光春稲荷古墳の墳丘に鎮座する「光春稲荷社」

春日井市松新町、北にJR央線「勝川」駅があり、東に徒歩で10分も歩けば住宅地に囲まれた「覚皇山法岑寺」に辿り着きます。
目的地の光春稲荷社は臨済宗東福寺派の寺院「覚皇山法岑寺」の境内に鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210804095110j:plain車の場合は山門前に参拝者駐車場もあり、駐車場の心配はなさそうです。
山門右に幾つもの赤い鳥居がこんもりと盛られ、樹々が生い茂る一画に続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210804095134j:plain山門右に覚皇山法岑寺の寺号標と右に光春稲荷社の社号標(昭和10年健之)が建つ。
通りからも鳥居の姿は良く目に付きます。

f:id:owari-nagoya55:20210804095156j:plain上は1920年頃の当地、右がほぼ現在、北に中央本線、地図には入らなかったが下には庄内川が流れ、この辺りは小高い台地の上にあたります。
光春稲荷社はマーカーで示してあります。
この地図ではここに寺院や鳥居の印が現れるのは昭和43年になってからのことだった。
色々調べて見るも光春稲荷社や法岑寺について詳細は調べきれなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210804095217j:plain法岑寺境内から山門と左に光春稲荷社の鳥居の眺め。
法岑寺についてはもう少し調べてみて別途掲載する事にします。

f:id:owari-nagoya55:20210804095240j:plain鳥居から光春稲荷全景。
左の樹々に包まれた小高い部分の上に社殿が鎮座します。
このこんもり感は古墳の雰囲気が漂いますが、まさしくここは古墳。
この辺りは古くから人が居住し周辺では高御堂古墳や八事神明社古墳などがある。

なんですが、古墳の案内板などはなく、古墳の形もよく分かりません。
これから参拝しがてら古墳の面影が残っているか見ていきましょう。

f:id:owari-nagoya55:20210804095306j:plain赤い明神鳥居と扁額は「光春稲荷」とある。
この鳥居と、左の二カ所から拝殿に続くようです。

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奉納鳥居が続く参道は緩やかな弧を描き墳丘の上にある拝殿に続きます。
この鳥居の数からみても地元から崇敬されているのが見て取れる。

f:id:owari-nagoya55:20210804095435j:plain参道は二手に別れ、左に拝殿、真っすぐに進むと墳丘を周回できる。
前方に小さな社があるようなので墳丘を周回してみます。

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f:id:owari-nagoya55:20210804095528j:plain見えていたのは覆屋で、内部には小さな狛狐、それと・・・白蛇、リアルだ。

f:id:owari-nagoya55:20210804095557j:plain更に奥へ、拝殿の後方辺りにも一社。
墳丘斜面に祀られているため参道からだと見上げる位置になる。

f:id:owari-nagoya55:20210804095629j:plainこちらも稲荷社のようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210804095652j:plain本殿後方にも一社。
本殿域は丸い石を積み上げ階段状になっています。

f:id:owari-nagoya55:20210804095734j:plainこちらは狛狐と鳥居が安置されている。
何れの社に社名札は見当たらなかった。
ここから左に進み拝所に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210804095801j:plain拝所全景。
切妻の平入でシンプルで落ち着いた佇まい、両側の妻の下には大きな白い貝が飾られているのら視線が行く。まさかここから見つかったもの・・・そんなことはないか。意図あっての事だろうが分からない。

f:id:owari-nagoya55:20210804095826j:plain拝所正面にも狐が飛び跳ねている。

ここ松新町の光春稲荷社の詳細は分からなかったけれど、郷土史かすがいで「伏見稲荷の眷族の分霊をお祀りしたのが始まりとされます」
以下は「郷土史かすがい第21号」からの抜粋。

「1896年(明治29)、中央線の開発工事が開始されたが、名古屋から玉野附近までは濃尾平野の平坦地を通るが、そこから先は庄内川左岸に沿って進み、丘陵地にトンネル14を貫き多治見に至る難工事だったという。
この工事はいくつかの区域に分けられ、其々の請負い業者により工事が進められたようですが、業者間のトラブルが絶えなかったようで、ひと昔前の映画の様なダイナマイトや鉄砲まで使った諍いにまでなったたようです。
当時ここ勝川地区を請け負っていた組頭の栗田武右ェ門は、諍いの多い事に頭を痛めていたそうだ。
そんな中で線路脇の墳丘の下で狐の穴を見付け、ここにお稲荷さんを祀り信仰すればご利益があり諍いは収まるだろうと思ったそうだ。
1896年(明治31)、京都の伏見稲荷から分霊を迎えたのが光春稲荷の原点とされる。
その後も諍いは続き、武右ェ門はお稲荷さんへ日参したという、日参28日目に祈願の成果が表れ和解が成立したという。」

墳丘は狐のお山だったようだ、後方にあった小さな社もひょっとして複数あった狐の穴の前に祀ったものだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210804095857j:plain拝所から見る本殿、ここにも狐が。

f:id:owari-nagoya55:20210804095928j:plain一間社流れ造りの本殿全景。
小さいけれど木鼻や虹梁など手が掛けられたものです。
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今は想像できないけれど、諍いが絶えなかった当時、それを見かねた武右ェ門により祀られた光春稲荷社。
創建は近年の様ですがいい方向へ導いてくれるようです。
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拝所前の参道口、こちらが正参道なのか定かではないが、同じ方角に二つの参道を持つ神社も珍しいか。
墳丘の上に建つ光春稲荷社、武右ェ門と同じ悩みを抱える方は一度訪れて見てはいかがでしょうか。
2021/07/27

光春稲荷社
創建 / 1896年(明治31)
祭神 / 不明

光春稲荷古墳
年代・形状 / 不明
所在地 / ​春日井市松新町3-80
公共交通機関アクセス / ​JR中央線「勝川」下車東へ徒歩10分程
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