東京に行ってきました

一泊二日で東京お上りさんツアーに行ってきました。
 ご時世を考え中止も考えました

f:id:owari-nagoya55:20200221232241j:plain自己防衛として個人としてできる事は準備、実行を徹底しての観光。
具体的に何をしたのか?と云われても、マスクと手殺菌用の75%アルコールスプレー程度。

f:id:owari-nagoya55:20200221232321j:plain 後はなるべく物に触れない、触った後の手洗いくらいでしょうか。

f:id:owari-nagoya55:20200221232355j:plain 豊洲や月島にも行ってきましたが、やはり大陸からの観光客は明らかに少ない。
一時は多すぎて問題もあったようですが、少ない。
見えない「COVID-19」相手に怯えていても仕方がない。
自己防衛しても尚、お土産をもらってきた場合は適切に申告するだけの事。

f:id:owari-nagoya55:20200221232426j:plainスカイツリーで出会った多くの修学旅行生、楽しそうに眺望を眺め歓喜していたし、電車ではTDLに向かう親子の光景も。それぞれ楽しい思い出を刻んでいます。

ネットの書き込みを見ると個人を責める書き込みも目に付く、一人が書くと集団心理が働く。
河津桜のピンクの色合いはとても暖かいものがあるけれど、こうしたコメントは寂しさを覚える。
これで五輪が海を渡るようなことがあると、この船はどこに向かうのかなぁ。

歩道際から行き交う人を見つめるお地蔵様

 岩倉市栄町の県道149号線沿いの歩道を西に歩いて、栄町1丁目交差点の手前で地蔵さん達と出逢いました。

f:id:owari-nagoya55:20200219203419j:plainこの道を東に進むと名鉄犬山線を越え本町の神明太一宮に至ります。

f:id:owari-nagoya55:20200219203507j:plain 岩倉は古くから名古屋城を起点に美濃路を経て枇杷島橋から別れ犬山城に続く岩倉街道として古くから栄えた町。
お地蔵さんの由来はさっぱり分からなかったけれど記憶に留めたいものとして掲載することにします。
上は現在(右)と左が明治のこの辺り、上下に続く赤線は岩倉街道で青いマーカーは神明太一宮、赤星がお地蔵さん達の場所。

f:id:owari-nagoya55:20200219203527j:plain 歩道沿いの個人の敷地と思われる一画、二つの覆屋の中から三体のお地蔵様の視線を感じ足を止めました。
何度も前を通りがかっていながら初めて彼らの存在に気付きました

f:id:owari-nagoya55:20200219203556j:plain西側の覆屋の中に不動明王と地蔵が二体。
出逢ったのが2020/元旦ということで写真のように鏡餅がお供えされていました。
個人で守られているのか、地域で守られているのか定かではありませんが、この光景から大切にされていることが分かります。

f:id:owari-nagoya55:20200219203622j:plain 手前の覆屋、おやじに視線をくれたのがこのお地蔵さん。
右に聞きなれない白鶴龍神と三福三宝荒神と彫られた石標。
三福三宝、調べてみると、仏・法・僧の三宝を守り、家庭の火伏せ、災難除けとして屋内社でも祀られるということ、白鶴龍神も調べてみましたがよく分からない。

ここは歴史など意味がない、個人や地域が意図を持ちここに祀り、今も尚こうして親しまれ、守られている事に意味があるのではないでしょうか。
お供えの生花にお地蔵様達と人とのつながりの強さみたいなものを感じます。
視線をくれたお地蔵様に心ばかりの気持ちを供え駅に向かいました。
また会おう。

住所 / 岩倉市栄町1丁目10
公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「岩倉」下車、神明太一宮新溝神社岩倉招魂社経由で徒歩25分程

名古屋市西区浅間 『冨士浅間神社』

以前掲載した、名古屋城西の屋根神様から​徒歩5分程西​に、住宅や店舗が混在する一画に小さな杜に赤い稲荷鳥居が見えてきます。

掘川の西にあたり、美濃路沿いの城下町の趣が感じられます、堀川沿いの四間道を境にして東が幅上、鎮座地のある西は幅下とされました。
現在の住所は名古屋市西区浅間1になります。

f:id:owari-nagoya55:20200219123946j:plainすぐ南に国道22号線、西に県道63号線がありながら以外に静かな一画です。
今回の徘徊最後の目的地『冨士浅間神社』に到着。
ランチでご機嫌のかみさん、ここまでは快く付き合ってくれました。

f:id:owari-nagoya55:20200219124010j:plain神社北側の道路からは、シックな色合いの玉垣の先に、見上げる位置に佇む本殿が良く見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200219124030j:plain神社東の通りに東参道、左に社号標があり、鳥居から先の境内は石畳が敷かれ、正面に社務所が窺えます。東鳥居を通り過ぎ、その先を右に曲がると南鳥居に出ます

f:id:owari-nagoya55:20200219124053j:plain鳥居の正面に拝殿が望めます。
左に『郷社 冨士浅間神社』と彫られた社号標。
pcにふじと入力し一発変換で出てくる富士ではなく「冨士」が正しいようです。
この先間違えて使っていたらごめんなさいです。

f:id:owari-nagoya55:20200219124118j:plain鳥居から拝殿左方向の眺め。
左は先程東鳥居から見えていた社務所、正面に一対の狛犬と拝殿。
賽銭箱には桜の紋が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124142j:plain右手に手水舎、鉢の前後に石標が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200219124204j:plain手前の石標。
以前は神社の西に江川が流れていました、そこに架けられていた「江川橋」の親柱だということです。
江川は1932年(昭和7)埋め立てられますが、過去のこの地を伝え残す遺構として境内に移されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20200219124226j:plain手水鉢はふたつの龍頭があり龍口からは絶えることなく清水が注がれています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124249j:plain手水鉢の奥の石碑。
1937年(昭和12)に神域拡張した際に建てられたようで『神域拡張敷地・九十三坪二合四勺』と彫られています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124310j:plain手水舎の左の建物は神楽殿?、高床構造が必要だったのか分からないけれど、ここでは神楽殿としておきます。

f:id:owari-nagoya55:20200219124336j:plain楽殿の左に鳥居があり、その先は鬱蒼とした緑に包まれ、参道は奥へと続きます。
突き当りに境内社があるようです。右に赤い幟が連なっています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124359j:plain鳥居に掲げられた扁額と幟には「浅間稲荷社」とあります。

f:id:owari-nagoya55:20200219124422j:plain参道は二手に分かれ、右に進むと赤い稲荷鳥居が建ち並ぶ浅間稲荷社へ続きます。
豊川稲荷と同じ神紋の入る赤い幟、赤一色の空間に身を置くのは久し振りのような気がします。

f:id:owari-nagoya55:20200219124444j:plain浅間稲荷社。
複数の狛狐が突然訪れた見慣れぬ訪問者をじっと見つめているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200219124507j:plain正面参道の奥に境内社
その前を小ぶりな狛犬が守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124549j:plain頭の形に特徴がある狛犬です。

f:id:owari-nagoya55:20200219124609j:plain境内社全景。
左から天神社、右隣の相殿に秋葉社、津島社、八幡社、白山社、疱瘡社、神明社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200219124631j:plain境内社から左の本殿側面を眺めると内研ぎの千木と鰹木を持つ神明造の様です。
玉垣から先の本殿域は見通せず、末社の存在までは確認できませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200219124653j:plain入母屋造の拝殿正面全景。

f:id:owari-nagoya55:20200219124715j:plainふくよかな容姿の拝殿前の狛犬は昭和に入り奉納されたものです。

f:id:owari-nagoya55:20200219124737j:plain木造の拝殿は木の温かみを感じる落ち着いたもので、扁額もそれに調和する色合い。
個人的な見方で大袈裟ですが、この国や国民性を象徴する原点がこの光景じゃないかと思っています。

掲げられた扁額、吊るされた提灯は「淺間」と書かれ、提灯には五七の桐紋と桜紋が施されています。
神紋が桜紋で社紋が五七の桐紋。

f:id:owari-nagoya55:20200219124758j:plain本殿方向の眺め、御幣の左右に小さな狛犬があります。
『冨士浅間神社』は1398年(応永5)、現在の東区東桜1で当時前山と呼ばれていた場所に三谷源太夫駿河冨士浅間神社の分霊を勧請したのが始まりと云われ、祭神は木花開耶姫
家康も参詣したとされます。

現在地の幅下に遷座するきっかけは、1610年(慶長15)の名古屋城築城、元地を石垣の加工場とするため一時的な替地としてこの地に移転したもので、築城後の元地には冨士神社が再建されますが、そのまま現在地に留まることになったようで、前山の冨士神社を「冨士権現」、幅下の『冨士浅間神社』を淺間社と呼び分けていたようです。

元地の前山は、今や片側4車線の桜通りが目の前を通り、なかなか静かに落ち着いていられない。
ある意味幅下に留まって正解だったのかも知れない。
これから温かくなって境内の桜が咲くと別の表情を見せてくれそうです。

冨士浅間神社
創建 / 1398年(応永5)
祭神 / 木花開耶姫
境内社 / 天神社、秋葉社、津島社、八幡社、白山社、疱瘡社、神明社
住所 / 名古屋市西区浅間1-3-2
公共交通機関アクセス / ​市営地下鉄鶴舞線「浅間町」から北へ徒歩5分程

『乃野神社』

『乃野神社』
知多半島の伊勢湾に面した海岸線沿いに伸びる国道427号線。
国道に面し神社仏閣が多い場所。
それもそのはず、弘法大師所縁の地として江戸末期から八十八寺の霊場を整え、知多四国八十八か所巡礼(番外含め98か所)として今も巡礼に訪れる姿が絶えることはありません。

かみさん自身の直近のテーマが知多四国八十八か所全コンプリートを目指しています。
休みが合えば、送迎を兼ねて、おやじは近隣の神社仏閣を見て回っています。

f:id:owari-nagoya55:20200217110348j:plain『乃野神社』は国道247号線越しに山海港を眺める松林に鎮座します。
国道からは南参道の鳥居が目印になります。

f:id:owari-nagoya55:20200217110409j:plain国道から眺める南参道口。
松を主にした杜は防風林としての役割もあるのでしょう、常夜灯と石段の先に鳥居を構えます。
海辺のせいか、境内は玉砂利ではなく海砂の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200217110431j:plain『乃野神社』の表参道は南鳥居の右に奥へ続く道があり、そこを進むと、袴腰が施された趣のある常夜灯が現れます。
その右には「御嶽大神」の石標が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20200217110454j:plainこの常夜灯、神社の規模の割にえらく立派なものです。

f:id:owari-nagoya55:20200217110516j:plain常夜灯の左が境内、石段左に「村社 式外 乃野神社」と彫られた社号標。
道路から見た境内の高さはそれほどでもないけれど、こうして見ると随分と高く盛られているのが分かります。
鳥居の先に拝殿が間近に見えています。

f:id:owari-nagoya55:20200217110539j:plain切妻瓦葺のシンプルな拝殿と境内、訪れた方の足跡が残るほど地面は柔らかく砂場のようです。

f:id:owari-nagoya55:20200217110601j:plain境内右に目を移すと右から手水舎、境内社と由緒碑が一列に並びます。

f:id:owari-nagoya55:20200217110621j:plain手水舎、生憎、鉢に清水は満たされていませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200217110642j:plain

f:id:owari-nagoya55:20200217110708j:plain

境内社の後方に複数の石碑が祀られています。
何か書かれていますが目を凝らしても読み取れません。

f:id:owari-nagoya55:20200217110748j:plain境内社は5社祀られ、奥から津島社/庚神社、子安社/山神社、海神社/金刀比羅社、津島社、御嶽社と並びます。

f:id:owari-nagoya55:20200217110809j:plain『乃野神社』
愛知県知多郡南知多町大字山海 式外 乃野神社 祭神 豊受比賣命
「由緒 当神社は本国神明帳に従三位乃野天神内海庄久村神明と称す。
1186年(文治2)3月宣命に依り位階を賜ると所載有り。
又、往古より神明社と称せられたが、1871年(明治4)5月名古屋藩庁より本国神明帳に所載するにあたり、乃野神社と神号を訂正する。豊受比賣命またの御名を萓野比賣命と申し、往古より当跡力蓬ノ繁殖地なることよりしても如何二神慮ノ然をしむる所以なり。
1872年(明治5)村社、1908年(明治41)指定村社、1953年(昭和28)宗教法人認証、神社本庁所属」

外観から想像できなかったけれど、1186年(文治2)には既にこの地に鎮座する長い歴史があるようです。
「蓬ノ繁殖地」のくだり、繁殖地とあるけれど、この辺りで蓬湯や蓬餅は見かけますがよく分からない。
蓬(ヨモギ)は食品や湯舟に入れたり、屋外で応急の止血としたり身近なハーブ、昔の生活には有難い自然の恵みだったのか?、今は雑草と思われているかも。

f:id:owari-nagoya55:20200217110833j:plain本殿左に「天照皇大神神武天皇遥拝」の石標。
目の前に広がる海、その対岸は伊勢神宮なので遥拝所なのでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200217110855j:plain素朴な外観の拝殿。
一対の狛犬が本殿を守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20200217110916j:plain昭和初期に奉納された狛犬
街中で見かける色白のものとは違い、日焼けした色合いをしています。

f:id:owari-nagoya55:20200217110934j:plain拝殿から本殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200217110954j:plain全貌は窺えませんが、本殿は外研ぎの千木と鰹木が施された流造の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200217111015j:plain砂場のような境内全景。
ベンチもあり、潮騒を聞きながら子を遊ばせ、神さまと共に見守るには絶好の場所。

f:id:owari-nagoya55:20200217111036j:plain境内から南の鳥居の眺め。
穏やかな山海港の先は伊勢神宮

f:id:owari-nagoya55:20200217111056j:plain国道脇のスイセンが春を告げています。

『乃野神社』
長い歴史を持つ潮の香りが漂う素朴な神社
創建 / 不明(1186年(文治2)以前?)
祭神 / 豊受比賣命
境内社 / 津島社/庚神社、子安社/山神社、海神社/金刀比羅社、津島社、御嶽社
住所 / 知多郡南知多町大字山海橋詰52
車アクセス / 南知多道路「南知多」ICから内海方面へ​国道247号線経由つぶて浦・荒熊神社経由で15分程

「蔵王山 延命閣 地蔵院」

名古屋市北区大杉1「蔵王山 延命閣 地蔵院」

f:id:owari-nagoya55:20200215191342j:plain 名鉄瀬戸線尼ケ坂駅」を起点に周辺を歩いて見ました。
最初の目的地は駅から徒歩5分程の「蔵王山 延命閣 地蔵院」。

f:id:owari-nagoya55:20200215191415j:plain 「尼ケ坂駅」の南側道路の前に街中にしては大きめの公園、ここは「尼ケ坂公園」。
入口の二つの石には公園の紹介、尼ケ坂の地名の由来が記されたプレートが埋め込まれています。

f:id:owari-nagoya55:20200215191438j:plain 上は公園の紹介
「出会いの杜 尼ケ坂公園
 この付近は、名古屋城から見て北東の位置に当たり、古くは名古屋城の鬼門を守る"鎮守"とされていました。
今もなお、片山神社をはじめとして、長久寺、普光寺、久国寺など神社仏閣が数多く点在しています。
その中で片山神社はその昔、"片山蔵王権現"と境内一帯の緑は"蔵王の森"と呼ばれ、名古屋を代表する杜の一つとして有名でした。 現在では名古屋市緑地保全地区に指定されており、地域に息づく身近な自然との"出会いの杜"として親しまれている。」

下は尼ケ坂の地名の由来
尼ケ坂地名むの由来と伝説
片山神社に西から登るなだらかな坂道と、東から登る急な坂道があります。
それぞれ"尼ケ坂"、"坊ケ坂"と呼ばれていますが、江戸時代この地に住んでいた"権現小町"と呼ばれる美人の村娘と高位の青年武士の悲話が地名の由来伝えられています。 "尼ケ坂"はその昔、樹木が茂る中を縫うような薄暗い道で、坂上の名古屋台へ向かう通路として"尼ケ坂近道"とも呼ばれていました。 当時は、辻切りが多く出没し、通行人が被害を受けることもしばしばでした。 公園の西にある"地蔵院"は、その霊をとむらうようにと、久国寺の住職が、寺の門前にあった六地蔵の内一体をここに移して祭ったのが初まりといわれています。 名古屋市史跡散策路では、このような地域の歴史を紹介しています。 一度歩いてみてはいかがですか。」

なかなか分かりやすく書かれ、この散策路をトレースする感じでしょうか。

f:id:owari-nagoya55:20200215191505j:plainプレートに書かれていた片山神社と蔵王の杜は文政(1818年~1831年)に纏められた「尾張名陽図会」に絵として残されていました。
本殿の左上に「尼ケ坂」とあります、当時はこのような場所だったということです。
尼ケ坂の駅は本殿の右の崖下に位置します。

f:id:owari-nagoya55:20200215191528j:plain 現在は右の片山神社と左の尼ケ坂公園の間は、切り開かれて車道と歩道が作られています。
道路脇の擁壁の高さは名古屋台地と北の平地の高低差を物語っています。
写真は下が尼ケ坂駅方向にあたります。
因みに道路の上にかかる歩道橋から神社と公園を行き来することができます。
地蔵院はここから西の坂を下ったところになります、尼ケ坂を足で感じることになります。

f:id:owari-nagoya55:20200215191556j:plain 坂を下ると右手に先ほどの尼ケ坂公園と駅が見えます、坂を体感したくない方は公園から直接アクセスできます。
歩道橋先の杜の間から片山神社の本殿も見えています。

f:id:owari-nagoya55:20200215191618j:plain 「蔵王山 延命閣 地蔵院」全景。
尼ケ坂の傾斜地にグレーのシャープな塀で囲まれた地蔵院が建つています。
同系色の瓦が葺かれた入母屋造りの堂は塀とマッチし、境内の地蔵にかけられた前掛けの赤が浮き立っています。

f:id:owari-nagoya55:20200215191642j:plain 東側に境内入口。
「南無延命地蔵菩薩」と書かれた赤い幟が並びます。

f:id:owari-nagoya55:20200215191705j:plain 境内左に手水舎、小さいけれど瓦で葺かれ重厚感が漂うものです。
鉢に清水は注がれていません。

f:id:owari-nagoya55:20200215191730j:plain 下り棟の鬼瓦に五三の桐が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200215191758j:plain 境内右に赤い前掛けと帽子をかけられた六地蔵
毛糸で編まれた赤い帽子、今年は雪もなく温かくていいよね。

f:id:owari-nagoya55:20200215191826j:plain 全て地蔵さんは少し首を傾げてやさしい笑みを浮かべている、一体一体その表情は様々。
還暦過ぎのおやじですが、目を三角にする表情も時にはある、災い除けの赤を身に着け、余分な力を抜いて自然な笑みを浮かべたいもの。

f:id:owari-nagoya55:20200215191853j:plain 堂の右の院号標は「蔵王山 延命閣 地蔵院」とある。

f:id:owari-nagoya55:20200215191922j:plain 堂の右脇に一体の地蔵が祀られています。
下半身は地の色が現れていますが、顔だけが妙に黒ずんでいます。

f:id:owari-nagoya55:20200215192119j:plain 個性を主張するかのように、この地蔵だけグレーの帽子をかぶり、六地蔵を見つめています。
久国寺から移された地蔵か?と勘繰りたくなりますが彼ではないようです。
六地蔵の幼い愛らしい表情とは違い、目をうっすらと開け、瞑想でもしているかのような顔つきの寡黙な地蔵さん。

f:id:owari-nagoya55:20200215192142j:plain 本堂の鬼瓦。
こちらにも五三の桐が入っています。

f:id:owari-nagoya55:20200215192205j:plain 堂に掲げられた山号額、これで「蔵王山」。
言われれば読めなくもない。

f:id:owari-nagoya55:20200215192229j:plain 堂内の眺め。
正面に小さな座像と奥に三体の地蔵が祀られています。
公園の由緒に書かれていた久国寺門前の六地蔵から移されたとされる一体は中央のものです。

f:id:owari-nagoya55:20200215192256j:plain 鬱蒼とした杜の尼ケ坂、通行人目当ての辻切りが出没しても何らおかしくない。
そんな蛮行の犠牲となった人の無念も残り、安らかに弔いたいと念じる気持ちが芽生えるのは自然だ。
久国寺住職から「君しかいない」と期待と願いを託され、単身赴任でやってきて責務を全うし続けた。
住職もさぞかし満足なことだろう。

薄暗い尼ケ坂を行き交った旅人から、今や周囲は開け明るい森に変貌し、駅を目指す通勤・通学の住民が行き交う、緑が残る閑静な住宅地となり辻斬りに逢うこともない。
変貌したとはいえ、ここで犠牲になった方々の無念を鎮めるため故郷には戻れる予定はなさそうです。


蔵王山 延命閣 地蔵院」
住所 /  名古屋市北区大杉1-21-8
公共交通機関アクセス /   ​名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」から南へ徒歩5分程​    

なんだかなぁ

煽るつもりはないけれど
不特定多数に感染し始めた「COVID-19」
発生国の国民の入国を制御できなかった水際対策、検疫、検査対象の設定など、国の全ての対応は桜咲き乱れる島国ならでは温い対応だったよね。
それぞれの現場の声、プロの声をどこまで反映した対応だったのか疑問が残る。

背景には観光立国として目先の経済への影響を懸念してのことだと理解できる。
目先の経済のために大きな代償を払った形です。もはや汚染国といっても過言ではない。

リーダーシップを取るべきトップはのらりくらりと真実を語れない。
取り巻きも体裁造りに終始し、今・将来の舵取りをすべき場が子供の口喧嘩の様な議論に時間も費用も費やされているのを目や耳にする度にこの国の将来に大きな不安を感じる。

人口ピラミッドの推移、出生率労働人口など統計は何十年も前から将来起きる事を示し、福島はワーストケースを示している。
方向を決めるべき備えるべき対応の時間をのらりくらり、税金、年金改革同様に国民負担のお願いばかり、お国の組織自ら前に出て痛みを感じる改革が必要なのかもしれない。
いっその事、福島や埠頭の前、埋め立て現場や被災地でも構わない、現場で議論すればいい。
都合が悪くなると入院、仕事をしないが給料はもらう、それでも組織が回るのであればそもそも要員過剰。リーダーが正直に話せない、現実を伝えられない今の組織から発信される情報の信憑性はいかほどか。お地蔵さんにごめんなさいと素直に言うか言わないかはルーレットで決める気だろうか。
国民自らが判断しなければならないようでは、この組織そのものが検疫対象。

f:id:owari-nagoya55:20200214225902j:plain

シュレッダーにかけずに速やかに正しい情報と健康保険適用を速やかに実行してほしいものです。

春の陽ざしを受け縁側からガラス越しに外を眺め、枯れ葉を掃除するおっさんに「今日は温かいね」と声かけ頂いても、外は風が吹いて寒いのよ。
生温さを感じるこの頃。

 

『武島天神社』

「上宿山神社」の南隣の​区画の角地に村社「武島天神社」が鎮座します。
番地で云えば城西5-16

f:id:owari-nagoya55:20200213215308j:plain北に「山神社」、手前に「武島天神社」の2社が視界に入る距離です。

f:id:owari-nagoya55:20200213215405j:plain南向きに二つの鳥居を構え、石畳の敷かれた参道は真っすぐ拝殿へ続きます。

拝殿左に覆屋が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20200213215430j:plain境内入口右に社号標「武島天神社」と刻まれています。

社名の頭の武島はこの辺りが武島梅の木と呼ばれた名残と思われますが、その後も五平蔵町、上宿六軒町、天神町編入を重ね、1980年に城西へ町名が変わる以前は泥町と呼ばれ土地柄を表しています。
その昔は名古屋台地の北端に建つ名古屋城を見上げるように低地が広がり、雨に見舞われるとすぐに湿地となる土地柄だったようです。
「武島天神社」は山神社と同様、現在の名古屋城深井丸付近に鎮座していたとされ、築城に伴い現在地に遷座したとされます。

f:id:owari-nagoya55:20200213215457j:plain社殿全景。

瓦葺で切妻造の吹き抜け拝殿。
境内には梅が咲き誇り、天神様を主張するかのようです。

f:id:owari-nagoya55:20200213215537j:plain境内左の手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20200213215603j:plain菅原道真を祀る天神社には撫で牛。

白い体に特徴的な黒い立派な角が生えています。

f:id:owari-nagoya55:20200213215656j:plain拝殿の右が社務所の様で、石畳は左の覆屋に続いています。

f:id:owari-nagoya55:20200213215727j:plain拝殿前の狛犬は彫が深く多少頭でっかち。

f:id:owari-nagoya55:20200213215757j:plain拝殿に掲げられた扁額は「武嶋天神社」とある。

鬼瓦に桐の紋があしらわれています。

f:id:owari-nagoya55:20200213215851j:plain拝殿から神明造の本殿は良く見通せます。

f:id:owari-nagoya55:20200213215917j:plain武島天神社由来

「勧造年月不詳、一説に応安元年1568という、万治4年(1661年)社殿修築、明治13年三月村社となる。
 祭神 少彦名命菅原道真とも伝えられる
例祭日 十月第三日曜日
古来の説によると、五穀豊穣の祈願は勿論、家内安全、殊に子供の無事な成長を祷る神という信仰が厚く、天神様即道真公となったものかと。
又戦前には古鏡の内に現れ給う菅公のお姿を心霊として発行した。
末社 天王社
熱田神宮津島神社秋葉神社のみたましろを受け町内安全、火難鎮䕶を祷る泥町一丁目、二丁目、三丁目それぞれの屋根神様。」
1661年(万治4)に社殿が修築されたととある、創建はそれ以前となります。
尾張名所図会に武島天満宮について記されていました。
「武島天満宮、山神の社の南にあり神前の古鏡に武島天満宮の文字あり、武島はもと地名にして今川氏豊の家臣等、たけしまに居住ありしよし・・・・・」
名古屋城以前の那古野城にまで遡るようです。

f:id:owari-nagoya55:20200213215949j:plain拝殿左の覆屋。

f:id:owari-nagoya55:20200213220018j:plain手前の灯篭は1915年(大正4年)の奉納。

f:id:owari-nagoya55:20200213220047j:plain覆屋の中に祀られた板宮造りの社が由緒にある末社の天王社。

元は泥町1丁目、2丁目、3丁目に祀られていた熱田神宮津島神社秋葉神社の屋根神様だとされます。
屋根神様は1600年頃から始まった名古屋独特ともいえる祭祀形態と云われますが、空襲や区画整理、建て替えに伴い極端に減ってきました。
屋根の上に屋根神が祀られた町の光景も、遠くない将来それも見る事が出来なくなるやも。

f:id:owari-nagoya55:20200213220116j:plain天王社脇の梅は今がピークを迎え、周囲にほのかに春の香りを漂わせています。

f:id:owari-nagoya55:20200213220145j:plain拝殿から参道入口方向の眺め、境内に彩りを与えてくれる梅もやがて桜にバトンタッチ。

『武島天神社』
創建 / 不明
祭神 / 少彦名命菅原道真
住所 / 名古屋市西区城西5-16-40