豊橋市関屋町「吉田神社」(手筒花火発祥之地)

10/14、豊橋市御園町東田に鎮座する東田神明宮の手奉納手筒花火を見に豊橋を訪れてきました。

今回は手筒花火発祥の地とされる吉田神社を掲載します。

JR豊橋駅から北東に徒歩約25分程の豊川左岸に鎮座し、東には国道1号線一級河川豊川に架けられた吉田大橋、国道の東には吉田城、豊橋公園も近い。

社頭全景。
南向きに長い社地を持ち、社頭から松並木の参道が社殿へ伸びています。

社頭正面。
社頭右に縣社吉田神社の社号標と手筒花火発祥之地の標柱がさり気無く立っている。
正面には石の明神鳥居を構えている。

社号標は大正11年縣社に昇格した際のもの。

鳥居の額は「正一位 吉田神社
揮毫は吉田藩最後の藩主大河内信古により明治3年(1870)に寄進されたものです

神階とは? 強力な御利益が得られる、多くの人々から崇敬される?
なんでも蛙にも神号が与えられるとか、いったいなんだろう。

鳥居をくぐり、参道から社殿を眺める、参道の中央に意味有りげに一つの石が配されている。
吉田神社の創建は諸説あり定かではないようです。
旧社家の文書(天王御縁起)に天治元年(1124)当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのが起こりとされ、源頼朝からも篤く崇敬されたという。
 
吉田城(今橋城)築城後は御城内天王社・牛頭天王社天保6年に正一位の神階を賜った後は正一位吉田天王社と称し、徳川幕府成立後の歴代城主から崇敬庇護を受けて来た。
現在も本町・上伝馬町・萱町・指笠町・札木町・三浦町・関屋町・西八町の氏神として、又、手筒花火発祥の神社として崇敬されている神社です。

意味有りげの一つの石は影向石(天降石)と呼ばれるようです。

江戸時代の寛永十七年(1640)、それまでの木造鳥居を石造りへ再建時、木造鳥居の地中から巨石が現れ、そのまま安置されたもので、昔はこの場所に木造鳥居があった。
影向石の出現により、鳥居は位置をずらして建てられたという。

旧東海道吉田宿。
江戸時代、現在の豊橋市役所や豊橋公園がある一帯は、東海道沿いの吉田川河畔に建てられた吉田城を囲むように武士の屋敷が連なり、城下町として、豊川を介した湊町として、東海道五十三次の34番目の吉田宿として栄えました、松並木の連なる参道にそうした街道の趣を感じる。

「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」
吉田神社の祭礼手筒花火の歴史は450年以上前にさかのぼると伝えられます。
「参河国名所図絵」内で記述のある「古老伝」(所在不明)には「永禄元年(1558)天王社祭礼花火と云事初る」と書かれており、このことから吉田(現在の豊橋)が日本での花火の発祥地と伝承されています。
 
花火は、天文12年(1543)のポルトガルからの鉄砲伝来以降、火薬の広がりとともに発展していったと考えられているそうで、その後天正3年(1575)の長篠の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、火薬の可能性に気づいた徳川家康三河衆に火薬の製造を任せたことがこの地方での花火の発展につながったと言われています。
 
江戸時代の中頃になると、豊橋の花火は全国的にも名を知られるようになります。
三河国吉田名蹤綜録」には他国からも多くの人が見物に来たと記されています。
花火が掲げられた場所は、吉田城の城下町・吉田の繁華街だった本町(現在の新本町周辺)の軒が連なる大通りで花火が揚げられていたそうです。
 
享和2年(1802)にこの地を訪れた人気戯作者・滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」で吉田の花火を「天下一」と称賛しており、当時の吉田の花火がいかに降盛を極めていたかが読み取れます。
嘉永4年(1851)「参河国名所図絵」には、三日間に及ぶ当時の祭の様子が描かれています。

吉田神社の例祭『豊橋祇園祭』と呼ばれ毎年7月の第3金曜日から3日間にわたって執り行われ、手筒花火は祇園祭初日に奉納されます。
初日は各町による大筒・乱玉台の練込み(台物を担ぎ、町内を練り歩く)が行われ神社に集合、その後手筒の清祓い、各町の神前手筒が奉納され、参道西側の広場で町毎に手筒・大筒・乱玉・ようかん花火などが奉納されます。
(写真は東田神明宮の手筒花火)

参道右手に祇園祭の解説と手水舎。手水鉢の正面左に元号が刻まれていました。
写真から読み取ればいいかと甘く考えていましたが、頭に「正」が付く元号なのは分かりますが、読み取れず、寄進年は未確認。
HPに目を通すと「正徳六年(1716)吉田城主 松平信高の寄進」とあった。

吉田神社拝殿全景。
入母屋瓦葺で唐破風向拝が付き、拝殿前を一対の狛犬が守護している。

大正時代に寄進された狛犬

吉田神社由緒。
疫病退散の祈願のため牛頭天王を勧請した天王社が起こりとされ、明治2年吉田神社に改称された。
現在の祭神は素戔嗚尊

神紋は木瓜紋の様です。

拝殿横の奉納手筒花火、魔除けに飾るかな。
これ、大中小で云えばどれにあたるのかわ良く分からないけれど、ここに火薬を詰め込むと相当な重さになる、そこに火が付けられ、火の粉が降り注ぐなか手筒を抱え、最後のはねまでやり遂げるのは根性なくしてやれない。

向拝柱の木鼻には獏と獅子。

拝殿内の眺め。
中央の「素戔嗚尊」の額と左右に掛けられている大きな奉納額に視線が行く。

拝殿額。
HPによると、万延2年(1861)に吉田城士 倉垣長顕から寄進されたものという。

八岐大蛇を退治する素戔嗚尊が描かれていた。(昭和4年)
HPで二枚の額について紹介されており、拝殿内右の神馬を描いたものが享保14年(1729)と古いものだと云う。

拝殿横から社殿の眺め、本殿域は樹々に覆われ本殿は見通せなかった。
現在の拝殿は明治17年に再建されたもので、本殿は明治26年に再建されたもの。

境内左の収蔵庫。
この左が広い広場となっており、各町内の手筒花火の奉納の場となるようです。

その右に朱で彩られた境内社、左が伊雑社(御鍬神社)、右が金柑丸稲荷社。

左の覆屋には伊雑社(御鍬神社)が祀られています。

明和年間(1764~72)に勧請され、大正7年(1918)に末社御食社が合祀されたとされます。
祭神は伊佐波止美命、玉柱屋比女命、宇迦之魂命。

右手の入母屋造の覆屋は金柑丸稲荷社。

覆屋前の由緒。
宇迦之魂命をお祀りし、永正2年(1505)に今橋城本丸に創建されたもの。
こちらには城守護稲荷社や城内5カ所にあった稲荷社が合祀されている。

社名の金柑丸、吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)と読んでいたそうで。
そこからきているようです。
吉田城はここから徒歩でも10分未満、金柑丸を訪れて見るのもいいだろう。

現在の社殿は明治39年(1906)に建てられたものとされ、覆屋には色鮮やかな鶏の透彫りが施されていた。

境内右手の社務所近くで見かけた百花園跡。
その名の通り明治頃は花園として知られ豊橋の名所だったという。

拝殿から社頭の眺め、
近年害虫による松枯れから伐採されていくことが多いだけに松並木は印象的です。

普段は閑散とした境内ですが、祇園祀りでは境内は人で埋め尽くされるのだろう。
そのお目当ては豪快な手筒花火だろう。

吉田神社
創建 / 天治元年(1124)、諸説あり
祭神 / 素盞嗚尊
境内社 / 金柑丸稲荷社、伊雑社
手筒花火奉納 / 毎年7月第3金曜日
所在地 / ​豊橋市関屋町2
JR豊橋駅から吉田神社 / 徒歩​20~25分程
参拝日 / 2023/10/14
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