聳え、まるで都会のオアシスだ。

透塀(蕃塀)
天保12年(1841)に建てられ、不浄除けを目的として建てられたものと云う。
その昔、尾張藩の牢屋敷が神社の斜向かいに在り、引立てられる罪人を神さまに見せたくないとして、目隠し用として建てられたものとされます。
石製の控柱を持つ木造の蕃塀は銅板葺の三間の各間連子窓は腰板壁のもの、2022/02/17登録有形文化財に指定されている。

境内右の手水舎は享保7年(1722)寄進。

貫禄十分の龍口は絶えることなく清水を注ぐ。
最近こうして金網で囲われた龍の姿を見かける、際限のない自己欲求のためなんでもやる、そんな国民性に成り果ててしまったようだ。
龍が金網から解放される日は戻るのだろうか、もはや世も末なのか。

朝日神社社殿全景。
右が社務所で昭和61年(1986)に本殿、祭文殿、拝殿を後方に移築嵩上し、境内左に神與庫を新設したのが現在の姿。
古くは神明社、広小路の神明宮、広小路の朝日神明宮と称されていたが、清洲越しを後世に伝えるために「朝日神社」に改称された。

神與庫。
おらがドラゴンズの「なごや昇龍みこし」を保管するもので、名古屋市制百周年を記念して作られたそうだ。

境内左の境内社
明治元年(1868)、明治政府による神仏分離令に伴い、周辺の寺で村社として祀られていた子守神社、児宮神社を摂社として遷座されたもの。

左側から唯一鳥居を構える公孫樹龍神社。

その右が秋葉社・金刀比羅社の相殿。

天神社。

戸隠社(左)・春日社の相殿、八幡社(右)。

朝日稲荷の鳥居から境内社を眺める。

拝殿左の朝日稲荷鳥居。

参道から本殿域の眺め。
朝日神社社殿と周囲の建物の影響から一段と暗く感じる。

拝所の先には二つの社が祀られています。
左が稲荷社で右が子守社・児宮社になり、拝所内に其々の扁額が掛けられています。

この左右から本殿域を守護する狛狐。

稲荷社(左)と右が子守社・児宮社の相殿。

稲荷社。

子守社・児宮社。

稲荷社から右の朝日神社本殿。
全景は捉えきれないが、内削ぎの千木だけは見ることが出来た。

同一場所から見る拝殿。
屋根を覆う樹々からはここが街中の神社である事を感じさせない。

拝殿。
朝日神社は先の戦災により蕃塀を除く社殿や御神体と一部の宝物を除き焼失。
現在の社殿は昭和28年(1948)7月に再建されたもので、昭和33年(1958)には市道拡張に伴い、石の大鳥居、石垣、石灯籠、透塀の移築が行なわれそうです。
挿絵の配置と多少違うのはそうした事が要因のようです。
更に昭和61年(1986)には社殿を後方に移築し現在の姿になったようです。

神門は五三の桐紋。
祭神は天照皇大神天児屋根命をお祀りします。

拝殿から正面の番塀と広小路の眺め。
牢屋敷は既にないが、通りを行き交う多くの車の姿を良く遮ってくれている。
市内中心部は道幅も広く車を利用するには便利なんだが、一人しか乗らない大きな車の移動にここまで車道を整備する事に疑問を感じる。
自家用車の乗り入れ規制や曜日を定めて歩行者や自転車道に開放するとかして、暑い街中から発する熱を減らす恒久的な仕組みがあってもいい。

コンクリートジャングルのなかの貴重な杜だ、灼熱の歩道に出る前に次の目的地まで日陰の多い道を考えよう。

朝日神社
創建 / 慶長16年(1611)
祭神 / 天照皇大神天児屋根命
境内社 / 子守社・児宮社、稲荷社、公孫樹龍神社、戸隠社・春日社、八幡社、天神社、秋葉社・金刀比羅社
所在地 / ​名古屋市中区錦3-33-21
参拝日 / 2023/09/01
公共交通機関アクセス / 地下鉄「栄」駅から広小路通りを西に徒歩​5分から6分程