2022年が平穏な一年でありますように
鳥取県 伯耆(ほうき)國一ノ宮「倭文神社」
ここまで上ってきた道も社頭で行き止まり、道の正面に社号標が見える。
駐車場はこの辺りと、社頭左に2台ほど停められる。
安産岩
社頭に続く道の手前に大きな岩があり、その上に石の社が祀られています。
その右手には更に古そうな社が祀られていた。
その昔難産に苦しむ一人の妊婦が一之宮に願いをかけ日参したという。
以来この岩は安産岩と呼ばれるようになった。
上
夫婦岩
安産岩から社頭に向かう道沿いの左に二つの岩。
湯梨浜町文化財ガイドブックには以下のように紹介されていた。
「二つの岩は右の岩が女性、左の岩が男性を表わしているという。
一説によるとここで、夫婦の契りをかわし、安産岩で安産を願い、倭文神社でおはらいを受けるという、一連の夫婦和合から出生までの経過をたどることができると伝承されている」
下
倭文神社社頭
右に古い手水鉢、社号標、参道は緩やかに右に曲がる石段が続く。
スロープもあり車椅子の方に対する配慮もされている。
正面に刻まれた元号は宝暦(1751~1764年)とあり辰の字も見える、宝暦十年(1760年)に寄進されたもののようだ。
石の明神鳥居で額は「伯耆一ノ宮倭文神社」
柱には一宮大明神、享保12年(1727)の元号が見られ、手水鉢より少し古い。
古くから神仏習合し「一宮大明神」や「倭文大明神」など呼ばれていた名残がここに残っています。
鳥居は苔むしてはいるが、目立った罅もなく300年間風雪に耐えて来たとは思えない。
狛犬の寄進年は見ていないが、目や口など彩色された今時の姿をしている。
随神門
4本の棟持ち柱を持つ切妻の三間一戸の八脚門で、遠目に見ると素木の外観は人目を引く彩色もなく、一見地味に見える。
ところが間近に来ると、部材の至る所に繊細な彫が施され、興味の有る無しに関わらず訪れた者は必ず足を止め見上げる事だろう。
虹梁やらなにから見ての通りの彫が施され、雲の中で蠢く龍もいる。
棟梁や建立年度など分からなかったけれど、こうした彫は本殿も同様。
本殿の再建が1818年(文化15)と云われ、同時期あるいは1872年に造られたものだろう。
手先が不器用な自分からすれば、人の手によりこうした形にできる技術は神業その物。
見入ってやらなければ失礼と云うものだ。
社地は鬱蒼とした社叢に包まれている。
湯梨浜町文化財ガイドブックにはこうも書いてあった。
「記録的な初見は808年(大同3)に編纂された「大同類聚方」によると「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也・・・」と記載されている事から少なくとも平安時代初期には既に祭られていた事が窺えます」とあった。
更に
「940年(天慶3)以前は波波伎神社(伯耆神)が上位に列していた事から、どちらが伯耆国一宮かは不明だった。境内から発掘された伯耆一宮経塚の出土品の銘文(山陰道伯耆國河村東郷御坐一宮大明神)から、1103年(康和5)時点で倭文神社が伯耆国一宮だったことが明確となり、少なくとも平安時代後期には倭文神社が伯耆国一宮だった事が改めて判明しました(逆に言えば当初の伯耆国一宮は波波伎神社で何らかの理由から倭文神社に変更になったとも言えます)」
ここに出てくる波波伎神社は東郷池西方の倉吉市に鎮座し、ここから車で30分もあれば行ける。
とはいえ、伯耆国一宮参拝すら予定外で訪れた、二日目の大命題「鳥取砂丘を雨が降り出す前に見終わる事」を思うともうこれ以上西には向かえない。次のお楽しみとしておこう。
参道を進むと正面に社殿と左に手水舎が見えてくる。
訪れたのが2021/10/25、流行病も下火?と錯覚していた時期だった。
写真では大きさが伝わらないかも知れないが、小さなものではない。
後ろ足を立て、頭を下げて耳を伏せた前屈みの態勢は今にも飛び掛からんばかりのもの。
年代や石工等不明ですが、石の風合いから容姿には貫禄すら漂う。
拝殿は平入の入母屋造りで大棟後方右側に神饌所(?)が付く特徴のあるもの、そこから渡廊と流造の本殿に繋がっていきます。
倭文神社は1521~28年(大永年中)戦禍に巻き込まれ焼失、1600年(慶長5)にも焼失しているそうで、1625年(寛永2)に社殿再興、現在の社殿は1818年(文化15)造営とされ、1872年(明治5)随神門も造営された。
祭神は先の通り健葉槌命(主神)、下照姫命、外五柱(事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命)。
下照姫命が湯梨浜町宇野に降り立ち、御冠山中腹に祭られるようになったのが始まりと伝えられ、下照姫命が安産普及に尽力を尽くした神という事から、安産に御利益があり、一時期に於ては主神とされた頃もあったようです。
社殿全景、この位置でも本殿の姿は見ることが出来ません。
上
左側から見る拝殿。
下
拝殿から本殿の眺め。
三間社流造の本殿は3本の鰹木、外削ぎの千木が付き、光物の少ない素木の外観は随神門同様落ち着いた外観。
虹梁、木鼻、妻壁等は随神門で見たあの彫が施されています。
朝もやに包まれているようですが、落ち葉焚きの煙が漂い絵がぼんやりしてしまった。
上
本殿後方で見かけた石塔、年代は不明。
下
社務所。
受付前の時間でしたが快く御朱印を頂けました。
社務所から随神門方向に少し戻った左側に燈籠があり、山中に続く道が伸びています。
「境内から発掘された伯耆一宮経塚」とはこの山道を5分程登ったところで発掘された。
上り口に「伯耆一ノ宮経塚」の解説板があり、それが目印。
最初は石段が付いていますが、すぐに下の様に階段のない地山の坂に変わります。
枯れ葉が積もり気を抜くと滑りやすい道です。
「伯耆一ノ宮経塚」
参道から続く山道を5分程上った小高い尾根の頂にポッカリと開いた窪み、周囲は注連縄で結界が張られ
たその場所が経塚。
伯耆国一ノ宮経塚は1935年(昭和10)に国指定史跡に指定されています。
高く聳える樹々が経塚の周囲を取り囲み、境内以上に静けさが漂う。
上
「伯耆一ノ宮経塚」
この地は古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と伝えられていた場所。
「元旦の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。
経塚の築造は平安後期、神仏混合の時代で伯耆一ノ宮にも神宮寺が幾つか建立されていたという。
経塚の発掘は1915年(大正4)に行われ、伝承に従い地元の人々により発掘が進められた。
そこから直径16㍍、高さ1.6㍍の経塚が発掘され、経筒には1103年(康和5)の銘と共に京尊という僧が、何れ弥勒菩薩が出現するので、それまで功徳を積んでおく必要性を説いています。
石棺は長さ1.2㍍、幅0.9㍍、高さ0.5㍍の安山岩製で棺内には出土品と共に荒砂が敷き詰められていたといいます。
経筒以外の出土品は観音菩薩立像(白鳳時代)、千手観音菩薩立像(平安時代)、弥勒菩薩立像(平安時代)の他に銅鏡、瑠璃玉、短刀、銅銭等が発見され、何れも1953年(昭和28)に国宝に指定されています。
下
経塚の右にはそれを見守る様に石仏が安置されていた。
色々な言い伝えがあるけれど、頭から「ナイナイ」と決めつけられないようだ。
東郷池を渡る白蛇や町史にあった「境内は蛇が多く、倒壊した御神木の中は空洞で、蛇の巣・・・」など
「ナイナイ」では決めつけられないかもしれない。空を覆う黒雲や鬱蒼とした社叢など雰囲気は整っているようだ。
今にも泣きそうな空模様、龍が下りてくる前に鳥取砂丘に向かう事にする。
「新美南吉生家・秋葉社」半田市岩滑中町
2021/9/24、久し振りの知多四国巡礼と見頃の過ぎた?曼殊沙華の群落を写真に収める目的でこの地を訪れました。
札所巡りも光照寺で一区切り、次の目的地矢勝川に向け光照寺から西に向かい、阿久比川を越え県道264号線をひたすら北上します。
やがて歩道脇に「南吉童話の径」の看板があり、そこから細い路地が左に伸びています。
光照寺から概ね40分程。
今回はこの通りに残る南吉生家とその前に鎮座する秋葉神社を取り上げます。
この周辺には南吉生家の他、所縁のある寺社が集まっていて、その先は彼岸花で知られる矢勝川に続きます、なかなかスイ〃とは進めない。
この辺りの通りの細い道筋は亀崎から半島西側の大野を結んでいた大野街道。
写真は県道から大野街道に入ったすぐ右にあるのが「新美南吉生家」
街道沿いには簓子塀の建物はところどころに点在しています。
切妻、瓦葺で簓子壁のレトロな建物。
ここが童話「ごんぎつね」などの作者新美南吉の生家。
本名は新美正八、1913年(大正2)に父渡辺多蔵、母りゑの次男としてここで生まれました。
正八を生んだ4年後母親は他界し、その2年後父親が再婚、継母志んとの間に異母兄弟が生まれた。
街道沿いから見る生家は平屋の様に見えますが奥は二層構造で北垂れの斜面を利用した造り。
街道側の右の間口が父親が営んでいた畳屋、左が志んの営んでいた下駄屋と生活必需品をターゲットにした多角経営をしていたようだ。
やがて母りゑの実家の跡継ぎが不在のため正八は新美家に養子に出されることになったが、当時は跡継ぎとなる長男の養子縁組は禁止されていた時代だった。
りゑの実家の跡継ぎ問題を解決するため取られた大人の都合は、幼い正八にとって衝撃的なものだったに違いない。正八八歳の時だと云う。
新美家を継いだ正八は、1932年この地を題材にした代表作「ごん狐」を世に送り出す事になる。
イベントで何度か生家の内部を見学する機会があったが、自分の幼い頃に見た事のある懐かしい展示品が置かれていたのを覚えています。
この生家は後に償却され一時人手に渡っていたそうで、地元の生んだ著名な作家の生家を保存するため市が買い戻し、復元されたものという。
入場は無料ですが内部の見学は建物左に掲示された連絡先に確認が必要。
生家の左には「新美南吉生い立ちの地」の石標が建ち、ここと写真の県道265号線沿いに建つ「新美南吉資料館」や「童話の森」など童話の舞台となった一帯の観光の中心になっている。
新美南吉生家の西側で道は二手に別れ、その角に秋葉三尺坊が祀られていました。
先を急ぎスルーしようとしたが、通りすがりに常夜灯の元号を見て参拝する事にした。
お洒落な住宅街の片隅に玉垣に囲まれ、社地が与えられている。
玉垣も社も綺麗なため戦後の街角に祀られた火伏の神、・・・と思っていた。
右手の常夜灯には大きく「文化五年」と刻まれていた。
当時とまではいかないけれど、明治中頃の当地の地図が上。
残念ながら鳥居の印は掲載されていないけれど、当時の岩滑集落東端に位置し周囲は水田が広がっていた。社は集落入口に鎮座している事が分かる。
今では引いた写真も撮りにくい程お洒落な家が立ち並んでいる。
矢勝川両岸は今も当時の面影が残るが、堤から少し離れた地域の移り変わりは驚くほど。
ごん狐の舞台となったこの地も姿を変えようとしている。
常夜灯左手の小さな解説板には秋葉社の由緒が語られていた。
火伏の神秋葉三尺坊権現を信仰する秋葉講の信者により1808年(文化5)に建立した常夜灯。
今から二世紀前の先人たちの思いから勧請されたもの。
現在は電球ですが1955年(昭和30)頃までは講中の家々が交代で灯明を灯していたという。
石段は岩滑の子供に達がヨモギの葉を潰し団子にする「草つき遊び」などの場だったようだ。
新美南吉の小説にも登場するらしく、幼い頃の正八もこの常夜灯は遊びの場だったようだ。
正八が八歳の時、ここで遊んでいると継母志んに呼ばれ、そのまま隣村の母の実家新美家に養子に出されたという。
自分自身も幼い頃に両親の離婚、再婚を経験しているだけに、八歳の正八の心情は察するに余りある。
29歳の若さで他界した新美南吉、幼い頃の遊び場となった舞台の一つが今も生家の傍に残っている。
秋葉社の二股を左に進むと直ぐに八幡社の社頭、その前の路面に案内プレートがある。
目的地は矢勝川、進路は八幡社を経て写真の常福院方向に向かう事にした。
2021/9/24
新美南吉生家
所在地 / 半田市岩滑中町1-83
秋葉社
創建 / 不明
常夜灯 / 1808年(文化5)
祭神 / 秋葉三尺坊権現
所在地 / 半田市岩滑中町2(新美南吉生家の斜め向かい)
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半田市 「開運山 光照寺」知多四国八十八箇所十八番札所
乙川八幡神社を後に西方向へ徒歩で5~10分程の所に知多四国八十八箇所十八番「光照寺」は鎮座します。
道のりは相変わらず見通しの効かない狭い道ばかり。
上は光照寺南側の鐘楼門前の通りの写真。
境内入口脇で見かけた「知多四国霊場道標」、☞十九番「光照院」までは十三丁と彫られています。
1丁が約110㍍なので約1.43㌔、20分程の道のりか。
鐘楼門、入母屋瓦葺の四脚二層の門。
道路から見る門は、見る者に覆いかぶさってくるようでもある。
鐘楼門正面。
扉の様に見える袖壁が四脚其々に付けられ、軒先の深い屋根は鳥が羽を広げたよう。
石段から境内の眺め、目の前に本堂は見えています。
境内から見た鐘楼門、45度方向に付けられた袖壁が重心の高い門を支えているのがよく分かる。
無骨な鉄骨に比べると遥かに違和感もなく寺の佇まいに調和している。
過去に大きな地震も経験しているだけに学びの形だろう。
本堂全景。
庫裏、納経所は右手になります。
光照寺は1324年(興国3)源 親房の建立とされるようです。
その昔海岸線がもっと近かった頃は、過去記載した乙川八幡社付近の海岸に鎮座していたという。
沿革は
1324年(興国3)源 親房により建立。
1555年(弘治元年)天誉白応和尚により復興再建。
1781~1788年の天明年間に自然災害で伽藍を失う。
1811年(文化8)堂宇建立。
1980年(昭和55)庫裏改修、2003年(平成15)に本堂改修
宗派は時宗で本尊は阿弥陀如来。
本堂、賽銭箱に三つ引きの紋が入る。
本堂左から廻廊が続き観音堂と繋がっているようです。
観音堂としては立派な方型の二層屋根の造り。
1811年(文化8)、廓山和尚により本堂はじめ庫裏等が建立されますが、この時観音堂は塔として建てたかったようですが、当時寺格の高くない寺に塔の建立は許されなかった。
塔の建立を捨てきれず、当時尾張徳川家の付家老だった成瀬隼人正家に懇願、「ひさしをつければ塔にあらず」の言葉をもらい建立が許されたのが観音堂だという。
外陣には大きな奉納額や提灯が吊るされ、内陣中央の厨子に本尊の秘仏十一面観音像が安置されている。
この本尊はその昔、亀崎沖で漁師の網にかかったものと云われ、それをここに安置したという話が残るそうです。
正直理解に苦しむ話ですが、こうした言い伝えは各地で耳にします。
そうした数だけ戦禍や自然災害が起きていたのだろう、素直に解釈して「昔の海や川には沢山の仏像が流れていた」という事だろう。
弘法大師像は内陣左に安置されています。
観音堂左の不明社、ここでは氏子社としておきます。
鐘楼門に続く境内南側に二つの祠があります。
右の地蔵堂は「清水次郎長地蔵尊」、左が六地蔵堂。
清水次郎長所縁の地蔵尊とされ、以前は亀崎街道の県道沿い安置されていたそうで、時代の流れで居場所を失い光照寺に安置されたようです。
そもそも「亀崎に清水の次郎長さん?」となるだろうが、その昔の亀崎は海運業が盛んで舟の往来も多かった。
講談にも取り上げられる話で、八尾ケ嶽惣七の四股名の相撲取り、穂北の久六は博打が好きで十手持ちでもあった。
次郎長からも情けをかけてもらうなど親交があり世話になるも、ついにはその道にどっぷりと浸かっていき博徒として子分を持つほどの頭角を現していったという。
悪行の数々を働き、次郎長からも行いを改める様に再三警告を受けていた、久六は次郎長の名声や警告を嫉み、次郎長に有らぬ疑いをかけ捕縛を画策したという。
幸運にも逃げきった次郎長は、大政、森の石松、八五郎の子分を呼び、亀崎巡業に訪れていた久六を誘い出し、亀崎街道の現在の乙川駅付近で久六やその子分を襲撃、次郎長により右腕を切り落とされた久六は虫の息となった。
見かねた村人が久六を取板の上に乗せ光照寺に運びそこで息絶えたと云う。
1859年(安政6)のことだという。
六地蔵堂に安置されている地蔵達、どれだけの年月を重ねてきたものか、一部に表情は消えかけようとするものも安置されていました。
参拝を終え西側から光照寺を眺める。
成瀬隼人正家の粋な計らいで形になった二層の観音堂と鐘楼門が印象に残る寺だ。
2021/9/24
乙川の清き流れに佛を映せば胸の垢や落ちなん
開運山 光照寺
宗派 / 時宗
創建 / 1342年(興国3)
建立 / 源 親房
本尊 / 阿弥陀如来
札所 / 知多四国霊場十八番札所 / 知多西国霊場三十二番札所
所在地 / 半田市乙川高良町120(乙川八幡神社から徒歩約10分程)
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「七社神社」
今回は知多四国八十八箇所六十二番「洞雲寺」から次の札所への移動中、常滑市西阿野半月で見かけた「七社神社」を掲載します。
車道沿いの「⇦七社神社」看板に導かれ細い路地を進み社頭に向かいます。
右に「村社式外七社神社」の社号標、左に由緒書き。
一の鳥居から少し先に二の鳥居が見えます、そこから先の参道は鬱蒼とした森の中に石段の参道が続きます。
まずはこの辺りの地名「西阿野」について、西があれば東もあるのだろう、地図を見ていても見つからない、1970年に刊行された尾張国地名考の「西阿野村」を見ていると、「後世西の字を冠に置るは、郡内に同名出来たればればなり」とあった。
知多郡内に「阿野」の地名が二つ存在する事になり識別化のため、西を冠したのが当地で、東を冠する阿野は現在の豊明市内に存在していました、傍にはないはずです。
社頭の由緒書き
常滑市西阿野字半月263番地 七社神社
祭神
天照大神(天照皇大神宮)・伊邪那美命(熊野權現)・譽田和氣気命(岩清水八幡宮) ・ 廣国押建金日命(藏王權現)・天児屋根命(春日大神)・菊理姫命(白山神社)・菅原道真公(天満宮)
主なる祭典
例祭4月15日・祈年祭2月25日・新嘗祭11月25日・月次祭毎月1日
往古七社明神と称してた、1824年(文政7)七社明神に昇格、明治維新の際七社神社に決定。
1872年(明治5)9月村社に列挌、同40年12月神饌幣帛供進神社に指定される。
以来氏子の尊敬篤く今日に至る
ニノ鳥居
綺麗な外観は近年建替えられたようです。
鳥居の左に手水舎があります。
手水舎、鉢は龍不在で清水は満たされていなかった。
訪れたのは2021/11/20、彩りの寂しくなった参道に椿の赤が彩りを添えていました。
鬱蒼とした樹々が開け、広く明るい境内が広がります。
二段に石垣が積まれ、その上に社殿、右側に境内社が纏められているようです。
境内左に社務所があり、参拝中写真左方向から車が入ってきて社務所に出入りされていました。
車で乗り入れ可能なようですが、参拝者駐車場の表記はなかった事だけは書き留めておきます。
切妻平入の瓦葺拝殿、石段脇に狛犬が建てられ、狛犬後方の左右にも社標が建っていました。
年季のはいった風貌の狛犬、1922年(大正11)の寄進の様です。
拝殿全景。
素木で人目を引き付けるような飾りや彩色はなく、落ち着いた佇まいをしています。
拝殿から本殿方向の眺め。
殿内を見渡し、外部の瓦も見渡したけれど神紋は分からなかった。
拝殿右の境内社。
境内社
上段左が知立社と山神社、右が天神社、秋葉神社
下段左が塩窯神社、厳島神社、右が金刀比羅社、白山社
西阿野を見下ろす丘の頂に鎮座する七社神社社殿全景。
さて、1824年(文政7)七社明神に昇格まではともかく、この神社の創建は?となると辿り着けなかった。
「七社神社」
創建 / 不明
祭神 / 天照大神・伊邪那美命・譽田和氣気命・ 廣国押建金日命・天児屋根命・菊理姫命・菅原道真公
境内社 / 天王山津島神社・猿田彦神社・知立社・山神社・天神社・秋葉神社・塩窯神社・厳島神社、金刀比羅社、白山社
所在地 / 常滑市西阿野半月263
洞雲寺から徒歩ルート / 東へ15分前後
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鳥取県 伯耆(ほうき)一ノ宮の七弁天「宮戸弁天」
白兎川下神社のある「道の駅神話の里白うさぎ」から西へ、東郷池東岸に鎮座する伯耆国一ノ宮「倭文神社」までは移動時間は40分程。
やがて県道右手に大きな池「東郷池」が見えてきます。
「倭文神社」も随分と近づき、東郷池の地岸沿いを走っていて見つけたのが「宮戸弁天」
予定外ですが県道沿いの池畔に佇む小さな神社の姿に魅かれ立ち寄り参拝する事にした。
県道沿いにパーキングがあったことも立ち寄った理由の一つ、駐車余地がなければ恐らく立ち寄る事はなかっただろう。
杉の杜に包まれ、大岩が幾つも積まれた小さな神域。
宮戸弁天と呼ばれ、宮内の七弁天の一つが祀られています。
弁天様は御存知のように七福神唯一の女神、財福や知恵、長寿を授けて頂ける事で良く知られます。
とある、倭文神社参拝に向け、これは何かの導きなのかもしれない。
宮戸弁天は地元では古来から「一ノ宮の弁財天」と称され、祭神は七福神の一人弁才天。
いろいろ調べて見ましたが「東郷町史」に上記解説内容が記されていました。
しかし付近の7ヶ所とはどこなのか、いつから祀られていたのか等の詳細は分かりません。
ただ、唯一残ったのが「宮戸弁天」のみという事です。
町史によればかつては倭文神社境内にも小さな池があり、そこにも弁天が祀られていたとあります。
それは境内整備に伴い池を埋めたので廃絶したとありました。
唯一の弁天様という事でしょうか。
何れにしても池畔を背景にし、磐座のような岩の上に佇む社の姿は琵琶湖東岸の「藤ヶ崎龍神」に通じる神秘的な雰囲気が漂います。
現在は県道側から陸続きで容易に参拝が可能になっています。
社頭は杜で隠れてわかり辛いかもしれませんが、解説板から左に進むと石の明神鳥居が建っています。
島だった頃はここから上陸し参拝したのでしょう。
鳥居から先に複数の岩が組まれ、その上に社が祀られています。
その神域を包み込む様に杜が取り囲んでいます。
宮戸弁天本殿。
燈籠とか寄進年度を見れば良かったが忘れていました。
本殿域を包み込む杜。
本殿側面。
流造で千木は外削ぎで鰹木は4本、弁天様は確か琵琶を持った七福神唯一の女神です。
千木や鰹木で男神・女神の識別はやはり無理があるようです。
小さな社ですが木鼻、虹梁などにはしっかり彫が飾りが施されています。
池畔沿いに少し離れて見る宮戸弁天。
島だった頃、美しいと伝わる下照姫が、朝もやに包まれた水面にその姿を落とし釣りに興じる姿は幻想的だったろう。東郷池に佇む宮戸弁天の姿も下照姫の姿に通じるものがある。
倭文神社の祭神が下照姫命をはじめ、出雲系の神が多いことに由来する様で、東郷池には下照姫命のお使いといわれる白蛇がいて、弁天岩付近から対岸を往復していたという民話も残るそうだ。
この光景に水面を渡る白蛇、その姿はあまりいただけない光景かも知れないが、下照姫の隣で日がな糸を垂れるのは釣果が無くてもありかも知れない。
宮戸弁天
三諸杉 濁酒 危険でおいしいどぶでした
2021/12/21
奈良県へ薬師寺と唐招提寺へ訪れました。
いつもの様に地酒を求め徘徊した際、「本物のどぶろく入荷」の手書き看板を掲げた怪しい酒屋さんの前で足が止まる。
「本物のどぶろく」なんとも酒好きにはたまらないフレーズ、吸い込まれる様に店内へ。
本物の「どぶろくとはどれ?」とお姉さまに尋ねたところ勧められたのが下の「三諸杉 濁酒」
濁りじゃんと云うと、「いえいえ濁りとどぶの違いは・・・・」と巷に氾濫するどぶとの違いをしっかり説明してくれた。
それが出来るのであれば彼女の言葉に疑う余地はない。
よもや試飲などできないよねと聞くと「いえいえ・・・」
なんともありがたい、奈良の地酒を利き酒させてもらうことが出来、気に入った清酒一本とどぶを買い求め「取り扱い注意」で奈良を後にしました。
とにかくこのお酒、開栓時爆発注意、900ml瓶に750mlしか入れていないところなど見るからに恐ろしい。
爆発や吹き出しをさせる事無く無事に自宅の冷蔵庫に。
一晩冷やしていざ開栓、こうした脅し文句の類で文言に偽りなしの物にお目にかかったことがないだけに少し甘く見ていたかもしれない。
「取り扱い説明書」の作法通り開栓しシーソーの様にゆっくり傾ける・・・
甘く見ていた、あれほど余裕のあった瓶の空間は開栓した途端見る見る発泡し瓶口に向かう。
危険を感じ栓を締めると怒りは収まり元の位置へ、ならばと開けると再び怒り爆発。
これを数回繰り返し吹き出しが収まったのを見計らいシーソーの様に傾けてもろみとガスを混ぜ終わる。
どぶろくは濁りと似てはいるけれど酒税法上の表記が違います。
普段よく飲む濁りは「清酒」、どぶろくは「その他の醸造酒」、名ばかりのどぶは裏面の表記を見れば素性が分かる。「本物のどぶろく」の見分けはここ。
麹や蒸米を粗く濾したのが濁りで白濁しドロッとしています。
ろ過していないどぶはドロドロ、濾していないので当然酒粕も混ざっている、飲むと云うより食べる感覚かも知れない、多少酸味がある発泡性のドロドロの液体が旨い。
甘酒の感覚ですが酒粕を溶かした甘酒と違い、アルコール度数15度としっかり酔っぱらいます。
これを飲めばご飯はいらないかも。
ボトルに添付されたラベル。
開栓時の液の動きは正に生きもの、あのヘッドスペースも伊達じゃない。
「本当に気を付けてください」に偽りはなかった。
上は酒処きとらから配布されている注意書き。
ここまで書く理由もよく分かった。
飲んだ印象は上に書いたように、飲むと云うより食べる感覚の多少酸味がある発泡性のドロドロの液体。そこに旨味が混ざり清酒にはない素朴な味わいがあります。
各地に残る「どぶろく祭り」ではこれが振舞われ、人生初のどぶろくは白川郷でした。
以来無性に恋しくなりますが久し振りに元気のいいどぶと出逢いました。
今西酒造 三諸杉濁酒 危険でおいしいどぶでした。
西の京地酒処きとら(BEERSきとら)
所在地 / 奈良県奈良市五条町3-30(唐招提寺から東へ徒歩5分程)
URL / https://www.kitora.com/
今西酒造株式会社
所在地 / 奈良県桜井市三輪510番地
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