薩摩國 一之宮 枚聞神社

薩摩國一之宮 枚聞神社
北に池田湖と南に薩摩の名山開聞岳を間近に望む開聞十町に鎮座。

f:id:owari-nagoya55:20210116203040j:plain 手前の池田湖から開聞岳の眺め。
この池田湖は約5500年前の火山活動で陥没してできた、水深233㍍と非常に深い九州最大の湖です。
それだけにここには不思議なこともあるようで、1978年怪しい生物が湖面を泳ぐ姿を多くの方が目撃し、以降「イッシー」と呼ばれる一帯は盛り上がったそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210116203105j:plain 後方に優美な姿の開聞岳が迫る社頭の眺め。
右の道路は県道28号線で指宿枕崎線開聞駅方向に続きます。
枚聞神社は開聞岳御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には奥宮も鎮座するといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203124j:plain 朱塗りの一ノ鳥居は明神鳥居、そこから境内の眺め、ニノ鳥居、社殿まで見通せます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203144j:plain 鳥居には十六菊の門が入る。

f:id:owari-nagoya55:20210116203203j:plain 境内は広大で、左に小さな鳥居と手前は養生された土俵だろうか。
11月も終わろうとしている時期だけど、南国ムード漂うブーゲンビリアの濃いピンクが境内に彩りを添えていました。

f:id:owari-nagoya55:20210116203225j:plain 小さな鳥居の先は「頌徳碑(シュウトク)」
明治維新戊辰戦争から太平洋戦争による戦没者や郷土の発展に大きく貢献された方々を祀るもの。

f:id:owari-nagoya55:20210116203249j:plain 国道沿いの駐車場には日清日ロ戦争で出征した兵士を迎えた「凱旋門」が保存されています。
神社で出征祈願し国のため戦地に向かい、再びこの門を通り無事に戻れた事に感謝する。
凱旋門、未来永劫増やしてはいけない。

f:id:owari-nagoya55:20210116203307j:plain 境内からニノ鳥居から社殿の眺め。
朱塗りのニノ鳥居の両脇に御門神社(みかど)と左に手水舎があります。
右手に聳える太い幹の楠木の巨木が一際目を引く。

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 「枚聞神社のクスノキ
楠木の成長には目を見張るものがあります。
ここの楠木は樹齢800年を超すとされ、解説によれば幹回り7.9~9.5㍍、樹高18.0~21.0㍍とある。
広大な境内には千年を超す老木もあると云われ、こうした杜と開聞岳は神社の歴史そのものかもしれない。
今は静かな開聞岳ですが貞観年間(859~877年)の噴火では、枚聞神社は指宿市の揖宿神社に一時避難を余儀なくされた様で、その後に開聞岳北麓の現在地に遷座されたといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203358j:plain 御門神社と両部鳥居のニノ鳥居、勅使殿が良く見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210116203423j:plain 参道右に「宝物殿」と四つ割菊の紋が入る神馬像。

f:id:owari-nagoya55:20210116203503j:plain 社殿は正面に唐破風向拝のついた勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。

社伝によれば鎮座年代は遠く神代の創祀という。
古来薩摩国一宮として代々朝廷の尊崇厚く、特に島津氏入国の後は厚く崇敬され、1200年(正治2)の社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等行われてきた。
琉球とのつながりも深く、琉球王の名によって航海安全の神徳を奉謝して献納された額面が保存されているという。

鎌倉時代以降は新田神社と薩摩国一宮の地位を競った、戦国時代に島津氏家臣の頴娃(エイヒ)氏の庇護下にあったが、1571年(元亀2)の頴娃家の争乱「証恩寺崩れ」の巻き添えとなり社殿を焼失したが、神社は島津氏の庇護を受けてすぐに再興されたという。
島津氏は枚聞神社のクジにより様々な作戦を決めたとも云われ、現在の社殿は1610年(慶長15)に島津義弘が寄進、1787年(天明7)に島津重豪による改築を受けるなど島津氏の厚い崇敬を受けていた。

f:id:owari-nagoya55:20210116203447j:plain 本殿方向くと、本殿の屋根の上に御神体開聞岳を眺める構造になっています。
朱塗りを多用した社殿は、周囲の杜の中で強烈な存在感を魅せています。

f:id:owari-nagoya55:20210116203536j:plain 勅使殿
拝殿はこの先にあり、こうした建物は勅使殿といい、勅使門が変じたもので鹿児島県独特のものだという。
朱で塗られた社殿の中で勅使殿の唐破風向拝の木鼻や斗栱、蟇股など煌びやかな彩色とともに装飾は手が込んでいます。

f:id:owari-nagoya55:20210116203556j:plain 勅使殿天井に描かれた草花の絵も視線を引き付けます。
勅使殿から拝殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210116203616j:plain 拝殿後方に本殿の千木が見えるものの、入母屋造妻入とされるその姿は見られません。
本殿裏には玉垣で囲まれた「清所」と呼ばれている一角があり、中には地面に大小様々な大きさの石が敷き詰められているといいます。言い伝えでは豊玉姫の御陵だといわれているようです。

主祭神は大日霎貴命、その他に天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命を合祀。
航行の安全や漁業守護、交通安全の御神徳のみならず、この地を離れて暮らす親族の安泰を祈願するそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210116203639j:plain 勅使殿の左右に回り廻廊、長庁と呼ぶのだそうだ。右の長庁の先に小さな社があったが詳細は分からなかった。

開聞岳御神体として南麓に鎮座した山岳信仰から始まり、山の営みとともに北嶺の現在地に鎮座する枚聞神社。島津家の絶大な庇護のもと開聞岳を背に鎮座する姿は、薩摩國一之宮に相応しい佇まいを見せてくれます。

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2020/11/25
薩摩國 一之宮 枚聞神社
祭神 /   天照大御神
配神 /   天之忍穂耳命、天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 、熊野樟日命、 多紀理毘賣命 、狭依毘賣命、 多岐都比賣命
創建 /   不明、社記708年(和銅元年)
住所 / ​鹿児島県指宿市開聞十町1366
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