『八幡神社』

相野山 八幡神社
3月7日、岩崎御嶽山を訪れた際の帰り道に相野山の八幡神社に立ち寄った。

東名高速日進JCTから南東方向へ約1㌖程、周囲は農地が広がる相野山に鎮座します。
高速の先に見える小高い山が岩崎御嶽神社が鎮座する御嶽山
車なら10分程の位置になります。

JCTの建設以前は緑豊かな田園地帯の趣がありました。
随分すっきり造成され、あと何年かすればこちらにも住宅の波は押し寄せてくるのだろう。

相野山八幡神社社叢全景。
この陽気につられ、土筆が頭を出している姿も見られるかと思いましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。

相野山八幡神社社頭。
社叢南側に石の明神鳥居を構えた社頭があり、右側に「村社 八幡神社」の社号標が立っています。

「出没注意」だそうだ。
社頭から境内へは舗装された緩やかな参道伸びており、その先に僅かばかり石段がある。

参道の先に社殿が見えて…であればいいけれど、ここからでは見通せません。
やがて視界は広がり、その先に「イノシシが」だけは勘弁してもらいたい。
名古屋市内でも奴らは出没するだけに、農地の広がるこの一帯にいない訳がない。

石段まで来ると社殿が見えてきます。
広い境内の奥側に広範囲に石垣が積まれ、その上に社殿が建つ。
社叢の西側から車道があり手前の境内に駐車できるようです。

境内全景。
視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。
周囲をしっかり見渡す、幸いにも「イノシシ」の姿はない。

里山の頂の森を切り開き広大な境内が作られており、社殿域を囲う玉垣は広範囲迄取り囲んでいます。
由緒によれば、この地の始まりは慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から来た9軒の入植者により開かれた。
入住から10年後の明暦3年(1657)、須賀郡寺部より八幡宮を勧請したのが始まりで、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。
明治5年(1872)に村社に列格。
昭和37年(1962)に境内北の現在地に社殿を遷し今日に至るようです。
往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようで、広い境内はそうした事もあるのだろう。
祭神は応神天皇をお祀りする。

境内左の手水鉢。

社殿はこの石段の先に広がり、瓦葺妻切りの拝殿に幣殿が連なり、その先の流造の本殿が主な建物。

拝殿左に一本の桧が真っすぐに聳えているのが印象的。

拝殿全景。
木造拝殿は四方吹き抜けですが、妻側以外は腰壁で囲まれている事もあり安定感を感じる。
手前に狛犬が安置され、台座に寄進年も刻まれているようでしたが読み取れなかった。

本殿左側に境内社が纏められていました。

由緒
御祭神 応神天皇
例祭日 10月10日
慶安元年(1648)、三河各地より9軒の人々ここに入植し北新田の成立をみる。
うち4軒は来主渡辺氏の本拠たる三州賀茂郡寺部よりの転住者たりしため、入住10年の明暦3年(1657)9月、寺部の八幡宮をここに勧請、岩藤新田も氏子となり、当神社を両新田の氏神として今日に至る。
往昔は例祭に馬塔・棒の手を奉納す。
明治5年(1872)7月、村社に列格す。
昭和57年(1982)10月、社殿を少しく北方に遷し、祝詞殿、玉垣を新設せり。

境内左手の手水鉢。

拝殿前の狛犬

妻飾りに八の文字が刻まれていますが、鬼や軒丸などの瓦に紋は見られなかった。

拝殿から幣殿、本殿の眺め。

参拝を済ませ境内東から社殿側面を眺める。

本殿は檜皮葺きの一間社流造。

境内左に纏められた境内社


津島社。

左が鍬神社、右が熱田社。

境内社後方から社殿全景。

広々とした郊外の神社は陽射しは降り注ぎ、風が心地よく通り抜け解放感があり、いつ来てもいいものです。

相野山 八幡神社
創建 / 明暦3年(1657)
祭神 / 応神天皇
例祭日 / 10月10日
境内社 / 鍬神社、津島社、熱田社
所在地 / ​日進市北新町相野山1286
岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / ​東へ10分程​
参拝日 / 2023/03/07
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