武蔵一宮氷川神社から大宮駅東口に戻り、そこからバスに乗り氷川女體神社に向かいました。
一向にお腹も空かないので少し手前の染谷新道バス停で降車。
一向にお腹も空かないので少し手前の染谷新道バス停で降車。

写真は芝川に架かる宮後橋から、下流のさいたま新都心方向の長閑な眺め。
バス移動の際に中山神社最寄りバス停(片柳)を通過しましたが、時間の都合から今回は諦めました。
見沼田圃の散歩みちのひとつで、遡ってきた見沼代用水西縁沿いは桜並木が続き、花の時期にはさぞかし綺麗な事だろう。

バス移動の際に中山神社最寄りバス停(片柳)を通過しましたが、時間の都合から今回は諦めました。


見沼田圃の散歩みちのひとつで、遡ってきた見沼代用水西縁沿いは桜並木が続き、花の時期にはさぞかし綺麗な事だろう。
遥か昔はこの辺りまで海が迫っていたようで、一帯は氷川女體神社や磐船祭祭祀遺跡など見沼田圃の歴史に深く関わる見所が残されています。
武蔵一宮氷川神社でも現れた見沼ですが、ここ氷川女體神社へ歩いて訪れると往古の見沼の姿が見えてきます。
見沼の畔に突き出た台地の突端に氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女體神社が直線上に祀られており、その三社を氷川神社と捉える説があるのも、大宮の氷川神社を男体社、氷川女體神社を女体社として称する理由も分からなくもない。
石段脇に縁起が掲げられており、そこには以下のように記されています。
「武蔵国一宮 御縁起 (歴史)
武蔵一宮氷川神社でも現れた見沼ですが、ここ氷川女體神社へ歩いて訪れると往古の見沼の姿が見えてきます。
見沼の畔に突き出た台地の突端に氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女體神社が直線上に祀られており、その三社を氷川神社と捉える説があるのも、大宮の氷川神社を男体社、氷川女體神社を女体社として称する理由も分からなくもない。

石段脇に縁起が掲げられており、そこには以下のように記されています。
「武蔵国一宮 御縁起 (歴史)
当社は見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。
見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12平方キロメートルという広大なものであった。
この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。
見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12平方キロメートルという広大なものであった。
この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。
祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。
しかし、古来より続けられてきた御船祭は享保12年(1727) 見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。
このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同14年(1729)9月から斎行された。
下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。
社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹であることから、昭和56年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。
上に記された中山神社は今回訪れなかったが、地図上で三社の鎮座地を見ると一直線上に鎮座しており、三社を合わて氷川神社と云われると訪れておくべきだったのかも知れない。
境内左が社務所、参道の先が社殿、右側に龍神社と参集殿があり、社殿後方には複数の境内社が祀られています。
社地を包む杜は楠木、モチノキ、タブノキの他に多様な樹々で形作られ、樹齢が300年を越えるとも云われる杉の大木などが聳えています。
氷川女體神社は中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されているといいます。
拝殿は銅葺入母屋造りで千鳥破風、軒唐破風が付くもの。
本殿は全面に朱の漆が塗られた三間社流れ造りで、拝殿と相の間で結ばれた権現造りの建造物です。
「寛文七年銘棟札一枚 平成19年3月16日埼玉県指定有形文化財(建造物)
この社殿は17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿です。


境内左が社務所、参道の先が社殿、右側に龍神社と参集殿があり、社殿後方には複数の境内社が祀られています。



社地を包む杜は楠木、モチノキ、タブノキの他に多様な樹々で形作られ、樹齢が300年を越えるとも云われる杉の大木などが聳えています。

氷川女體神社は中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されているといいます。
拝殿は銅葺入母屋造りで千鳥破風、軒唐破風が付くもの。
本殿は全面に朱の漆が塗られた三間社流れ造りで、拝殿と相の間で結ばれた権現造りの建造物です。


「寛文七年銘棟札一枚 平成19年3月16日埼玉県指定有形文化財(建造物)
この社殿は17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿です。
一番奥にある本殿は朱塗りの三間社流造です。
三間社とは、正面の柱となだらかな曲線を描く「流造」となっています。
本殿と拝殿をつなぐ幣殿は間口の柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。
三間社とは、正面の柱となだらかな曲線を描く「流造」となっています。
本殿と拝殿をつなぐ幣殿は間口の柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。
屋根は切妻造の前方が長く延び、本殿に合わせ、屋根は切妻造で二方向に葺下しています。
拝殿は入母屋造で屋根の正面には、「千鳥破風」と、軒から起こり曲線を持つ「軒唐破風」が施されています。
拝殿は入母屋造で屋根の正面には、「千鳥破風」と、軒から起こり曲線を持つ「軒唐破風」が施されています。
現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年の社殿保存修理時に、古い杮葺が残存していることが確認されました。
寛文7年(1667)銘の棟札には、四代将軍徳川家綱が忍藩主阿部忠秋を奉行として「武蔵国一宮厳河女躰大明神社」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書「徳川実紀」には、その修理費用が三百両であったとも記録されています。
この本殿は埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物で幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。」
その社殿も当時のままで、現在は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。
同じ武蔵国一宮を冠する大宮の氷川神社神社と比較すると、規模の小さい社殿で参拝に訪れる人影が少ないのは意外、個人的にはこの佇まいの方が落ち着ける。
本殿の棟には4本の鰹木と内削ぎの千木が置かれ、拝殿から透塀で本殿が囲まれています。
その中の一つとして鎌倉時代金工品の優品として三文兵庫鎮太刀があり、刀と吊紐をつなぐ帯執りが針金で編んだ鎖となった兵庫鎖太刀で、多く寺社奉納に使われた。
この本殿は埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物で幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。」
その社殿も当時のままで、現在は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。

同じ武蔵国一宮を冠する大宮の氷川神社神社と比較すると、規模の小さい社殿で参拝に訪れる人影が少ないのは意外、個人的にはこの佇まいの方が落ち着ける。
本殿の棟には4本の鰹木と内削ぎの千木が置かれ、拝殿から透塀で本殿が囲まれています。

その中の一つとして鎌倉時代金工品の優品として三文兵庫鎮太刀があり、刀と吊紐をつなぐ帯執りが針金で編んだ鎖となった兵庫鎖太刀で、多く寺社奉納に使われた。
この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られ、社伝では北条泰時の奉納と伝えられ、全面に三鱗文が施されているという。
古社宝類のひとつとして、正応6年(1293)佐伯弘の銘がある飾鉾など、多くの文化財を所蔵する。
さいたま市の竜伝説に因んだ龍神様を祀る。
今は消滅した見沼の辺に鎮座する氷川女體神社には、14世紀より神輿を乗せた舟で沼の最深部に漕ぎ出して、見沼の主である龍神様に御船祭を執り行っていたと伝わり、享保12年(1727)に見沼新田の開発にともない、干拓後は磐船祭として現在まで執り行われている。
創建など詳細は不明ですが、祭が14世紀には行われていたと伝わる事や、女體神社の創建が崇神天皇の御代と云う事から、それよりかなり遡る事になるのだろう。
「伊勢参宮太々御神楽」とありますが各々の年代は未確認。
天神松尾合社・祭神 / 少彦名命、菅原道真
住吉明神社・祭神 / 大巳貴命
坂東神社・祭神 / 不明
石上神社・祭神 / 布都御魂、布留御魂、布都斯魂大神
拝殿前の燈籠は文化10年(1813)寄進のもの。
下
境内の力石。
重さは262.5㎏(70貫目)ある石で、昔の若者はこうした力石で自らの存在を誇示したようで、集落の娘はその姿を羨望の眼差しで見つめ、嫁に目娶られることを夢見る時代もあったようです。
それにしても262㎏に挑戦とは信じられないが、多くの力自慢が挑戦したのか石の表面は艶やかだ。
稲荷社(宇迦之御魂神)
下
稲荷社(宇迦之御魂神)
近隣の開発によりこちらに遷座して来たのだろうか。
神社から北西約500㍍程の住宅地の生活道路に石の明神鳥居が立っています。
古社宝類のひとつとして、正応6年(1293)佐伯弘の銘がある飾鉾など、多くの文化財を所蔵する。

さいたま市の竜伝説に因んだ龍神様を祀る。

今は消滅した見沼の辺に鎮座する氷川女體神社には、14世紀より神輿を乗せた舟で沼の最深部に漕ぎ出して、見沼の主である龍神様に御船祭を執り行っていたと伝わり、享保12年(1727)に見沼新田の開発にともない、干拓後は磐船祭として現在まで執り行われている。
創建など詳細は不明ですが、祭が14世紀には行われていたと伝わる事や、女體神社の創建が崇神天皇の御代と云う事から、それよりかなり遡る事になるのだろう。

「伊勢参宮太々御神楽」とありますが各々の年代は未確認。


天神松尾合社・祭神 / 少彦名命、菅原道真
住吉明神社・祭神 / 大巳貴命
坂東神社・祭神 / 不明
石上神社・祭神 / 布都御魂、布留御魂、布都斯魂大神





拝殿前の燈籠は文化10年(1813)寄進のもの。
下
境内の力石。
重さは262.5㎏(70貫目)ある石で、昔の若者はこうした力石で自らの存在を誇示したようで、集落の娘はその姿を羨望の眼差しで見つめ、嫁に目娶られることを夢見る時代もあったようです。
それにしても262㎏に挑戦とは信じられないが、多くの力自慢が挑戦したのか石の表面は艶やかだ。



稲荷社(宇迦之御魂神)
下
稲荷社(宇迦之御魂神)
近隣の開発によりこちらに遷座して来たのだろうか。

神社から北西約500㍍程の住宅地の生活道路に石の明神鳥居が立っています。
柱には安政2年(1855)己卯8月と銘が刻まれており、鳥居が寄進された年の10月には安政江戸地震が起きており、この辺りも強烈な揺れに見舞われた事だろう、外観に修復の跡は見られず、この鳥居は震災で倒れるのを免れたのだろうか、だとするとこの鳥居はなにかもっているのかもしれない。
今のご時世、鳥居にとって最大の脅威は地震ではなく車なんだろうか、柱の前後左右にはガードバーが設置され保存されていました。
最近夫婦ともども些細な起伏で躓いて転ぶことがある、倒れなかった?鳥居にゲン担ぎで触れさせてもらい氷川女體神社を後にする。
今のご時世、鳥居にとって最大の脅威は地震ではなく車なんだろうか、柱の前後左右にはガードバーが設置され保存されていました。
最近夫婦ともども些細な起伏で躓いて転ぶことがある、倒れなかった?鳥居にゲン担ぎで触れさせてもらい氷川女體神社を後にする。

氷川女體神社
創建 / 崇神天皇年間
祭神 / 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命
境内社 / 龍神社、今宮神社、神明社、坂東神社、石神神社、住吉明神社、天神松尾合社等
所在地 / 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1
参拝日 / 2023/09/26
大宮駅からバスで染谷新道まで / 約30分
染谷新道から氷川女體神社まで徒歩 / 約3㌔40分
関連記事 /
・武藏國一之宮巡り二日目「さいたま市」
・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)
・『武蔵一宮 氷川神社』 一ノ鳥居から三ノ鳥居
・武蔵一宮 氷川神社 (#2 神池から氷川神社社殿)