秋葉社(日比津2)から南西に徒歩約10分程度、外堀通り沿いに社頭を構える八幡社を訪れる。
八幡社に直接向かう場合は、地下鉄「本陣」駅から外堀通りを西に向かい15分程。
前回訪れた日比津2の秋葉社からだと南西に約10分程、多少遠回りになりますが、一筆書きで効率的に廻ろうと思うも、目的地を決め打ちしないと無駄に歩く事になる。
上は1920年の当地とほぼ現在の比較。
八幡社は既に当時から鎮座していたようで、明治の地図にも鳥居の印が記されている。
外堀通り沿いの社頭。
二本の街路樹の陰になり、その奥に立つ鳥居と参道は分かり辛いかもしれない。
本陣通り「八幡社」社頭から境内の眺め。
右手に八幡社社標(昭和3年)が立つ。
石の明神鳥居から参道先の拝殿まで随分と奥になる。
街中ということもあるのだろうか、杜と呼べるほど樹は生い茂ってはいないが、拝殿左右の聳え立つ二本の神木がシンボリックな存在。
八幡社伽藍全景。
住宅街にあって余裕をもった社地に拝殿・本殿、左右に境内社等の伽藍が建つ。
「名古屋市西区日比津町字南諏訪野
八幡社
祭神 応神天皇
由緒
勧請年月詳記なし。
日比津には往古乾屋敷の城、栗山城があり、下野守勝宣野尻藤松氏等居住したと古書に記載あり。
当時弓矢の守護神として祀られ、寛政乙卯年(1795年)以降の棟札8枚を寄進。
御神徳
応神天皇は筍飯大神の御子として御名誉田別尊と申し、御母神功皇后の三韓征伐の時、御胎内に宿して親しく見給はし御降誕の後、彌武勇優れ給い三韓愈々服従せしを以て御威徳を稱え、弓矢の神として特に武人の崇敬するところとなる。
例祭 10月4日、氏子数 508戸 、昭和6年10月」
燈籠の先に拝殿、右に境内社の津島神社と手水舎、拝殿左に御嶽神社が祀られている。
手水舎から伽藍全景の眺め。
拝殿は切妻造りの瓦葺で妻入、四方吹き抜けで格子が付くもの。
「八幡社
御祭神 / 応神天皇、神功皇后
例祭 / 大祭10月4日、歳旦祭1月1日
御神徳 / 家内安全、厄除開運、学問技術の向上、健康長寿
創建 / 昭和6年10月と碑にある」
拝殿前の狛犬は大正3年(1914)寄進のもの。
寛政乙卯年(1795年)以降の棟札に繋がる寄進物は見つけられなかった。
創建が昭和6年とあるのは当社で現存するエビデンスを基に書かれているものかもしれない。
栗山城(南北朝時代とも)城主とされる野尻藤松氏により祭祀されたとすると、勧請年月はかなり遡り1300年代には祭祀形態はともかく、この地に存在していたのかも知れません。
拝殿から本殿域を眺める。
拝殿側面と左の本殿方向。
本殿域。
板宮造りの社が一つ、この社に応神天皇、神功皇后の二柱を祀る相殿のようだ。
本殿域左の御嶽神社と霊神碑。
「御嶽神社
御祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命
御祭礼 / 大祭7月27~28日
手水舎。
手水鉢には大正2年と刻まれていた。
本殿域右の津島神社。
「津島神社
祭神 / 建速須佐之男命
例祭 / 7月1日
御神徳 / 家内安全、厄除開運、安産と母子健康
創建 / 不詳」
本殿域後方から鳥居方向の眺め。
雲間から青空が顔を見せるが霧雨の降る怪しい空模様、迷走台風が迫っていた。
中村区本陣通八幡社
勧請、創建年度共にどうもはっきりしないけれど、この周辺の氏神として多くの氏子達に支えられている神社だ。
八幡社
創建 / 不明
祭神 / 応神天皇、神功皇后
境内社
津島神社 / 創建 / 不明、祭神 / 建速須佐之男命