春日井市稲口町 「津島神社」
名鉄小牧線春日井駅から春日井町交差点を左に進み、県道102号線(稲置街道)を少し進むと、県道から斜め左側に続く細い路地が現れる、そちらに進み名鉄小牧線の踏切を越え、その先の交差点を左に進みます。
道の両側に住宅や工場が建ち、東へ真っすぐに続いています、津島神社はその道沿いの左側に鎮座しています、住宅地の中のこんもりとした杜が目印。
上は社頭全景。
参道入口に「津島神社」の社標と常夜灯、石の神明鳥居が建ち、境内は濃い緑に包まれています。
その昔は春日井原と呼ばれ、荒れた土地が一面に広がっていた。
それでも朝宮神社周辺では和爾清水と呼ばれる泉の湧水を利用して水田が開かれていった。
津島神社のあるこの一帯は、尾張名古屋藩(1610年~1871年)の藩領として稲口新田とあるように、万治年間(1658年~1661年)に美濃国加茂郡稲口村(現在の関市)から移り住んだ住民により開墾、稲口新田として開かれていったという。
現在の稲口町の名もそこから来ているのかもしれない。
関から移り住んだ住民の多くが黄葉宗信者であっと云われ、柏井村(現在の鳥居松)の慈眼寺を檀那寺としたそうです。
写真は昭和(1932年頃)と右はほぼ現在の周辺の比較。
つい最近の事ながら周囲から水田は消え、宅地や広大な飛行場へと姿を変え、春日井原と呼ばれた頃の名残は微塵も感じない。
参道の先には石の蕃塀が木漏れ日に照らされ白く輝いていました。
社標は1927年(昭和2)、鳥居は1921年(大正10)の健之と刻まれていた。
鳥居右に小さな石標があるようです。
その正体は庚申塔だった。
村の氏神として鎮座する津島神社、鎮座地は稲口村の西外れにもあたり境内に建てられたのだろう。
控え柱の付いた石の蕃塀は1936年(昭和11)に寄進されたもの。
後方に拝殿、境内右に境内社のシルエットが見える。
蕃塀の欄間には両側に龍が彫られた凝ったデザイン。
正面下の両端に立派な鬣の獅子、中央には虎が描かれている。
下は蕃塀裏側に施された波紋。
薄暗い境内で白く輝く蕃塀は津島神社で印象に残る存在です。
手水鉢。
清水は龍口はなく、蛇口から注がれる。
寄進年度は分からなかったが、結構風化しているようにも見える。
社殿全景。
拝殿は切妻の妻入りの銅板葺で、丸柱を用いた梁間・桁行三間の四方吹き抜けのシックな佇まい。
石垣で一段高く積まれ、直線的な切妻平入の幣殿が建ち、透塀が本殿域を囲っている。
津島神社の創建時期は定かではありません、残念ながら由緒書きがありません。
境内で大正以前の元号を見かけていないので推測になりますが、稲口新田開墾として人が集まり、集落を作り生活を営み始めたのが万治年間(1658年~1661年)。
人が増え集落の規模が大きくなれば神も必要になるものだ、創建時期は恐らく万治年間以降かと思います。 祭神は須佐之男命。
拝殿前を守護する丸っこいフォルムの狛犬は1924年(大正13)。
本殿右の境内社、木の下に祀られているのが「御嶽神社」祭神は大巳貴命、少彦名命。
その奥の二社は左が「国府宮神社」で祭神は大国主命、右は「稲荷神社」で祭神は豊受比賣命。
本殿域全景、本殿域の様子は透塀もあり詳細は分かりませんが本殿は神明造。
拝殿後方から社頭の眺め、密度のある杜が外光を遮り、境内は程よい木陰に包まれている。
「賴威靈」の額が拝殿後方に掛けられているが、裏側の小枝が気になるところ。
蕃塀で遮られた陽光降り注ぐ嘗ての稲口新田、その景観は当時とは全く違う世界が広がっている。
木陰に包まれ静まり返った津島神社の境内だけはゆったりとした時が流れ、今も稲口村の氏神として役割を果たし氏子達から崇敬されているようだ。
津島神社
創建 / 不明
祭神 / 須佐之男命
境内社 / 御嶽神社、国府宮神社、稲荷神社
所在地 / 春日井市稲口町1-7-7
公共交通機関アクセス / 名鉄小牧線「春日井」駅降車、南東方向に徒歩20分程
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