「天王社」大牧町

守山区大牧町天王社

ほんのひと昔前は緑の残る小高い丘陵地、そうした事から自衛隊の駐屯地等などがある。
今やガイドウェイバスの高架が聳え、高層の集合住宅や民家がそれを取り囲み、若い頃に走り回ったテニスクラブも見つけられない程環境となり、久し振りに歩いて見て随分と様変わりしている事に驚いた。
道路整備もひと段落し、今も新たな住宅が建つ元気な街だ。

f:id:owari-nagoya55:20200301113347j:plainガイドウェイバス「金屋」駅で降車し、金屋交差点方向へ。
この「金屋」という地名、このあたりに鋳物師達の住居が所在した事から付いた地名と云われます。

f:id:owari-nagoya55:20200301113410j:plain 県道30号線、通称関田名古屋線が走り、その上をガイドウェイバス(ゆとりーとライン)の高架が空を覆い、バス停とは思えない停留所が道路の中央に建つ。
今回は金屋を起点にして東に続く緩やかな坂道を経て小幡方向に歩いて見ました。

f:id:owari-nagoya55:20200301113433j:plain 交差点から坂を上り切ったあたりの市バス「大牧町」停留所が目的地、ここまで5分程歩いただろうか。
ここ大牧町は意外に新しい町で1990年(平成2)に大字大森垣外、大字牛牧、大字小幡、大字金屋坊、金屋2丁目の各一部が一つとなり、守山区大牧町として誕生し、町名の「大」は大森から、「牧」は牛牧から一字を引用したものだといいます。

f:id:owari-nagoya55:20200301113459j:plain 停留所あたりから道路北側を見渡すと、新しい住宅が立ち並ぶ一角に小さな社が祀られています。
大牧町の天王社です。
新しい玉垣で囲われ、更にアルミフェンスで玉垣を囲っているので、社の存在は前にこないと気付かないかもしれません。
周辺の天王社に赤い社が多いため、車窓から赤い社を探していたりすると意外に見落とす事になるかも。

f:id:owari-nagoya55:20200301113525j:plain 左には整地された空き地、右には新しい住宅があり、社地はその住宅の一部に設けられている。
恰も個人でお祭りされた社のようにも見えます。
敷かれた玉砂利や石の台座も新しく、その上に板宮造の社が祀られています。
小さな境内ですが、手入れされた綺麗な印象を受けます。

f:id:owari-nagoya55:20200301113551j:plain 歩道に面し、陽当たりの良い場所に祀られています。
地元の老人の方が、通りがかりに拝んでいかれる光景を見ました。
ここに来て拝むことが日課になっているのでしょう。
そうした光景を見る度に、そこに祀られた神社と地元の方の結びつきの強さみたいなものを感じます。

この天王社がいつからここに祀られているものか、定かではありません。
今ほど道は整備されていなかった記憶から、この道を好んで走らなかった事もあり、社の存在を知ったのも最近のこと。
駐車場はなく、歩きの時に訪れようと思いながら延び延びになっていました。

f:id:owari-nagoya55:20200301113618j:plain 注連縄に真っ白な紙垂が飾られた社。
身近にあるけれど、歩道がある日常とここは違う特別な空間ですよと語っています。

梁に立派な角のある龍の透かし彫りや、細かなところも彫が施され、金色の飾り金具も使い小さいけれど少し奢られた社。

f:id:owari-nagoya55:20200301113650j:plain 山王社の東から金屋方向の西の眺め。
見上げるように高いガイドウエイバスの高架が下に見えるほど。
東谷山から続いた丘陵地も、ここから西にかけ緩やかに下り、矢田川庄内川の氾濫による水害が付きまとい水屋の知恵が生まれた瀬古方向へ続きます。
それに比べてこの辺りは恵まれた丘陵地、なので古来より人が生活し瓢箪山古墳などにその痕跡を留めています。
この天王社の詳細は分かりませんでした、次につなげる意味からも、簡易の解説があるといいのだが。
意味を持って祀られた社、街角のこうした社が朽ち果て、忘れ去られていく光景を目にすると、なくしたものは単に社以外にもあるような気がしてならない。妙に寂しい気がします。
ここ大牧町の天王社は訪れる方も見え、大切にされている、これからも受け継がれていく社かも知れません。

「天王社」大牧町
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市守山区大牧町6
公共交通機関アクセス / 大曾根から「ゆとりーとライン」​金屋駅で降車、金屋交差点から東に5分程

丘陵の頂から南へ向かうと地味なアップダウンが続き、瀬戸街道に至ります。
次はここから南方向にあるはずの、昔通ったテニスクラブを探しつつ自衛隊駐屯地に向かいます。

尼ケ坂「延命地蔵菩薩」

名古屋市北区大杉1

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白壁の秋葉宮​から名鉄瀬戸線尼ケ坂駅に向かう途中、高架沿いを走る道端に赤い幟が立っています。
尼ケ坂駅前から西を注視すると見えるかもしれません、尼ケ坂駅の南の交差点から歩いて2~3分程です。

f:id:owari-nagoya55:20200228075908j:plain尼ヶ坂延命地蔵菩薩を安置する小さな地蔵堂です。

f:id:owari-nagoya55:20200228075933j:plain堂前に「尼ケ坂延命地蔵菩薩」の複数の奉納幟が立てられています。
古くからここに暮らす地元の方々から、今も慕われ、地域のコミュニケーションの場として欠かせないもの、幟の数はそれを物語っています。

f:id:owari-nagoya55:20200228075955j:plain堂の左に手水鉢が置かれています、側面に寄進者伊藤萬蔵(1833~1927)と彫られているようです。
某神社を訪れた際、地元の老人から「ここの狛犬は伊藤萬蔵さんが奉納してくれたもの・・・・・」と教えられた事がある、その方の名をここで改めて知る事となった。
この方、名古屋城下塩町で「平野屋」の屋号で開業し財を成した方で、狛犬や灯篭など多くの寺社へ寄進された方だという。
荒廃する小さな社を見かけることも多い、現代の伊藤萬蔵さんはいないものだろうか。

開け放たれた堂の扉から中に入らせてもらいます。

f:id:owari-nagoya55:20200228080020j:plain最初に目に入るのは壁一面に安置された菩薩や地蔵さん。
赤い前掛けに帽子を被った像や座布団の上に座るものなど様々な像が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20200228080045j:plain手前に目をやると、天井から吊るされた多くの奉納提灯と赤い幕が吊られています。

f:id:owari-nagoya55:20200228080108j:plain奉納提灯は「南無延命地蔵大菩薩」
小さく、狭いお堂に多くの方がお参りに訪れ、崇拝されている事が奉納提灯の数からも伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200228080132j:plain中央の像が「延命地蔵大菩薩」

f:id:owari-nagoya55:20200228080156j:plainどこまでも穏やかなその表情は、眺めているこちらの気持ちも妙に穏やかにしてくれます。
騒がしいいこの頃、こんな時こそ穏やかで冷静な振舞いをすべきと示しているかのようです。
地蔵菩薩は安産、健康、長寿、智恵、豊作、求財などにのご利益があると云われていて、壁に掛けられた手書きの解説に「みなさんのお地蔵さま」と書かれているように、地域の身近な仏様なのかもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20200228080220j:plain中央の座像は「光明菩薩地蔵」

f:id:owari-nagoya55:20200228080244j:plain延命地蔵菩薩の左側のお地蔵さまは前掛けはなく、しっかりと彫られた像の全身がよく見られます。
静かに目を閉じ穏かな表情をしています。

f:id:owari-nagoya55:20200228080307j:plain延命地蔵菩薩の右側には五鈷杵を持つ弘法大師像が安置されています。
これらの像の年代や、いつからここに安置されているのか、諸事情でここに纏められたものなのか詳細は分かりません。
伊藤萬蔵さんの生没年から、寄進したのが大正頃として、その頃が堂の建立時期なのか?
このあたりの事は管理されている大杉の普光寺で尋ねると分かるのかもしれません。
見るものに何かを教えてくれるお地蔵さま達に、新しとか、古いとかは必要ないのかもしれません。
おやじが地蔵さまから感じたのは「周りに惑わされることなく、冷静に振舞いなさい」でした。

尼ケ坂延命地蔵菩薩」
住所 / 名古屋市北区大杉1-21-7
公共交通機関アクセス / ​名鉄瀬戸線「尼ケ坂」下車、西に2~3分

名古屋市東区白壁「秋葉宮」

首塚社から5分程西に向かいます、既にここは東区となります。
この近隣は同じ区分けの中に北区と東区が複雑に入り混じっています。

一筋先には交通量の多い国道41号線、その上に見上げれば首が痛くなるような所を名古屋高速1号線が南北に延びています。
上街道を清水口方向に進むと、民家と駐車場の間に瓦葺の小さな堂が見えてくるのが東区白壁3の「秋葉宮」。

f:id:owari-nagoya55:20200227083918j:plain手前の道筋は昔の上街道、街道脇の秋葉さんということです。
上(うえ)街道は江戸時代に尾張藩名古屋城下東片端から小牧城犬山城を経て中山道伏見宿を結ぶ目的で作った街道です。現在の上街道は車の通りは意外に少なく、人通りも多くはない。
一本西に国道41号線がありながら、落ち着いた住宅地の趣がある。

f:id:owari-nagoya55:20200227083940j:plain「秋葉宮」正面全景。
堂の前面は玉垣を囲われ、境内に一対の灯篭があるだけの簡素な外観。
近代工法の住宅街にあって瓦葺の堂は目立つ存在かも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20200227084004j:plain隣の駐車場から前斜景。
向拝が奢られた入母屋造りの様です。
駐車場との区切がないので、駐車場はひょっとすると、この秋葉宮の敷地だったのかもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20200227084027j:plain堂に掲げられた扁額に「秋葉宮」とある。
上街道沿いに集落ができ、住居が密集すれば自ずと火伏の神が祀られることになる。

f:id:owari-nagoya55:20200227084048j:plain堂内全景。
吊るされた提灯から察するに、左は「津嶋神社」、中央の金色の飾り金具満載の社が「秋葉神宮」、右が「青面金剛明王」の社のようで、今も庚申講が受け継がれているのかな。

f:id:owari-nagoya55:20200227084112j:plain拝所から境内の眺め。
手前の灯篭は大正初期のもの、庚申塔も探して見るも見当たりませんでした。

お世辞にも広いとは言えないこぢんまりとした境内ですが、さすがシラカベーゼの街だけあって、綺麗に手入れが行き届き、訪れて気持ちがいい。
願わくば謂れでも掲げられていれば有難いものです。

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f:id:owari-nagoya55:20200227084255j:plain技術の粋を集めて作られた高速、その傍らに羽団扇の紋が施された鬼瓦が印象的な白壁の秋葉宮です。

さてと、ここから尼ケ坂駅方向に戻り、もう一カ所訪れる事にします。

「秋葉宮」
創建 / 不明
祭神 / 不明(津嶋社、秋葉社青面金剛明王)
住所 / 名古屋市東区白壁3丁目5-17
公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「清水」駅から南に徒歩5分程

「天王社」 守山区小幡常燈

守山区小幡周辺の路地には複数の小さな赤い社が祀られています。
今日はその内の一つ、守山区小幡常燈にある赤い社を訪れます。
三連休の最終日の夕方、さぞかし道は行き交う車が多いかと思っていたけれど意外に車も歩行者も少ない。世の中に広まりを見せる「COVID-19」の影響だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20200225220830j:plain基幹バス汁谷で降車、矢田川に架かる千代田橋を渡り、城下交差点を右に折れ、城下東の交差点で左に曲がり、緩やかな上り坂をひたすら「瀬戸電」方向に歩く。
基幹バスを降りてから30分程の道中です。電車利用は「瀬戸電」小幡から線路沿いに歩けば近い。

f:id:owari-nagoya55:20200225220853j:plainやがて正面に「瀬戸電」の歩行者用の踏切が見えてきます、そして交差点の右角に目をやると赤い覆い屋が建っています。常燈の赤い社に到着です。

ここは目と鼻の先に「瀬戸電」が東西に走り、その先には瀬戸街道が東西に延びています。
その昔の瀬戸街道は名古屋城から現在の尾張旭市を経由し、瀬戸市へ続き江戸時代中期、あゆち潟周辺で作られた塩を遠く信州まで運ぶ交易の道として古くから街道沿いには集落が点在し、寺社も建てられた。
そんな土地柄故に地名には過去の名残が残り、この辺りの「城下」も何やらイメージさせるものがある。

f:id:owari-nagoya55:20200225220924j:plain角地の奥まった場所に石垣が積まれ、その上に赤い覆い屋が建っています、建っているというよりは乗せられているといった方がいいのかもしれません。

この覆い屋のある地名は常燈10。
守山区大字小幡の一部と字常燈、字宮ノ腰の一部を纏め1994年に現在の小幡常燈。宮ノ越やら常燈やら想像が膨らむ地名の多い事、地名は正に過去のその地を表すもの。

f:id:owari-nagoya55:20200225220946j:plain常燈の赤い社。
石垣を高く積み、その上を台座にして、瓦で葺かれた切り妻の覆い屋を乗せた印象を受ける。
夕陽を受けて赤が一段と浮き立っています。

f:id:owari-nagoya55:20200225221015j:plain正面以外は重い屋根を支える四本の足に玉垣が付けられ、強度を上げるのに一役買っているようにも見えます。
石垣に使われている石も個性的な石が使われ、赤い山土で盛られたその光景は、住民のハンドメイドの香りが漂います。

f:id:owari-nagoya55:20200225221042j:plain板宮造の小さな社。
扉は開け開かれ中のお札「津島神社神札」が良く見え、この社の素性がよく分かる。
社の下に石、なんだろう? 重石代わりだろうか?
質素で面白みのない社と片付ける事なかれ。
日々お参りに見える方がいるようで、心ばかりの賽銭も置かれています。

お賽銭はいくらが良いとか言われる向きもありますが、米や酒でもいいだろうし、札でもいい。
要は気持ち、金額で忖度するどこぞの輩とは違います。
おやじも僅かばかりの賽銭を上げお詣りさせて頂きました。

この天王社(津島社)について、どこからか遷座されたものなのか、もとからここに祀られていたものかなど情報は少ない。
こんな時に参拝に訪れる方に遭えると意外な話を聞くこともできるのですが賽銭の主は現れなかった。

f:id:owari-nagoya55:20200225221109j:plain夕陽が差し込むこの通りにあって、交差点角地で日当たり良好の好物件。
そこに祀られた赤い天王社は、今も身近な「天王さん」として崇拝されているようです。

常燈の天王社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市守山区小幡常燈10
公共交通機関アクセス / ​名鉄瀬戸線「小幡」下車西に徒歩10分程
おやじのルート / 基幹バス基幹2「汁谷」降車千代田橋経由北へ徒歩30分

f:id:owari-nagoya55:20200225221134j:plain天王社から瀬戸電に向かってみました。
瀬戸電は名古屋の中心部栄と瀬戸を繋ぐ、約20kmの名鉄(名古屋鉄道)瀬戸線の事で、前身の瀬戸電気鉄道の略称。
おやじには名鉄瀬戸線よりは「瀬戸電」の方が馴染みがあります。
夕陽に輝く線路の先から赤い電車が走って来たら、子供のころから見慣れた光景となるのですが。

f:id:owari-nagoya55:20200225221159j:plain矢田川の川面に写る赤い電車も今やステンレス製の4000系と呼ばれるスマートな車両が走っています、いつまでも「瀬戸電」では失礼だね。帰りはこれに乗って帰ろう。
2020/2/24

尾張高野山宗 総本山 大慈山 岩屋寺

尾張高野山宗総本山 大慈山 岩屋寺
伊勢湾岸沿いに知多半島先端の師崎に続く国道247号線を山海交差点で左折、そこから県道470号線を走る、すぐに県道276号線に変わり5分程で左手に岩屋寺が見えてきます。

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県道右側に大きな無料駐車場があり、車で訪れても駐車場に困る事はありません。

訪れたのが1月18日、この日はかみさんが知多四国八十八箇所霊場巡りのイベント参加のため、送迎を兼ねおやじはコース対象外の岩屋寺を訪れました。
こちらの参拝前に国道沿いの神社を複数巡ってきたので、かみさんからのお迎えコールがいつ来てもおかしくない。そんな事でいつものように時間をかけて見て廻る余裕はなく。

駐車場から岩屋寺の伽藍が良く見渡せます。
左が本堂、中央の門前の先に鐘楼と多層の建物が見て取れます。

f:id:owari-nagoya55:20200224124118j:plain門前を右に進み鐘楼側から境内を見ます。
袴腰が施された鐘楼に視線が行きます。

f:id:owari-nagoya55:20200224124146j:plain鐘楼から更に右の眺め。
左が拝殿、右は庫裏でしょうか。

f:id:owari-nagoya55:20200224124225j:plainこれだけ大きな伽藍を持ちながら、岩屋寺の門前に山門は見当たりません。

f:id:owari-nagoya55:20200224124244j:plain門前の石段前の左に「新四国第四三番札所」、右に「岩屋観音」の石標が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20200224124307j:plain石段左に瓦葺入母屋造の手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20200224124329j:plain境内右の休憩所と手前に弘法堂。

f:id:owari-nagoya55:20200224124350j:plain焦点が合っていない堂内写真ですが、左に弘法大師と中央に不動明王の姿が拝めます。

f:id:owari-nagoya55:20200224124413j:plain弘法堂の左に袴腰が施された瓦葺の鐘楼。
当初は四脚鐘楼だったとされ、1697年(元禄10)の火災で焼失、1753年(宝暦3)に再建されますが、再建までの長きにわたり梵鐘は本堂の軒端に吊されていたそうです。
横長の鐘楼は斜めから眺めると安定感があり、木組みも美しく、岩屋寺の伽藍の中にあって「経蔵」と並び存在感のあるもの。

f:id:owari-nagoya55:20200224124433j:plain下り棟に強面の鬼瓦が睨みを利かしています。

f:id:owari-nagoya55:20200224124456j:plain阿弥陀堂
鐘楼の向かえに建つ入母屋瓦葺の建物。

f:id:owari-nagoya55:20200224124518j:plain平治の乱に敗れ、この地に辿り着いた源義朝、匿われていた長田忠致の裏切りから命を奪われ、野間に葬られます。
1159年(平治元年)、源義朝(頼朝の父)の霊廟をお詣りに訪れた浄土真宗の開祖親鸞聖人が岩屋寺を参詣、その際に弘法大師七井の井戸の水を汲み、自ら阿弥陀如来の一尊を書き納められたと云われ、現在の阿弥陀堂の本尊となっているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200224124545j:plain石段の正面に石の鳥居と二層建物。

f:id:owari-nagoya55:20200224124621j:plain大師ヶ嶽を背にして建ち、伽藍にあって目を引く存在です。
瓦葺二層造りの「一切経蔵」と呼ばれるもので、現在の経蔵は2年の歳月をかけ1801年(寛政13)に完成したもの。

f:id:owari-nagoya55:20200224124651j:plain​内部の輪蔵(経が収蔵され、一回しで収められた経典全てを唱えたと同等の功徳があるとされる)は、1812年(文化9)から三年の歳月をかけ作られたと伝わります。
軒を支える木組みは、飾り彫りこそないものの、荷重を巧みに分散する先人の知恵が凝縮された美しい造形美をみせてくれます。

f:id:owari-nagoya55:20200224124722j:plain一切経蔵」の左の明神鳥居を構えた「笠森稲荷」。
理由は不明ですが、伏見稲荷の抱き稲と豊川稲荷の紋が入る神社幕が吊るされています。

f:id:owari-nagoya55:20200224124756j:plain石段の先に狛狐。

f:id:owari-nagoya55:20200224124818j:plain「笠森稲荷」本殿
始まりは旧山海村に住んでいた山本助左衛門という村人が、上州を訪れた際に目の病にかかり、失明しかけたそうで、現地に祀られていた笠森神社に願掛けした所、治ったことから、帰郷後、自宅近くの岩屋寺塔頭であった谷ノ坊に建立した事が始まりと云われます。
眼病平癒に霊験あらたかで、参詣者が絶える事が無いほど崇敬されていたようですが、助左衛門の死に伴い岩屋寺に併祀されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20200224124910j:plain一切経蔵」の右に三つの堂と山肌に五百羅漢像が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200224124942j:plain右に地蔵堂と奥の方型の堂は「薬師堂」

f:id:owari-nagoya55:20200224125005j:plain薬師堂内。

f:id:owari-nagoya55:20200224125026j:plain左の堂は「遥拝所」
斜面を覆わんばかりの羅鑑像は、1820年(文政3)当時の岩屋寺住職の豪潮律師によって開眼されものだそうで、其々表情も違い、中には永年の風化により表情が分からないものもある。
羅漢像はこの脇から続く参道を登り、大師ヶ嶽の山頂にある弘法大師立像にまで祀られています。
この羅漢像を見て行くだけでも相当な時間が必要、しかし
それに見合うだけの壮観な光景が続きます。
この「遥拝所」はここから山頂の大師像を拝むためのものだと思われます。

f:id:owari-nagoya55:20200224125051j:plain境内左に「本堂」
右に「尾張高野山の寺号標」左に「南知多観音第二十五番札所、東海百観音第七番、知多四国四十三番」霊場と彫られた石標が建つ。
「知多西国三十三所霊場」の一番札所でもあり、昨年(2019年)は開創250年の知多半島最古の霊場
尾張高野山とは元々は天台宗だった岩屋寺に1925年(大正14)に転住した豪鉄大僧正により、1951年(昭和26)尾張高野山宗 総本山として開創したもの。

岩屋寺の歴史は古く、715年(霊亀元年)に行基の開基と云われ。
創建当時の伽藍は十二坊に大門、楼門、多宝塔など建立され、壮観な伽藍を有していたと云われます。
本尊の千手観音は、高野山に金剛峰寺を創建後の弘法大師が再び諸国遍歴を行い、岩屋寺で百日間の護摩修行を行った際の護摩の灰で作られたものと伝わり、奥の院を開きそこに祀ったものと云われ、現在は本堂で祀られているそうです。昨年、60年ぶりに御開帳が行われたようです。
因みに弘法大師南知多町大井聖崎に上陸したのは814年(弘仁5)とされます。

f:id:owari-nagoya55:20200224125115j:plain尾張名所図会に描かれていた岩屋寺は現在の伽藍に近いもので、鐘楼から右に延びる奥の院へ続く道筋は現在も面影を留めています。

f:id:owari-nagoya55:20200224125139j:plain寄棟瓦葺で流麗な屋根勾配が印象に残る本堂は幾度か火災で焼失し、1804~1818年(文化年中)に密蔵院から訪れた豪潮寛海により再興される。現在の本堂の再建は分かりませんが、尾張名所図会に描かれている姿に近いものです

f:id:owari-nagoya55:20200224125202j:plain扁額は「厳窟寺」とある、別称で千眼光寺厳窟寺とも呼ばれるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200224125225j:plain白地の幕に三つ葉葵の寺紋が入る。
1819年(文政2)、尾張徳川藩主の加持祈祷所となり、三葉葵の紋章を許されたとある。

f:id:owari-nagoya55:20200224125248j:plain長い歴史を持つ岩屋寺文化財も多く残り「一切経」、「金銅法具」などが受け継がれ本堂右の宝物殿で所蔵されています。

f:id:owari-nagoya55:20200224125314j:plain本堂の参拝を終え、鐘楼方向へ、その先は「拝殿」
こちらでは檀家の位牌を安置するほか、写経や落語などの催事が催される場。

f:id:owari-nagoya55:20200224125337j:plain拝殿入口左に菩薩像。

f:id:owari-nagoya55:20200224125359j:plain拝殿から右の本坊。

f:id:owari-nagoya55:20200224125420j:plain境内に掲げられた岩屋寺奥の院の案内図、広大な境内です。
奥の院入口までは車で数分で行けるようですが、残念ながらここでかみさんのお迎えに行かねばなりません。多宝塔のある奥の院へは次回改めて訪れます。

f:id:owari-nagoya55:20200224125442j:plainかみさん提供の奥の院「多宝塔」
厳粛な空間に佇む多宝塔、やはり自分の目で見てなんぼのもの、再訪するだけの価値がある寺だと思います。

f:id:owari-nagoya55:20200224125506j:plain知多四国巡り、ありかもしません。

尾張高野山宗 総本山 大慈岩屋寺
宗派 / 尾張高野山
開基 / 715年(霊亀元年)
本尊 / 千手観世音菩薩
住所 / 愛知県知多郡南知多町山海間草109
車アクセス / 南知多道路
「南知多」ICから内海方向、国道247号線山海を左折、県道470号線、県道276号線経由車で20分程
公共交通機関アクセス / 名古屋鉄道知多新線」内海⇒海っ子バス西海岸線⇒松原停留所から徒歩
(時間帯により岩屋寺停留所までの便がある)

「麺屋幸光坂」  ラーメン

地下鉄鶴舞線3番出口から北へ徒歩1から2分程のビルの1階にある、麺屋幸光坂に行ってきました。

f:id:owari-nagoya55:20200222201909j:plain店舗前から3番出口方向の眺め

f:id:owari-nagoya55:20200222201934j:plain麺屋幸光坂はコンビニとJR中央線の間にあるビルの一階に店舗を構えます。
外観は小さな暖簾と左にメニューが置かれ、至ってシンプル、ちょっとした寿司屋か割烹の様な佇まい。

f:id:owari-nagoya55:20200222201956j:plain店内は所謂ラーメン屋の雰囲気とは違い、和モダンを意識した女性受けする内装。
おやじが大好きな壁は油こての狭いラーメン屋とはかけ離れた、今どきのラーメン屋。
名駅の新幹線ガード下にある麺屋獅子丸で食べた伊勢エビラーメン、そのお店と同系列の半蔵グループのラーメン店。

f:id:owari-nagoya55:20200222202017j:plain旅行からの帰り道晩御飯代わりのラーメンです。

f:id:owari-nagoya55:20200222202034j:plainまずは、ビールと摘み代わりにぜいたく盛りを注文。
贅沢盛りは豚の角煮・煮卵・ローストビーフ・野菜の添え物・カキフライとビールのお供に最適。

お疲れ様の乾杯の後からラーメンをオーダー。
おやじは「アゴと貝出汁の醤油そば」税別880円、かみさんは20食限定の「三河赤鶏と魚介の濃厚つけ麺」税別1,100円。

f:id:owari-nagoya55:20200222202054j:plainおやじは魚介系出汁は大好物、かみさんはアゴだしは好んでは食べない。

待つことしばし、アゴと貝出汁の醤油そばが到着。
三種(鴨肉、鶏むね肉、豚肩ロース)チャーシューと幸と焼かれた四角い物体は湯葉、彩りに三つ葉が添えられ京風の外観。
麺は北海道産の小麦で打たれた、やや細めの拘り麺、純粋ろ過フィルターから作られた純水を用いた水を使用しているそうな。
細麺ながらアゴのスープとよく絡み、ほんのりと鼻に海の風味が抜けてくる。
三種のチャーシューも個性があり、なかなかおいしい。
スープは飲むなと良くかみさんに云われるが、醤油ベースの魚介スープは見た目ほど辛くはなく、美味しく飲める。

f:id:owari-nagoya55:20200222202115j:plainかみさんが頼んだ三河赤鶏と魚介の濃厚つけ麺
ぐつぐつと煮えたぎる濃厚なつけ麺ダレはチーズフォンデュに通じるもの、麺は小麦の粒子が見えまるで蕎麦。味はかみさん曰く好まないはずの魚介系でありながら、それを感じさせない濃厚な鳥の風味で「美味しい」との評価。

店内は昨年できたばかりで明るく、客席の間隔も結構広く確保され綺麗な店内、カウンター席はちょっとした寿司屋の雰囲気があり、外観同様ラーメン屋の印象はない。
がさつなおやじが気軽にラーメンするには、お店もラーメンも綺麗すぎるくらいに女性向けのおいしいお店。

お店の狙いなのかも知れないけれど、初めて訪れる際に外から中の様子がみえないのは、若干敷居の高さみたいなものが残るけれど、店内も接客にしても「心して食べよ」というお店ではない事を書き加えておこう。

総合評価は5点満点で3.5点。美味しいお店だ。

麺屋 幸光坂
住所 / 名古屋市中区千代田5-22-18
営業時間 / 11:00~14:30、17:30~22:00
定休日 / 火曜日

首塚社

蔵王山 延命閣 地蔵院から5分程西に歩く。
南北に延びる道筋を左に曲がると道は緩やかな登坂になり、更に南下すると中産連ビルの東側を経て出来町通りに至ります。
首塚社」はこの坂の手前の左側に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20200222150256j:plain 坂の手前に玉垣に囲まれた白い幟が目印になるのかな。
幹線道も近い事から街中の喧騒に包まれているかと思いきや、意外に静かな住宅地。
古くは武家屋敷も存在した地域柄で、二筋程西には名古屋城東大手門から北に犬山を経由し中山道に続く上街道が南北に続きます、とは云っても地蔵院の始まりともなったように、辻斬りが横行するような環境にあったようです。
周辺の道筋には上街道の面影を感じさせるところも残ります。

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 坂の手前に見える簡素な覆屋が首塚社。
幟には「首塚霊神」とある、御嶽講とつながりがあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200222153306j:plain 首塚社社頭。
屋根から飛び出した御神木?の大きな切株、それを取り込むように建てられた拝所?と左の覆屋、中には社が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200222153334j:plain 右に「首塚社」社号標、1978年(昭和53)と刻まれていました。
その後ろに外から見えていた切株、表面が滑らかなその木が何かは分からないけれど、樹齢を重ねていたようです。

f:id:owari-nagoya55:20200222153404j:plain 突き当りに手水鉢が置かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200222153434j:plain 拝所から覆屋の眺め。
拝所の中には右から「大国主命大神、大日大聖不動明王、松本露仙霊神、塩釜大神、白龍大神・末廣大神」の提灯が5つ吊るされています。
長椅子が用意され、首塚社を中心に地域コミュニティーとしての役割を担っているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200222153500j:plain 紫の奉納幕の吊るされた覆屋。
石の台座の上に3つの社と石像が一体見て取れます。

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 鈴を鳴らして参拝、奉納幕の内側にも5つの提灯が吊るされていました。
1枚には収まらないので諦めです。

f:id:owari-nagoya55:20200222153556j:plain 右から「大国主命大神、大日大聖不動明王、松本露仙霊神、塩釜大神、白龍大神、
末廣大神」表札がありますが脱色し読めませんでした。
龍大神の前には赤い座布団の上に置かれ重かる石。
「重い?軽い?」、試しに持ってみましたが思ったよりは軽かった、が無心で持ったので願は掛かっていないわね。

f:id:owari-nagoya55:20200222153853j:plain 大日大聖不動明王
素朴な造形の像ですが、右手に利剣、左手に羂索を持ち、不浄なものを焼き尽くす火炎もしっかりと彫られ、お不動さんと呼びたくなる親近感の沸く姿のものです。

f:id:owari-nagoya55:20200222153921j:plain 覆屋から拝所の眺め、入口に吊るされた納提灯は、首塚社が身近な神として今も親しまれている事を物語ります。
おどろおどろしいイメージがある首塚社。
ここは尾張藩家老の竹腰家の屋敷跡と云われ、水戸藩の隠密だった山伏が人目を避け竹腰家に滞在中に尾張藩に身元が知られ首を刎ねそれを埋めた首塚だとか、竹腰家を門付けに訪れた虚無僧が門番との言葉の取り違えから無礼討ちにされ、その僧を哀れに思った竹腰家により塚を作り葬ったとか。
謂れは諸説あるようです。
本当のところはともかく、身近にあってあれなに?、どうかするとその物自体がいつしか消えていたりすることを思うと、こうして語り継がれ、受け継がれていく事が大切なのではといつも思います。

f:id:owari-nagoya55:20200222153951j:plain 風化したものは二度と蘇ることはないだけにこの光景、許される限りは留めていてほしいものです。
そこにあるにはそれなりの動機があったはずで、いつかまた過去を振り返り、その意味を知る事になる。
街角の石碑や石像にしても時代の語り部なのかもしれません。
「振り返るな〃過去には何もない」という向きもありますが、けっしてそんな事はない。

首塚
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市北区大杉1-15-2
公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂」駅⇒地蔵院⇒首塚社へ徒歩10分​ 地蔵院から西へテクテクと5分程